鷲の宮にて
維月は、維織として鷲の宮での二日目を迎えていた。
焔が言う通り、朝から一緒に庭を歩き、宮の中を歩いて、いろいろなところの案内を受けた。どこの鷲達も皆、維月の美しさと慕わしい気にうっとりと見とれ、心地よく思っているのが維月にも分かった。焔はなぜか、硬い表情で手を取っていたが、維月には特に気にならなかった。きっと、本当に妃に迎えるわけではないのに、こうして宮を歩き回らねばならないので、焔もその実はあまり気が進まないのだろうな、と思っていたからだ。
しかし、実際は違った。維月のことは、前々から慕わしいと思っていた焔が、何も知らないとはいえ維月自身がこうして自分の妃として宮を訪問する事態に、思った以上に我慢が利かなくなりそうで、怖いと思っていたのだ。
姿は変わらないが、この維月はとても礼儀に通じていて、身のこなしが美しかった。聞いたところによると、龍の宮で赤子からしっかりしつけられたのだと言う。ならば、こうなるのも道理だった。
どこを案内しても珍しげにキラキラと瞳を輝かせて自分の話を聞く維月に、焔は駄目だと思って押さえつけていたその気持ちが、また溢れ出て来るのではないかと緊張していたのだ。
一通り宮の中を回って来て、応接間の前まで歩いて来た焔と維月は、その中に準備されていた茶を前に、二人で並んで座って庭を眺めながら、話していた。
「本当に、龍の宮や月の宮とはまた違った趣で、大変に興味深いことでございました。こちらはとても面積が広くて、横に広いのでございまするね。」
維月が言うのに、焔は答えた。
「そうよな。龍の宮などは基盤が大変に頑丈で、上に何階も積んであるゆえ上にも広い造りであろうが、こちらは高いところでも三階しかないからの。横へと広がった造りなのだ。」
維月は微笑んだ。
「お庭も、また違った形で楽しめましてございます。龍の宮では、このようにずっと傾斜になっておるお庭ではありませぬから。」
鷲の宮は、高い急な山肌に沿うように横へと広く建っている宮なので、庭も必然的にその山肌にあったからだ。棚のようになっている僅かな土地を繋いで、上や下へと続くその庭は、どこからでも眺めはかなり良かった。あまり広くはないが、それでも無数のそういった棚を繋いだ庭は、維月も初めて見るものでとても面白かった。
「気に入ったのなら良かったことよ。客間の前にはまた、違った庭もあろう。戻ったら、歩いてみると良い。」と、脇に気配を感じてちらと見ると、そこには河が黙って膝を付いて頭を下げている。焔は、小さく頷いて維月を見た。「では、我は政務があるゆえ、本日はこれで。侍女に部屋へ送らせるゆえ、戻るが良い。」
維月は、立ち上がると焔に頭を下げた。
「では、焔様。これにて失礼致しまする。」
維月は、前後を侍女に挟まれる形で、部屋を出て行った。それを見送って肩の力を抜いた焔に、河が言った。
「誠に、いつお見上げしても心が沸き立つようなお美しさでございまするな。王に於かれましては、未だ緊張なされておられるご様子でございまするが。」
焔は、息をついた。確かに緊張しているが、きっと河が思っているような理由で緊張しているわけではないが。
「…ま、大事な預かりものであるからの。まだ嫁いで来たわけではないのだ。」
河は、焔を見上げた。
「ですが王よ、こちらへ来させたということは、月の宮王も暗に王がお手を付けられることを、許しておいでなのでは?喪中であられるので、お待たせするというので、このようなご配慮をなさったのかと。」
確かに普通ならそう考えるだろうな、と焔は思って苦笑したが、会合の間へと歩き出しながら答えた。
「いや、蒼はそのような王ではない。礼儀にはきちんとしておるゆえ、主らがどうしてもと申し入れたのを受けただけのこと。こちらも、その礼儀に反しないような行動をすると信じてのことなのだ。これからのことを考えても、我はここで相手の不信をかうわけには行かぬ。いくらあれが慕わしゅうとも、なので手を付けることなど出来ぬわ。」
河は、焔について歩きながらため息をついた。
「それはまた王も、我慢強いことでございます。こちらの宮では、一目でも維織様のお姿を見たいと、あのかたが歩かれる後を鷲達が目で追って、時には後を潜んで追ってまでおりましたものを。」
それを聞いた焔は、突然に立ち止まって河を見た。
「何と申した?ならぬ、この宮であれに何かあったりしたら…!」
焔の形相に、河は慌てて手を振って否定した。
「いえ!絶対に維織様には指一本触れさせませぬから!そのようなことは有りませぬ!王の妃になられるかたであるのに!」
焔は、じっと河を見た。
「確かに、この宮で月を捕獲出来るものなど居らぬがの。あれらは、実体は月であるから、あちらへ昇ることが出来るのだ。なので維織自体に何かあることはないであろうが、そんなことをした事実は残る。あれが月へ昇らねばならないような事態には、絶対にならぬようにせよ!蒼がそれを気取ったら、此度のこと、全て無になるぞ。」
河は、急いで頭を下げた。
「はは!絶対にそのようなことがないように、徹底致しまする!」
焔は、踵を返して再び歩き出した。維月の気には、誰も抗えぬ。ただの神が懸想したところで、あれを手にすることは絶対に叶わない。だが、それがわかっていながらも諦めることが出来ず、身を滅ぼすほどの想いに苛まれて狂わされるのは陰の月の力。自分は確かに、何と恐ろしいものを手中に置いておることか…。
確かに焔の知る太古の昔から、女は宮を、心ならずも乱して滅ぼすほどの力を持っているのだ。それが月であるなら、尚のこと…。
そう思うと、焔は自分の想いさえも、あってはならないものだと強く思った。
もう決して、王として後悔などしたくなかったからだ。
そんな焔の複雑な思いなど、今の維月には全く分からなかった。
体は大きくなったとはいえ、この維月には全く経験がない。なので、皆の深い思いまで、以前の維月ほどわかるはずがなかったのだ。
侍女達と共に回廊を歩いていると、そこからまた、棚のようになった庭の一つが見えた。どうやら、そこは回廊にくっついている庭で、他のところからは回り込まねば見えないようだ。鷲の宮の構造上、こういった狭い棚が幾つも繋がっているので、龍の宮のように、広い庭をどこまでも歩いて全て見て回れるわけではなく、隣り合っている庭と庭を繋ぐ道を歩いてそこへ行くことは出来ても、通りかたによっては全く目にしない庭もあるのだ。
どちらにしてもその庭は、今日維月が見ていない庭だった。
「こちらは花が多くて、美しい庭だこと。」
維月が言うと、先を歩いていた鷲の宮の侍女達が答えた。
「はい。回廊の横の庭ということで、皆様が目になさるとこちらは華やかな設えになっておりまする。」と、ガラスに近付いて指した。「奥へ参りますと、斜め下の庭棚へ移ることが出来まして、そちらには横の山からの滝があり、滝壺の回りが大変に美しいのですわ。」
維月は、身を乗り出した。
「まあ。とても興味があるわ。降りてみたいこと。今から参れるかしら。」
後ろから来ていた、維月の侍女はどうしたものかと顔を見合わせている。しかし、前を行く鷲の宮の侍女は、微笑んで頷いた。
「まあ、もちろんですわ。王妃となられるかたが、行けない場所などありませぬ。ご案内致します。どうぞ、こちらへ。」
維月がこの宮の庭に興味を示すことが嬉しいらしい。鷲の宮の侍女達は、脇の戸を開いて、維月に頭を下げた。維月は、嬉々としてその前を通ると、その庭へと足を踏み出した。
後ろを付いて来ていた侍女達が、慌てて維月に言った。
「まあ、維織様。焔様にお尋ねすることもなく、寄り道などなさっては…。」
しかし、鷲の宮の侍女達が振り返って言った。
「我が王の結界の中で、不都合など起こるはずはありませぬゆえ。案じられることはありませぬわ。それに、こちらは中庭で、王族でなければ入ることは出来ませぬ。お客様であっても、必ず王族のかたと共にと取り決められておるのです。大丈夫ですわ。」
鷲の宮の侍女達は、さっさと維月についてそこを出て行った。
維月の侍女達は、仕方なくその後を、急いでついて行ったのだった。




