逃げない
炎嘉は、十六夜と共に維心の居間へと入って来た。その顔には、いつものようなひょうひょうとした感じは欠片もなかった…まるで、戦場で敵方と対峙して、最後の話し合いでもするときのような、そんな険しさを感じるその顔に、維心も炎嘉の覚悟のようなものを感じた。維心も我知らず険しい顔になって二人を迎えると、黙って側の椅子を示した。
十六夜が、心配そうな顔をしたが、すぐに真顔になり、先にその椅子へと座った。炎嘉も、しばらく抵抗するかのように棒立ちになったが、いつまでもそのままではいられないことは分かっているので、すぐに十六夜を追うようにその横へと腰掛けた。
維心も炎嘉も、黙ったままにらみ合っているので、十六夜がため息をついて口を開いた。
「…とにかく、話をしな。睨み合ったままじゃ何も解決しねぇ。維月は、いつになったら元へ戻るのかわからねぇんだし、今のままで落とし所を見つけるしかねぇだろうが。お前らは、協力し合って神世を正さないと親父に何をされるかわからねぇ立場だろうが。だったら、早めに妥協点を見つけておかなきゃな。」
それでも、二人はしばらく黙っていたが、炎嘉が重い口を開いた。
「…分かっておる。主がそう申すから、わざわざここへ参ったのではないか。断っておるのに、一週間も居座りおってからに。来ないわけには行かぬからの。」
維心は、それを聞いて十六夜が半ば強引に炎嘉を説得してここへ連れて来たことを知った。それで、仕方なく頷いた。
「出来るならこのまま騙し騙し時を稼ぎたかったが、そういうわけにも行かぬわな。我にも分かっておった。だがしかし、この一週間で我にも少しは覚悟が出来て参ったように思う。ちょうど良い時ぞ。」
十六夜が、少しホッとしたように言った。
「炎嘉が軟化したから、維心も恐らく心の準備が出来てるだろうと思ったのさ。やっぱりな。お前ら、似てるから。」
炎嘉は、それでも険しい顔のままで、言った。
「して?維月を娶るのだろうが。主が抱え込んでおるのだし、我は別に今まで通りで良い。さっさと維月に話して、己に惹き付けたらどうだ。」
維心は、炎嘉を睨んだ。
「…そのようなこと、簡単に出来るはずはないではないか。あれは、主を想うておるのだろうが。無理やりになど、我は望んでおらぬ。維月は頑固であるし、事を急ぐのは得策ではない。主こそ、維月を連れに参ったのではないのか。」
炎嘉は、維心を睨み返した。
「連れて帰るつもりなら、維月が成長したあの晩に連れ帰っておるわ。我は卑怯ではない…それに、愚かでもない。」
十六夜が、横から言った。
「愚かだって?何のことだ。」
炎嘉は、十六夜の方を見た。
「維月は、いずれ記憶を戻す。そうなったら、あれは主らの元へと戻るだろう。前の維月は、我に友人のような感情はあったが、愛してはいなかった。いくら我でも、そんなことぐらい分かっておったわ。だが、それでも良いと思うて年に二度でも側に置いて来た。我は維月を愛しておったからの。今、維月が我を愛したからと、側に置いたりしたら…」炎嘉は、言葉を切って、下を向いた。そして、幾分弱い声音になった。「…我を愛する維月を、知ってしまう。側に置き愛情を受けるその幸福を知ってしもうてから、一気にそれを失くすことを考えてみよ。いつ来るか分からぬその時に脅えながら、その幸福を身に受ける。我は…そんなものを知ってから失う怖さを思った。とても、耐えられるものではないと、判断したのだ。」
維心は、それを聞いて十六夜と顔を見合わせた。確かに、そうだ。
恐らく自分が炎嘉の立場でも、同じことを思っただろう。維月が、いつか夢から醒めることを知っているのに、一時の幸福を共に生きる。だがそれは、いつか突然に奪われる。それに脅え、愛する維月を目の前に、毎日を過ごすなど…。
考えただけでも、背筋に冷たいものが走った。とても、耐えられない。
「じゃあ…お前はオレや維心がつらいから身を退いたんじゃないのか。維月が思い出した時、自分がつらいから、維月を置いて行ったんだな。」
十六夜が言うのに、炎嘉は視線を落として頷いた。
「我はそこまでお人よしではない。もしも以前の維月が言うたなら、我は迷うことなく維月を連れて帰ったであろう。だが、我は怖かった…元に戻った維月が、我の元を去って行くことが。以前のように、ただ友人のように我を見て、同情ゆえに我に応える様に、戻ってしまうことが。愛情ある様を見ておったなら、どれほどの喪失感であるかと、恐れたのだ。」
維心も、それを聞いて視線を落とした。そんなことには、きっと自分でも耐えられないだろう。幸福であればあるほど、襲って来る喪失感は大きい。維月を失う…手にした後、維心が最も恐れたことだった。まして炎嘉は、これが一時的なことであることを知っているのだ。ならば、その幸福を知らない方が良いと炎嘉が判断しても、おかしくはない。
「…何年、維月がこのままであるのか、分からぬのだぞ?もしかして、ずっとこのままやもしれぬ。それでも、主は維月を手にすることを望まぬと申すか。」
炎嘉は、寂しげに微笑むと、首を振った。
「我は、偽りの維月など欲しくはない。主と同じように、以前の維月を待ち望んでおるのだ。今の維月は、何も知らぬ。ここまで、我らの間には何があった。様々なことがあったであろうが。我は、狂うたこともあったのだ。以前の維月は、全てを見て知っていた。それでも、我を受け入れてくれておった…同情であろうともの。あの維月しか、真実の我を理解しているとは思えぬ。愛されるのなら、あの維月に。今の維月も愛おしいが、それでもまだ、分かり合っても居らぬのだから。」
維心は、息をついた。炎嘉の言うことは、いちいち最もだった。確かに、炎嘉は維月を浚って気を遮断する膜に篭め、自分だけの物にしようと隠してしまっていた時もあった。あの後維月は、心に傷を負い、維心も十六夜も必死にそれをいたわって癒して助けた期間もあった。それでも維月は、炎嘉を許した。そうして、ここまでいろいろと共にやって来た。今の維月は、それを覚えていない。何も知らず、ただ親しく接して自分を大切に扱い、明るく饒舌に話す炎嘉を見て、惹かれただけなのだ。
炎嘉は、僅かの間に実に冷静に考えていた。維心は、自分が取り乱して暴れたことを、少なからず恥じた。維月が炎嘉を想っていると、冷静でいることが出来なかったのだ。
「…主には、敵わぬと我はいつも思う。」維心が言うのに、炎嘉が驚いたように維心を見た。維心は、苦笑して続けた。「驚くほどに冷静ぞ。我が、取り乱してここを破壊してしもうたのに比べて、主は冷静に事を見て判断しておったのだな。」
炎嘉は、それを聞いて、居間を見回した。確かに、所々新しくなっている。柱はびくともしていないようだが、それでも細かい傷は、注意深く見ると隠してあるものの残っているのが分かった。
炎嘉は、維心と同じように苦笑した。
「そうか、主ここで暴れたか。」と、十六夜を見た。「主も大変よな。どうせ抑えたのは主であろうが。でなければ、こやつが暴れたらこんなものでは済まぬからの。宮が崩壊するわ。」
十六夜は、呆れたように維心をちらと見てから、答えた。
「そうなんでぇ。こいつはまだ会合の後で残って宴に出てる神が居るってのに、ここで気を暴走させやがって。オレが膜を張ったから、これで済んだんだぞ。まだ他の所は、龍達が必死に修復してる最中なんでぇ。」
炎嘉は、笑って頷いた。
「さもあろうの。」と、立ち上がった。「さ、我は帰る。あまり長居しとうない。それでなくとも、維月と長く夜を共にしておらぬのに、こんなことがあって、更にお預けをくらっておる状態であるからの。今会うてあれに乞われたら、偉そうなことを言うておる我でも、我を忘れてしまうわ。それでは面子が立たぬだろう?」
維心は、軽く炎嘉を睨んだ。
「…別に。我とて、よう考えたのだ。維月が望むのなら、他の男に取られるぐらいなら、主ならば良いと、己に言い聞かせておったところ。別に、知らぬ仲でもないのだし。」
それを聞いた炎嘉は、意外だったらしく、片眉を上げて維心を振り返った。
「何と?主、本当にそう思うておるのか。それとも、ただの建前か。」
維心は、立ち上がって心外な、という顔をした。
「何が建前ぞ。我はいつでも本音であるわ。ただ…さすがに、連れ帰られたら、我とてつらいかと思うが…。」
炎嘉は、少し考えるような顔をした。
「…うむ。では、こうしようぞ。我は、娶る娶らない関係なく、時々に維月に会いに参るわ。もちろん、記憶が戻れば元の取り決め通り、年に二度南へ招く形に戻そう。だが、それまでは我はここへ来る。いくら知らぬ維月でも…我とて、会えぬのはつらい。それでなくとも、長く離れておるから、我とて…寂しい時もある。」
維心には、その気持ちが分かった。時々にしか触れられなくても、炎嘉はそれで我慢することを、自分の心の中で落とし所を見つけて無理に納得させていた。それなのに、維月を育てていた一年は、それが出来なかった。更に今、こんなことになっているのだ。炎嘉とて、寂しい時があるだろう。
維心は、炎嘉と維月が共に居ることを考えると心が騒いだが、それでも、頷いた。何より、維月がそれを望むだろうと思ったからだった。
「…では、それを許そう。我は今、維月の父でしかないようであるからの。父として、それを許すしかない。だが、維月が我を父ではなく男として見るようになったなら、この限りではないぞ。例え維月が元へ戻らずとも、これまで通りに戻す。それで良いの。」
炎嘉は、今日ここへ来て初めて心からの笑顔で頷いた。
「それで良い。我は、ただ維月と話して過ごしたいだけぞ。」
黙って聞いていた十六夜が、二人に遅れて立ち上がると、肩の力を抜いて言った。
「あーやっと落ち着いたか?」二人が自分を見るのを見て、両方の顔を見比べた。「今にも戦争でも起こしそうな顔つきだったのに、平和になったじゃねぇか。オレは元より、維月が幸せなら何でもいい。それに、維月はオレの事を、覚えてなくても信頼してくれてるからな。ま、せいぜい頑張れよ。」
維心と炎嘉は、同時に顔をしかめた。
「何ぞ、その余裕は。上から物を言いおってからに、気に食わぬ。」
炎嘉が言うと、維心も頷いた。
「ほんにそうよ。己が月で繋がっておるからと、横柄であるのだ、こやつは。」
十六夜は、飄々とした風に笑うと、歩いて部屋を出て行きながら言った。
「そうだよ、オレは月の片割れだからな。お前達みたいに、今の維月だの前の維月だの無く、どっちの維月もオレは大事だ。迷わねぇからさ。」
それを言われてしまうと、維心は何も言えなかった。だが炎嘉も、黙った。確かに、炎嘉も前の維月がいいと言ってしまっていたので、十六夜に言い返せなかったのだ。
十六夜は少し気分がよくなりながら、維心の居間を足早に出て行ったのだった。




