知らない弟
有は、家で家事をしていた。
母がいつも、月の力を使って人の心が生み出す黒い霧を消しているので、そうやって家を離れる時にはいつも、家事を代行することで手伝っていた。
今日も、母は月の声を聞いて、少し離れた所に何かが落ちて来たと言って、それを見に出かけていた。夕暮れには車が混み合うので、電車で行くと言って出て行ったが、どうなったのだろう。
有は、夕飯の食器を洗い終わると、ほっと息をついて、流し台の生ゴミを持って勝手口から外へ出た。
いつものポリバケツを開けてゴミを放り込むと、目の前に何かの気配がして慌てて顔を上げた。黒い霧が発生しているのかも?!
しかし、そこに立っていたのは、見覚えのある顔立ちの、着物姿の30代ぐらいの男だった。
「え…どなた?うちの庭ですけど。」
有は、思わず言った。すると、相手はホッとしたように答えた。
「良かった、見えるようにしているけど、力落ちてるからどうか分からなかったんだ。有、オレだよ。分かるか?」
有には、心当たりがあった。でも、その心当たりは今、リビングで裕馬とテレビを見て大笑いしている。なので、首を振った。
「いいえ。だって、あっちに居るのが蒼だもの。あなたは似ているけど、もっと年上じゃない。」
蒼は、有に一歩近付いた。有は、驚いて勝手口の方へ足を向けた。蒼は、必死に留めようと話続けた。
「オレを蒼だって分かるんだな。あのな有、時間が無いんだ。オレは、未来から来た。こっちへ他の未来の神が来てしまって、歴史が変わってしまうんだ。それで、母さんもみんな死んでしまうことになる。あっちじゃ困ったことになっていて、オレと十六夜とは逃れて来て何とか元に戻そうとしてるんだよ。まず、お前達明日から海辺の旅館に向けて旅行に行くだろう。」
有は、驚いたように目を丸くした。
「行くわ。」
蒼は、頷いた。
「母さんが、もう少しで帰って来るんだ。そうしたら、炎託っていう神様を連れてる。その炎託が、オレ達の居る未来から迷い込んだんだ。本人にそんなつもりはなくても、未来を変えてしまう。まず、母さんは明日からの旅行に行かないと言い出して、美月おばあちゃんちへ行くって言う。」
有は、口を押さえた。
「蒼が文句言うわよ。」
こっちの蒼は、頷いた。
「楽しみにしてたもんな。だが、本当ならその炎託はここへ来るはずじゃなかった。みんなは、裕馬と十六夜と合わせて8人で、旅行へ行くはずだったんだよ。そこで、他の神様に会う…これから、物凄く助けてくれる神様に。それが、出来なくなってしまうんだ。」
有は、じっと蒼を見た。そして、何かを考えていたが言った。
「…じゃあ、どうしてそれを他のみんなの前で言わないの?私にだけ言うなんておかしいわ。」
蒼は、答えた。
「未来のことは、本当は言っちゃダメなんだ。知ることで未来が変わってしまうかもしれないから。この時代の蒼も母さんも、これから物凄く深く神様達と関わることになる。有、お前は人がいいと言って、人として生活することを選ぶ。だがオレと母さんは違う。だから、あの二人には絶対に知られるわけには行かないんだ。未来が変わる可能性が上がってしまうから。」
有は、じっと蒼を見つめた。
「蒼…ほんとに蒼?」と、少し首をかしげた。「…私達兄弟姉妹は、幾つまで一緒にお風呂に入ってた?」
蒼は、すぐに答えた。
「有が中学1年になるまで。」と、蒼は力を入れた。「頼む、有。オレはどうしても世を元に戻したいんだよ。炎託は、悪い神じゃない。自分の奥さんが死にそうで、その病気を手遅れにならない時間に戻って治したいと思って、過去へ飛び込んだんだ。でも、ここはその時よりずっと昔だった。それに、誰にも許可を得ずに隠れて飛び込んだから、オレ達を見たら連れ戻されると隠れるかもしれない。でも、オレ達はどうしても元へ戻さないといけないんだ!でないと、十六夜をたった一人置いて、旅立つことになるんだぞ!オレの子は、このまま結婚しても月の力を継がないんだ!」
言い切って、蒼はぜいぜいと肩で息をした。有は、しばらく考えていたが、頷いた。
「分かったわ。旅行に行くように、説得すればいいのね。そして、私はあなたから聞いたことを絶対に誰にも話さない。一生。ってこと?」
蒼は、頷いた。
「そうだ。旅行に行ったことで、これからいろいろ大変だと思う。でも、それでもそれは、これから生きて行く上で必要なことなんだ。オレ達は、月の力を持つ眷族と神世では言われてる。今この瞬間には知らないだろうけど。オレは、一度死んで月の命を宿して月になる。今のオレは、月なんだ。十六夜と母さんとの間の命が宿ってるんだ。有、信じられないだろうけれど、それが真実だ。このまま黙って、死ぬまで見ててくれ。オレの言った真実が、分かるから。」
有は、黙っていたが、ハッと顔を上げた。十六夜が、そこに立ってじっと有を見ていたからだ。
「十六夜…?蒼が作る体より、何だか年上みたい。」
十六夜は、頷いた。
「それも、今回のことで分かって来る。有、オレと維月の間に、命が生まれてこの方何があったのかも、旅行に行った後に起こって来るいろいろな事で分かるから。頼む、見守ってくれ。オレは、一人取り残される未来なんて要らない。皆と一緒に居た未来を取り返したいんだ。」
有は、十六夜を見つめていたが、頷いた。
「分かったわ。母さんを説得して、旅行に行くわ。その炎託っていう神様を、ここへ連れて来たらいい?」
蒼と十六夜は、頷いた。
「二人の神様が会いたいと言って探していらした、と言ってみろ。あいつはもう二人の神、慶と修と一緒にここへ飛び込んだ。だから、そいつらだと思うだろう。ここだと蒼に気取られて、あいつが何を言い出すかわからねぇから、公園に行かせてくれ。ほら、オレと蒼が最初に月の力を使う練習をしてた公園だ。頼んだぞ。」
有は、頷いた。
「母さんは、ついて行かない方がいいわね?」
十六夜は、それにも頷いた。
「維月は知らねぇほうがいい。オレだってそうなんだが、きっと月から見て分かるだろうな。オレが妨害して、見えねぇようにはするつもりだ。」
有は、頷いて玄関の方を見た。
「…タクシーが着いた。きっと母さんだわ。行って。知られちゃいけないんでしょう。」
蒼と十六夜は、頷いて浮き上がった。
「有」有は振り返った。蒼は言った。「ありがとう。また話せて嬉しかったよ。」
有は、笑った。
「なあに、あんたらしくないわね、蒼ったら。またね。」
有は、中へ入って行った。
蒼は、涙ぐんだ。有は、とっくに人としての生涯を終えて黄泉へと旅立って行った姉。それでも、心の底で覚えている。そして、やはり幾つになっても、そう、蒼が700歳を超えても、有は蒼の姉だった。
蒼は、十六夜と共に懐かしい公園へと飛びながら、涙を拭っていた。
家では、蒼が炎託を見て仰天した顔をした。
「うわ、神様連れて来たの?!この狭い家に?!」
涼も遙も恒も、裕馬も珍しげに炎託を見ている。有は、後ろから落ち着いた無表情で、それを見ていた。
「しかたねぇよ。維月が連れて行くってきかねぇんだから。」
蒼の力で人型になった十六夜が言う。炎託は、蒼に軽く会釈をした。
「世話になるの。」
蒼は、まだまじまじと炎託を見ていたが、裕馬が横から言った。
「おい、蒼。明日から温泉だって言ってたからオレ、今夜から泊まりに来てるんだけど、もしかしてキャンセルか?」
蒼は、ハッとして維月を見た。
「母さん、もしかして、温泉行かないの?!」
維月は、悪びれずに頷いた。
「その代わり、おばあちゃんちへ連れて行ってあげるから。」
蒼は、抗議した。
「そんな!美月おばあちゃんちはいっつも行くじゃないか!料理楽しみにしてたのにー!」
炎託は、何事か分からなかったが、自分のせいで何かがダメになったのは分かったので、とりあえず謝った。
「すまぬの。我のせいか。」
すると、維月が何かを言おうとしたのを、有が割り込んで遮った。
「あら、神様が居てもいいと思うの。」維月も、他の皆も驚いて有を見る。有は続けた。「それでなくても、今回8人も予約したのよ?キャンセル料金凄いことになるじゃない。それより、旅行へ行きながら考えた方がいいんじゃないかな。どうせ神様って、普通は人に見えないもんなんでしょ?」
維月は、うーんと炎託を見た。
「確かに、見えないのよ。私が見えないから、こうして姿を見せてくれているのだけれどね。」
炎託は、言った。
「迷惑を掛けるのは本意ではないし、我は場所さえ言うてくれたら飛んで参る。元より放浪しておった時もあったゆえ、我は野宿でも気にはならぬのだ。」
維月は、ちょっと考えてから、言った。
「そうね。じゃあもったいないし、行こうか。炎託様だって、飛んで行かれた方がストレスもなくていいだろうし。」と、十六夜を見た。「一緒に行こうね、十六夜。今日はこのまま、蒼達の部屋へでも泊まって。」
十六夜は、えー?!という顔をした。
「オレがこのままで居るってことか?力の補充はどうするんだよ。おいこら!維月!」
維月は、さっさと炎託を案内していた。
「炎託様は、私の部屋をお使いください。私は娘の部屋で寝ますから。」
蒼が、十六夜の腕を掴んだ。
「さ、行こうよ十六夜。オレ、その体維持するのに、どうしたらいいのか考えててさ。実験したいんだよなー。」
「何言ってんだよ、実験なんかすんな!蒼、オレを何だと思ってるんだ!」
そうして、皆はそれぞれの部屋へと収まったのだった。