見たこともない女
焔は、自分の客間へと戻って来てそこの椅子へと崩れるように座った。弦が、驚いて駆け込んで来る。
「王?!いったい、何があったのでございまするか?!」
そう、自分が訓練場などで立ち合っている間に。
弦は、焔の疲れ切った様子に、側から離れたことを後悔した。王のお側について、お守りするのが我の役目であったのに。
しかし、焔は首を振った。
「大事ない。ここの神の力を借りて、鷲が篭った遠い過去を見に参っておっただけぞ。」
弦は、そんなことが出来るのか、と驚いて焔を見上げた。
「…では、曽祖父の焔様を見るために?」
焔は、頷いた。
「事実を見て参っただけ。回りの宮の様子なども、それからの事も合わせて一気に遡って見て参ったのだ。なので、精神的に疲れておるだけぞ。今宵の宴は断ったゆえ、明日になる。滞在が長引くゆえ、それを宮へ知らせておけ。我は寝る。」
焔は、さっさと袿を脱ぎ捨てると、隣りの寝室の方へと入って行った。弦は、月の宮という不思議な空間の中で、何かが大きく変わって行っているのを肌で感じて、何やら落ち着かなかった。
焔は、逃げ込むように寝室へと飛び込むと、寝台へと倒れ込んだ。動悸が止まらない…この若い体のせいなのか。いずれにせよ、弦には気付かれずに済んだ。
焔は、今見て来たばかりのあの、月の宮の成り立ちや、十六夜や維月、維心の関係の理由、どうして維心があれほどに維月に執着するのかを知った。
「なぜに…あのような過去を見てしもうたのか。」焔は、呟いた。「知らねば我は…。」
焔は、見て来た場面を思い出していた。
先ほど戻れなくて自分の体に入った時、本当に眠るつもりで横になった焔は、確かに眠りに落ちて行ったような心地が残っているのに、気が付くとどこかの人が作った神社の境内に倒れていた。
辺りは暗く、夜なのが分かる。また過去へ飛んでしまったのか、と焔が回りをきょろきょろと見ていると、月から光が真っ直ぐに伸びているのが見えた。
「十六夜が力を下ろしておるのか…?」
何のために。
焔は、興味を持った。ここが、いつの過去なのかわからないが、十六夜があれほど強い力を下ろすからには、何かあるはずなのだ。
焔は、そちらへ向かって飛んで行った。
すると、森を抜けた所で、見たこともないほど大きな闇の塊が、形を変えながらうごめいているのを見た。焔は、思わず構えた…神には、これは消し去ることは出来ない。封じるにも、これほど大きなものだと自分まで食われてしまう可能性もあった。警戒して然るべきな大きさの闇だったのだ。
だが、これは過去の映像。焔は、構えてしまった力を抜いて、闇が向かっている先を見た。
そこには、人の維月が居た。
十六夜からの溢れるばかりの力をその身に受けてはいるが、それを全て使うことは、維月には無理なようだった。それでも、必死に維月は闇に向かっている…何度も吹き飛ばされていたが、それでも立ち上がって闇に対峙した。
…人でしかないのに。
焔は、神の王である自分ですら構えるほどのこの闇に、たった一人で向かい合っている維月に愕然とした。
維月が、また吹き飛ばされて倒れ、何とか起き上がろうとしている。闇はそれに向けて構えたが、こちら側から他の力が飛んだ。
蒼だった。
若く、まだ子供でしかない人の蒼が、必死に十六夜からの力を使って闇を封じようとしていた。蒼は、維月とは違って十六夜の力を存分に使いこなしていた。この頃の十六夜は、どうやら人の力を通してしか力を使えないようだった。
焔は、蒼と維月、十六夜の闇との戦いの一部始終を見た。蒼の他の兄弟姉妹達も、人の身で自分の能力に則した方向から必死に戦っていた。
焔は、ただ呆然と闇を消滅させる蒼と十六夜を見つめていた。人だった蒼と維月…。こうして戦っておったのか…。
回りが、めまぐるしく変わる。
気が付くと、再び夜だった。さっき見た、闇を消し去った時とは違い、この日は新月だ。
ふと見ると、祟り神と化した神が、人を巻き込んで消滅させようとしていた。焔は、思わずそれを止めようとして、これが映像でしかないのを思い出した。
また、維月は戦っていた。今度は自分の娘を助けようとしている…死ぬ気で居る。
維月を助けようと別の神達も割って入って来てはいたが、結局は祟り神の瘴気を受けて倒れ、維月は祟り神の力の前に死んだ。十六夜が憑依した蒼が駆けつけて祟り神を封じたが、時既に遅かった…。
それから、焔はどんどんと時を進めて見て行った。
蒼と十六夜は、維心に頼んで維月を月として復活させた。維月は、人としての自分を捨ててあの、人の屋敷に住むことにした。
十六夜と、やっと地上で会うことが出来、愛し合って、時にケンカをしながらも、幸福に生きていた。維心は、そんな人の屋敷でしかない屋敷へと頻繁に通い、月の眷族達を助けていた。それが、維月を想うがゆえのことであっただろうことは、容易に見てとれた。
維月は、焔が思っていたようなガサツなだけの女ではなかった。力のない人でしかなかった時ですら、維月は戦っていた。子供を助けるために、あっさりと命を差し出し、いつもハキハキと強く、筋の通った女だった。淑やかではないが、常識は弁えていた。言うことにも一々筋が通っていて、神世の常識とは違っていたが、人世の常識に則した自分の考えをしっかりと持っていて、それに従って生きていたのだ。
そんな女は、初めてだった。
焔は、じっと維月を見ているうちに、その清々しいまでの生き様に、どんどんと惹かれて行く自分を感じていた。維心の孤独を知った維月が、十六夜と話し合って維心の元へと嫁ぐことを決めた時には、その慈愛の精神に心を打たれた。十六夜が、維心の気持ちに寄り添ってそれを承知したことにも。
そうして、いつしかその気を心地よく感じて、離れられないでいる所へ、現在の時間の十六夜が迎えに来たのだ。維月が嫁ぐことに、少なからず心を乱していた焔は、それで現実の世界を思い出して、呆然とした…自分は、何をしてしまったのだ。維月の生き様など、知ることはなかったのに。十六夜と維心が、どうして維月を愛しているのか、なぜに知りたいなどと思ったのだろう。あの二人があれほどに思う女なのだ。自分など、一溜まりもないのに…。
焔は、暗い月の宮の客間で、寝台に顔を埋めた。
これから、馴染んで行こうとしている神の世。自分が決めて、去ってしまった世に、再び鷲を戻すためにここへ来たのではなかったか。月に興味を持ったのは、ただの好奇心だった。それなのに、ここには過去などを見せる力を持った神が居て、その誘惑に勝てず、自分はいろいろな過去を見てしまった。今の世を治めている、月と龍。その両方の妃など、想っても報われるはずはない。略奪などしては神世へ戻るどころか、乱すことになってしまう。どうすることも出来ない。そんなものを、どうして自分は想っているのだ。女など、面倒でうるさく愚かなものだと思っていた…そんな自分の心に、なぜにこれほど深く入り込んで来るのだ、あの月は!
十六夜は、維心と二人で維月を挟んで座り、維心の対の居間で話していた。
「じゃあ、親父はもう納得してるのか?」十六夜は、まだ何かを引きずってないかと気遣いながら問うた。「元通りなんだな?」
維月は、頷いた。
「そうだと思うわ。お父様から暗い気持ちなど何も感じなかったもの。ただ、時に命を重ねようって。今回、戻る前にそれをしたの。」
維心が、眉を上げた。
「命を?心を繋ぐような感じか?」
維月は、首をかしげた。
「そうですわね。でも、もっと溶け合うような感じでしたわ。体は無いのですけれど、そんな感じもありましたし…本当に、命を繋ぐというか、重ねるという感じ。」
十六夜と維月は、顔を見合わせた。
「それは…碧黎はどういう風に申しておったのだ。」
維月は、維心を見上げて答えた。
「特に詳しくは申しておりませんでしたけど、他の誰とも命を繋いではならぬと。お父様だけだとおっしゃっておりました。もうお父様と命を繋いだのだからと。」
十六夜が、眉を寄せた。
「それって…どういうことだ?」と、維心と視線を合わせた。「なんだかそれって…。」
維心も、顔を険しくした。
「もしや…婚姻と?」
維月は、慌てて手を振った。
「そのような!何もございません、大氣も、蒼だって目が覚めたら側に居りましたし。十六夜が、ずっと付いておってくれたのでしょう。そんなこと、出来るはずがありませんわ。」
十六夜は、それを聞いて自信なさげに頷いた。
「そうだ。二人共眠ってるだけで動きはなかった。体だってぴくりとも動かなかったし。」
維心は、しかし眉を寄せたままで言った。
「命を繋ぐと申したのであろう。それがどんなことであるのか、主には分かるのか。」
十六夜は、首を振った。
「わからねぇよ。親父がどんな風に感じるのかもオレには分からないんだ。」と、言ってから、あ、と手を打った。「大氣。あいつになら分かるかな。」
維月は、頷いた。
「あの二人しか分からないんじゃない?お母様も今居ないし、聞けるのは大氣だけよね。でも、お父様に直接聞いてみたらいいんじゃないかしら。何でも教えてくださるじゃない。」
しかし十六夜は、考え込むように視線を下へ向けた。
「うーん…でも、こればっかりはなあ。自分だけとか言ってたんだろ?教えてくれそうにないな。ま、じゃあオレが明日大氣に聞いてみるよ。別に心繋ぐ程度なんじゃないか?親父の気だって維月に残ってないんだし。」
維心は、少し不安げに維月の肩を抱いた。
「気が揉める…何やら嫌な予感がしてならぬのだ。せっかくに焔が維月を好みでないと申しておって、安堵したばかりだと言うに。」
維月と十六夜は、びっくりしたように顔を見合わせてから、慌てて維心を見た。
「え…なぜにそのような?!」
慌てる維月に、維心はため息をつきながら困ったような視線を向けた。
「会うたのであろうが。庭で、草履を落として。焔から聞いたわ。始めは黙っておったが、我らがあまりに案じるゆえ、そのように案じずとも、好みでない、と主と会ったことを教えてくれたのだ。あれは淑やかな女がいいらしい。何でも前世、後宮が大変で女には飽き飽きしておるようでの。」
すると今度は十六夜が目を丸くした。
「焔も、記憶持って転生したクチか?ふーん…ま、神はそれぞれだしな。そこは安心したよ、維月にこれ以上寄って来たら面倒だと思ってたからよお。」
維月は、少しホッとしたように維心を見た。
「良かったこと…普通は神の王は、私のようなさくさく動く女を好まぬと思いまするもの。維心様にも、ようここまでお側に置いてくださっておると思うほどでございます。」
維心は、維月の頭を撫でながら微笑んだ。
「何を言うておる。主であるからいいのだ。他は興味などない。」と、十六夜を見た。「それにしても、維月はいつも十六夜のことは何も言わぬの。」
十六夜は、少し胸を張った。
「そりゃあ、前世でも今生でも赤ん坊の頃から一緒なんだからな。何でも知ってるんだし、価値観も一緒。オレが心変わりするなんて、維月は思わないのさ。」
維月は、そう言われてみれば、と十六夜を見た。
「まあ、確かにそうだわ。何もかもを見て育って来てるから、十六夜は、絶対に側に居てくれるという確信みたいなものがあるの。だから、離れるってことが浮かばないんだわ。」
十六夜が、微笑んで嬉しそうに維月の手を握って引っ張ると横から抱きしめた。
「だろ?不動の信頼ってのがあるんだよ。」
維心が、不機嫌に反対側から維月を引っ張った。
「我だってこんなに長く維月を愛して来たのだ。今更他に誰を愛すると申す。」と、維月を抱きしめた。「我のことも、同じように信頼して欲しいもの…我は変わらぬぞ。主だけよ。」
十六夜が、また反対から維月を引っ張った。
「お前は途中でごねたりしたじゃねぇかよ。オレは絶対そんなことないもんなー。」
維心はぐいとまた維月を引いて抱えた。
「主らとは命の種類が違うゆえ、我だってそこに悩むことだってあるのだ!それも愛しておるゆえぞ。」
十六夜がまた維月を引っ張る。
「なんだよ、助けてやったってのに。少しは感謝しろっての!」
「それとこれとは…、」
「ストップ!」維月が間で叫んだ。「ケンカは駄目!仲良くしないと、私お母様の部屋で寝るわよ?!」
維心と十六夜は、慌てて維月を見て同時に叫んだ。
「ならぬ!」
「駄目だ!」
維心が、続けた。
「碧黎の側ではないか。あやつが何を思うて命を繋ぐとかいうことをしておるのか分からぬのに、そのようなこと許せぬ!」
十六夜も、頷いた。
「そうだ!とにかく明日、大氣に聞いて来るまでお前は親父には一人でそんな近くへ寄るな!」
維月は、肩で息をついた。ほんとにもう、困ったこと。
「じゃあ、こちらで三人で休みましょう。もう、今夜は皆で仲良く穏やかに。あんなことがあった後なのですから。」
維心と十六夜は、顔を見合わせたが、渋々頷いた。
「分かった。」
そうして、その日は維心の対の大きな寝台で、三人並んでぐっすりと眠ったのだった。




