成長
その日の夜、赤子ではないので昨日までのように苦労もなく眠りについた維心は、夜半に苦しげな息遣いを感じて目を開けた。何事かと維月を見ると、小さな額に汗を光らせて、顔をしかめている。維心は驚いて、維月を揺すった。
「維月?!維月どうした?!」
維月は、はあはあと息を上げたまま、薄っすらと目を開いた。
「い…いしんちゃまの、ために、われは…おおきく…。」
維月は、そこまで言うと、また気を失うように眠りに入った。維心は、驚いて維月を見た。今夜も育とうと言うのか。これほど苦しんでまで、我が、早く育てと言うたばかりに…。
「おお維月!そのように急がずとも良いのだ。主がこのように苦しむのは本意ではない。維月、聴こえるか?良いのだ、苦しまずとも…。」
しかし、維月はそうして一晩中、維心の隣りでうんうん唸っていた。維心は気が気でなく、ずっと維月を抱き締めていた。
明け方、維心はハッとして目を覚ました。起きているつもりだったのに、いつの間にか眠ってしまったようだ。
慌てて腕の中の維月を見ると、維月は人で言う所の12、3歳ぐらいの姿になっていた。髪も長くなり、より元の維月に近くなっている。
維心が絶句して維月を見つめていると、維月がんん、と唸って目を開いた。
「…維心様。」
声は若い。だが、はっきりとした口調は、維月のそれだった。維心は、胸がいっぱいになって維月を抱きしめた。
「おお維月」と、その髪に顔をうずめた。「無理をして…もう、このように急に大きくならずとも良いのだ。主が苦しむ様を見ておるのは我もつらい。」
見た目はまだ子供だ。それでも、完全に維月の面影を宿したその顔に、維心は嬉しくて仕方がなかった。
「はい。我も維心様があのようにつらそうにご覧になっているのを、見ておるのはつらかったですわ。でも、ここまで大きくなれましたから、少しは子供ではないように見えるでしょうか。」
維心は、何度も頷いた。
「おお、主は立派な女神ぞ。だから無理をしてはならぬ。」と、起き上がって維月の手を取った。「昨日の着物は維織にやるしかないの。主のもの、また作らせねばならぬ。」
まだ、以前の維月よりは小さい。
維心は、そう思っていた。維月の着物を着せるには、まだ背丈が足りないのだ。だが、そんなことを言って維月が更に体を大きくしようと無理をしてはいけないので、維心はそれ以上言わなかった。
維月は、苦笑して自分の着物を見た。
「本当。小さ過ぎてこれでは居間へ出れませぬ。侍女を呼んでくださいませ。」
維心は、ためらった。維月は、これぐらいの時…いや、もっと大きくなってからも、これほどに思慮深い感じではなかった。成人してからも、どこかにお転婆な所が残っていて、それがまた維心に心配させる要因の一つだったのだが、この維月はこんなに幼いのに、普通の女神のように落ち着いたことを言う。
侍女が控えめに入って来て、維月を見て驚いたようにササと維心から隠すように維月を取り囲むと、隣室の維月の部屋へといざなって行く。
維心はそれを見送りながら、不安になっていた…自分が龍の宮で維月を育てているばかりに、維月の本来の性質が変わってしまおうとしているのではないか。いくら成長し切ったら本来の維月が目覚めるだろうと言われていても、それがいつになるのか分からない。もしかして、ずっとこのままだったら、変わってしまった維月に、自分はどういう思いを持つのだろう。愛しているのは変わらない。だが、心の底から前世今生と愛して来た維月が、居なくなってしまうのではないのか。もう、会えなくなるのでは…。
心の奥に生まれたその不安に、維心は抗えずに平静を装うのに苦労した。
それから、常に付いている必要がなくなった維月を居間に置いて、維心は普通に政務を行なっていた。十六夜はほどほどに乳母達に子育てを任せて、維心が居ない間大きくなった維月と話していることが多かった。
そんな十六夜は、維月がまだ子供で、やはり素直で快活なのだが、しかし以前の維月とは違い、女神のように淑やかであろうとしているのが気になっていた。これは維月なのだから、恐らく自由に動き回りたいはず。それなのに、この維月は十六夜が外の湖へ飛んで行こうと誘っても、輿でないと、と頷かない。宮の外へ行くにも、維心様に聞かないと、と言って奥宮から出たがらなかった。
「維月…維心はそんなこと気にしねぇよ。お前だって、こんな所でじっとしてるのは退屈だろう?」
しかし、維月は困ったように十六夜を見上げた。
「でも、我は維心様の妃になるのに。勝手なことをしては、維心様がどのように思われるかわからないから。」と、話題を変えようと思ったのか、続けた。「我は、維織と遊びたいわ。最近は維織も、我と普通に話せるようになったのよ。十六夜も、少し安心したでしょう。」
十六夜は、慎重に頷いた。確かに、維織は維月ほど劇的ではないものの、毎日毎日少しずつ育って、この半年で5歳ほどの大きさになっている。なので、最近では維月と遊ぶのを楽しみにしているのだ。維月は、まるで姉のように維織を可愛がっているのだ。
十六夜は、ため息をついた。
「…そうだな。じゃ、維織をここへ連れて来よう。」
維月は、ホッとしたように微笑むと、先に立って維心の居間へと歩いて行く。
十六夜は、これは一度、維心と話をしておこうと思ったのだった。
乳母が連れて来た維織と共に、奥宮にある広い応接室へと維月を送り届けると、そこで二人で、楽しげに話すのをしばらく眺めてから、十六夜は奥宮と本宮を繋ぐ回廊へと向かった。そこで、維心が戻って来るのを待つつもりなのだ。
維心が帰って来ると、維月はすぐに居間へと戻ろうとする。なので、その前にそこで維心と話そうと思ったからだった。
思った通り、維心は大きな戸を抜けてその回廊へと入って来た。その回廊は、片面が総ガラス張りになっていて、南の庭が見える。維心がそこへ入って来て、ちらと庭の方へと視線を向けた後に、十六夜の方へと視線を向けた。
「どうした?維月は庭ではないようだが。」
十六夜は、頷いて答えた。
「今、維織と応接間に居る。だがあいつは、お前が帰って来たら絶対居間へ戻るだろう。だから、ここで待ってたんだ。…話がしたい。」
維心は、息をついて頷いた。
「我も話したいと思うておったところ。維月が居るゆえ言えずにおったが、良い機会ぞ。」と、踵を返した。「参れ。ここでは維月が気取って迎えに出て参るやもしれぬ。あちらで話そう。」
十六夜は頷いて、維心について奥宮へ通じる回廊を出て、歩いて行った。
前を歩く維心は、本宮中央へと足を向けながら言った。
「維月は、何か言うておったか?」
十六夜は、ため息をついた。
「優等生だ。オレが宮の外へ連れて行ってやろうと言っても、輿がないとか、お前が何て言うかとか、そんなことを言って断る。まるで、既に大きな宮の妃みたいだ。」
維心は、それを聞いて視線を落とした。
「…やはりそうか。」と、中庭へと足を踏み出した。「こちらへ。」
十六夜は、黙って従って中庭へと出た。維心はしばらくそのまま歩いて、庭の奥の方まで来ると、十六夜を振り返って立ち止まった。
「ここなら、 誰も聞いておらぬ。」維心は、真剣な目で十六夜を見た。「我があのようにと育てておるのではない。自然、あんな風になったのだ。まだ子供の維月が、明らかに大人の女神のように振る舞おうと努力し、回りの侍女達から礼儀を習い、神世の常識を身に付けようとしている。確かに、他の宮の皇女達もあのように育つ。だが維月は…。」
十六夜は、頷いた。
「維月は今生あれぐらいの時、オレと外を飛び回ってた。禁じられることも無かったし、どこへ行くのも二人で空を飛んで。親父やお袋に叱られても、二人であっちこっち遊び回ったもんだった。やっぱり、維月はここで回りから影響を受けて、あんな感じになってるのか。」
維心は、頷いた。
「そうなのだろうの。我は維月をしつけたりしておらぬ。しつける必要が無いほど、維月は模範的な女神のようなのだ。特に問題などない。だが…。」
十六夜は、それを受けて言った。
「あれじゃあ維月じゃない。」十六夜は、身を乗り出した。「維心、必ず元に戻ると思うか?維月は、戻って来るのか。オレを見る目も、友達のお父さんでも見てるような感じだ。愛情なんか感じねぇ。確かにあんまり接してないし、世話もしてねぇけど、今まであった信頼を全く感じなくなって心配なんだ。あの維月は戻って来るのか…もしかして、他の誰かを愛するようになるんじゃ…維月はもう、戻らないんじゃ…。」
それを聞いて、維心は十六夜の不安が自分と同じなのを知った。
「十六夜…我とて維月から感じるのは、親に対する敬意や親愛で、口では妃になると申しておるが、実際はよう分かっておらぬのだろうと思う。このままでは、維月にとって我は親でしかない。元の愛情を、恐らくは望む事は出来ぬ。我も主と同じように、維月があのまま戻らなかったらと案じておるのだ。」
十六夜は、維心の言葉にますます不安になりながら、胸の奥から具体的に湧き上がって来る言いようの無い恐怖に、叫んだ。
「オレは…維織を殺したくない!維心、このままじゃオレ、維織を殺しちまうかもしれねぇ!親父のことを批判してたが、オレも維月さえ取り戻せるなら何も要らない気持ちになって来ちまってる…!」
維心は驚いて十六夜を見つめた。この、穏やかな慈愛の月の十六夜が。
「十六夜…」
維心は、十六夜のその様子に、同じように維月が戻らない、という現実を身近に感じて恐怖に駆られた。このままでは…維織が術を解かない限り、維月は元へ戻らないのでは…!




