違うとき
維心が居間へと帰ると、維月は何も知らずにスヤスヤとまだ、居間の大きな寝椅子で眠っていた。維心は思わず頬を緩めた…先見の画像の中で、記憶を戻した瞬間維月が維心に飛びついて口付けていたのを思い出したのだ。
維月は、やはり我を愛している。思い出しさえしてくれれば、以前のように、共に愛し合って…。
しかし、その後の悲劇を、維心は忘れてはいなかった。せっかくに戻った維月が、自分の目の前で維織を抱いて光に戻り、月へと打ちあがって行った。いつか会える、とだけ言い残し、黄泉へとたった一人で旅立って行った…。
維心は、眠る維月の横へと滑り込み、そっとその体を抱き寄せた。維月は、自分より維織を選んだのだろうか?いや、あの瞬間の維月には、維織が哀れだという感情しかなかったのだろう。自分の娘が絶望の中で黄泉へと向かうことに耐えられず、己の命を与えて世を去った。あんなことは、絶対に起こってはならぬこと。維心は、知らずに震えて来る手を止めようと苦労した。維月と離れるなど、一時でも耐えられぬ。まして世を異にしてしまっては、顔を見ることも声を聞くことすら出来ない。今、記憶がないのが何であろうか。炎嘉を愛しているのが何であろう。維月が生きてそこに居れば、それで良いではないか。維月さえ、同じ世に居れば…。
維心がそう思って目を閉じていると、維月の声が耳元にした。
「…維心様?」
維心は、目を開いた。維月が、目を覚まして維心を見上げている。維心は、微笑んで言った。
「起こしてしもうたか?良い、本日はここで休めば良いぞ。あと数時間で夜が明けるしの。」
維月は、維心の頬に触れた。
「いいえ、あの、どうかなさったのですか?お手が震えておりまする。」
維心は、まだ震えが止まらなかったか、と苦笑した。
「おお、気にせずで良い。少し体が冷えての。気を使って暖を取るのを忘れておったのだ。すぐに戻るゆえな。」
もちろん、維心は気温の調節を忘れることなどない。だが、維月は心配そうに維心を自分の気で包んだ。
「まあ。常はそんなことはありませんでしたのに。我の気で、少しマシになればよいのですけれど。」
維心は、維月の気が自分を包む心地良さに、思わず微笑みながら維月を抱きしめた。
「そのように気遣わずでも良いのに。だが、暖かいの。」
維月は、維心に抱きしめられて、前はそれがとても怖くて背筋が寒くなったのに、それが無いのに気がついた。もしかして…自分は、維心様を慕わしいと思うようになったのだろうか。
維月は、少し身を放して、維心を見上げた。
「維心様…我は、もしかして…。」
維心は、問いかけるような視線を維月に向けた。
「何ぞ?」
維心の瞳は、深い青色だ。維月は、その瞳の色に、いつも、赤子の姿の時から魅せられて来た。唇は、薄くいつも自分を律しているように引き結ばれている。維月は、その唇にそっと触れた。実は炎嘉と、夕刻まで庭を歩いていた時には、炎嘉が唇を寄せて来た時があった。だが、維月はそれになぜか応じる気持ちになれず、顔を背けてしまった。炎嘉は苦笑してすぐに退いてくれたが、それでも維月は、炎嘉にすまないと思ったものだった。だが、今この瞬間には、維心の事が嫌にはならない。もしも今、維心が自分に口付けて来たのなら、自分はきっと応じるのではないか…。
維月がそんなことを思いながらじっと維心の唇に触れて見ているので、維心は戸惑いながら黙ってその様子を見ていた。何をしているのだろう。なぜに、維月は自分の唇などをじっと見て…。
すると、維月はためらいがちに維心を見上げた。
「維心様…お嫌なら、我を突き飛ばしてくださいませ。」
維心は、何のことだろう、と目を丸くして維月を見た。
「突き飛ばす?我は主に、そのようなこと…」
次の瞬間、維心は固まった。維月の唇が、維心の唇に重ねられたのだ。
維月は、ためらいがちに維心から顔を離すと、まだ固まっている維心を見て、恥ずかしげに言い訳がましく言った。
「あの…あの、我は昨日、炎嘉様から求められて思わず顔を背けてしまいましたの。どうしても、応じる気持ちになれなくて。ですのに今、維心様にならば嫌でないような気がして…あの、それで…申し訳ありませぬ。」
維心は、それを聞いていろいろなことが頭を巡った。それは、維月が炎嘉より我を思うておるということか。炎嘉なら否であるのに、我ならば良いと。こうして、唇を合わせることが…。つまりは、父ではないのか。我は、維月の父であろうとせずとも良いのか。
「維月…ならば、我は主の父ではないのか?我を、否とは思わぬか。」
維月は、下を向いて小さく頷いた。
「はい…。知らずの間に、我は維心様を殿方として慕わしいと思うておるようでございます。」
維心の心は、歓喜に震えた。維月は、我を!記憶の無くして育てた我でも、維月は愛してくれるのか!
「おお!」維心は、維月を力いっぱい抱きしめた。「おお維月!我を慕わしいと!ああ待っておって良かったことよ…。」
最後の方は、維心は涙声になった。
「まあ、維心様…。」
維月は、そんな維心を抱きしめ返して、その胸に顔を埋めた。維心は、維月をそのまま奥へと連れ入ってしまいたい衝動に駆られたが、やっと心を開いて寄り添ってくれている維月に、そんなことをしてまた厭われてしまったらと思うと、怖くて出来なかった。なので、じっと大切に維月を抱きしめてただ幸福を感じていた。
そうして、じっと抱きしめていてハッと気付いた…大氣の先見、あれはどうだった?確か、維月は記憶を戻して初めて維心に口付けて来た。それなのに、今維月は、維心を慕わしいと言って身を摺り寄せている。そして、己から唇を重ねて来た…。
維心は、それに思い当たって、維月の髪を撫でていた手を、ふと止めた。どういうことだ…大氣の見た先は、これとは違うのか。そもそも大氣は、あれをいつ見たのだ。もしかして、先見をした後に何か別のことが起こって、別の未来になっておるのでは?我らは、その別の未来の中に居て、もしかして他の危険に晒されようとしておるのでは…。
維心が、目を見開いて虚空を見つめ、じっと固まったので維月が不思議そうに維心を見上げて言った。
「…維心様?どうなさったのですか?」
維心は、維月を見た。維月は、おそらくあの先見の中で見た維月とは、別の維月。先見とは、別の未来を歩いている、維月…。
「…なんでもない。」維心は、維月を安心させようと、無理に微笑んだ。「案ずるでない、少し政務を思い出しての。さあ主は、もうしばらく眠るのだ。まだ夜は明けぬ。」
維月は、頷いた。
「はい、維心様。」
そうして、じっと維心を見上げている。維心は、フッと笑うと、維月に唇を寄せた。
「記憶が無うても変わらぬの。そうやって、我を待つ。我が主を、どうしたいのか知っておるから…。」
維月は、真っ赤になった。口付けて欲しい、と思ったことを、維心に知られているのが分かって、恥ずかしかったのだ。
「あ、あの…無理には、良いです。」
維心は、下を向いた維月に、首を振って顎を持ち上げた。
「何を言うておる。我はいつなり、主の言いなりぞ。」
維心は、維月に口付けた。慣れぬように応えようと一生懸命な維月に、更に健気さを感じて慕わしく、このまだ中身は幼い維月に、このまま深く愛されてみたい、と思った。




