心変わり
「それで、長く会わずにいて、会うたらそれか。我がなぜに訪ねぬと思う…我とて維月に会いたいわ。だが、忙しいのだからしようがなかろうが。それを押し掛けて来て、話を聞けとは何事よ。」
炎嘉は、不機嫌に居間の椅子に座ってそう言った。ここは南の砦と以前は言われていたが、今では炎嘉の宮になっている。鳥の宮跡地に建ったものなので、必然といえば必然だった。
下を向く維心に、炎嘉は更に言った。
「…しかも、もうすぐ日が暮れるような時間に。」
維心は、顔を上げた。
「主に話したかったのだ。どうしても…どうしたら良いのか分からなくて。」
炎嘉は、何か知らないが必死の維心にため息をついた。
「そうか、我にの。何でも己で決めて進めるくせに、主は面倒となるとすぐに我に押し付ける。まさかまた誰かをかどわかせとか言うのではあるまいの。レイティアの事があってから、我はあんな虚しい事はもうせぬと決めたのだ。無駄ぞ。」
維心は、首を振った。
「違う。炎嘉…維月の事なのだ。」
炎嘉は、それを聞いて少し驚いたような顔をしたが、すぐに顔をしかめた。
「なんぞ、また喧嘩か?我も維月を想うておるのに、主はまだ夫婦のゴタゴタを我に何とかせよと申すか。」
維心は、下を向いた。
「…喧嘩ではない。主は…人は心変わりすると申したの。神とて真実でなければあり得ると。」
炎嘉は、それを聞いて目を丸くした。そして、しばらく黙ってから、控えめに言った。
「…維月が、誰か別の男に懸想したのか?主に愛想を尽かしたと?」
維心は、沈んだ様子で答えた。
「我に愛想を尽かしたのではないと思う。だが…我は目の前で、心の深いところで想うておる、と別の男に言うのを聞いてしもうた。何も求めない愛情が、心に沁みる…と。」
炎嘉は、じっと考え込むような顔をした。
「…義心か?」
維心は、がばと顔を上げると、盛大に首を振った。
「なぜに義心ぞ!違うわ!」
炎嘉は、眉を寄せた。
「何も求めないとか言うからぞ。では誰だ?主がそこまで動揺するのは珍しい。」
維心は、また下を向いた。
「…碧黎ぞ。」
炎嘉は、仰天して眉を跳ね上げた。
「碧黎?!あれは…しかし父親で良いと言うておったのでは?」
維心は、首を振った。
「碧黎は、維月をどうの言うておらぬ。あれはあんな感じでも約した事は違えぬゆえ。父親で良いと。維月の気持ちが傾いて来ているのを聞いて、驚いているようだった。そんなつもりはなかったのだろう。」
炎嘉は、深刻そうな顔をした。
「それは…思うていたよりまずいやもな。維月はそれほど碧黎に執着しておるのか?」
維心は、また首を振った。
「いいや。維月も戸惑っていて、己でもよう分からぬようだった。元より父としては、愛情を持っておったのだろう。形が変わって来ておるのを、気取ったのだ。」
炎嘉は、息をついて椅子にもたれ掛かった。
「ならばまだ間に合うやもしれぬ。しばらく月の宮に里帰りさせるのをやめよ。会わずにいたら、落ち着くやもしれぬから。」
維心は、炎嘉を見た。
「それはない。碧黎が…己が悪いと申して、本体へ帰ると。維月と関わり過ぎたと思うたようだ。」
炎嘉は、じっと維心を見返した。
「主、ここが正念場であるぞ。新しい男の方が、どう考えても有利ぞ。だが、相手はそういうつもりではなかった。維月の心も、そうなろうとしてそうなっておるのではないし、主と共にと願っておるのは変わりないであろう。完全に心を持って行かれぬ間に、引き戻してしまうのだ。それしか、引き留める策はない。」
維心は、力なく下を向いた。
「…だが、我は維月に何も要求せぬなど無理なのだ。碧黎は、無心で何も求めなかったゆえ維月を惹き付けた。我は、維月に我を愛して欲しいと言わずには居れぬ。いつなり我だけをと、そればかり…。」
維心が、今にも泣き出すのではないかと言うほど沈んでしまったので、炎嘉は慌ててその肩に手を置いた。
「こら、何を自信をなくしておるのだ主は。大丈夫ぞ、主らには長く一緒に来た歴史があろうが。我だって主らの間に割り込むことが出来ずにいる。それは、たまに情を交わす機会はもらっておるが、それでもあの心を手にすることは出来ぬのだ。それは、ひとえに主と十六夜が維月の心に居座って来たからであろうが。今まで何人の男が維月を求めて寄って来た。それでも、主を愛する維月の心は揺るがなかったではないか。」
しかし維心は、潤んだ目で炎嘉を見上げた。
「それは、皆我と同じ神であったからぞ。碧黎は違う…我ですら、あれの意の下に生まれ出た命であるのに。唯一の命ぞ。生あるものは皆、あれの加護の下に生きている。我は、そんな相手を維月が選ぶと言うたら、とても太刀打ち出来ぬ…。」
炎嘉は、その背を優しく叩いた。
「維心…それはの、主の他の、維月を望む神にも言えることぞ。」維心が、少し目を丸くして炎嘉を見上げると、炎嘉は続けた。「我とてそう。主や月に抗って、それでも維月の心をとこの手にしたいと望んでおる。我らにとって、主など全く敵わぬ気を持つ神。月も同じ。それなのに、我らは維月を想う。今、主は我らと同じ心持ちであるのだ。主は、それで諦めるのか?ならば、我らより想いは弱いの。だが、そうではなかろう?」
維心は、何度も頷いた。
「諦めぬ。我は、維月を諦めることなど出来ぬ。そんな弱い想いではない。」
炎嘉は、微笑んで頷いた。
「そうよ。まして主は愛されておるのだ。碧黎だって、そんなつもりではなかったのだろうが。ならば、維月を失うことなどない。」と、ふと何かに気付いたような顔をした。「して、十六夜はこのことを知っておるのか?」
維心は、ハッとして首を振った。
「恐らく知らぬ。我は、あれを見てすぐにこちらへ飛んだゆえ…。」
炎嘉は、苦笑しながら維心を見た。
「主は変わらぬの。何かあったら我に。昔からそうぞ。我とて何もかも解決出来るわけでないぞ?維月のことであるのにお構いなしぞ。まあ、もう慣れたがな。」と、息をついた。「十六夜にとって、主が新しい男ぞ。それなのにあれは主に維月を許した。その深い気持ちを見習いたいもの。」
維心は、それを言われてバツが悪そうな顔をした。
「確かに…そうだが。しかし、維月の心があれば良いと。あれは、そう言うておった。我には、未だにその心地になりきることが出来ぬ。たまに思うても、すぐに維月の全てを独占したいと思うてしまう。そうして、心を持って行かれそうになって、成す術なく見ているしか出来ぬなど…。」
炎嘉は、肩をすくめた。
「維月の心を繋ぎとめる方法など、我に聞いてくれるな。それを知っておるなら、とっくにそうしておるわ。我にも分からぬ。人も神も、心まで縛ることは出来ぬ。どうしたら維月の心の琴線に触れるなど、我にも分からぬ。」
維心は、頷いた。維月の心の琴線に。我にも分からぬ。だが、維月はまずこの姿を愛したと言っていた。これからは、気楽な着物姿ばかりでなく、宮の仕立ての龍に言ってせめて精一杯に装おう。甲冑を身にまとい、訓練場にも出る。そうして、維月が愛してくれた自分をしっかり見せることで、維月が我を愛した気持ちを思い出してくれたなら…。
維心は、そう決心していた。
維月は、侍女から維心が、炎嘉の宮へ行ったことを聞かされた。突然のことだったが、維心は炎嘉の所へ行って、付き合いを教えてもらうと前に言っていたのを思い出し、急に思い立ったのだろうと、何も気にしていなかった。
しかし、帰りが遅い。いつもなら、維月に何も言わずに出て行った時は、日暮れ前には帰って来た。それなのに、もう月が昇っているのに、維心は帰って来なかった。
維月が、空を見上げながら維心の帰りを待っていると、十六夜の声がした。
《維月、葬儀は終わったぞ。ところで、親父を知らねぇか。お前の様子を見に行って来るって出て行ったきり、帰って来ないんだ。ま、またどこかをふらふらしてるんだろうけどよ。》
維月は、首を振った。
「お父様は、本体へ戻っておられるわ。ふらふらしていらっしゃるのではないの。」
十六夜の声は、驚いたように言った。
《え、本体へ?お袋が寝てるから、落ち着かぬとか言って、戻るの避けてたのに。》
維月は、下を向いた。十六夜には、今まで言わなかったことなどない。何でも話して来た。それは、転生して兄弟として過ごして来ても、同じだった。
維月は、思い切ったように顔を上げた。
「…十六夜。私、お父様をお父様として見てないのかもしれない。もしかして、好きになりそうなのかも。それを、お父様に話したの。」
十六夜の声が、途切れた。気が大きく振れている…維月は、呆れたのかと思い、慌てて言った。
「あの、分からないの!自分でも、自分が全く分からないの…。だから、口に出して言ってしまってから、もしかして本当にそうなのかも、と思って…。お父様は、自分が干渉し過ぎたせいだとおっしゃって、しばらく本体へ戻ると。そんなつもりは、無かったのだと言って…。」
十六夜は、しばらく黙ってから答えた。その声は、しかし震えていた。
《親父は…お前に干渉しないために、本体へ戻ったのか。お前は、親父に会えないのはどう思う。》
維月は、小さくため息をついた。
「それは寂しいわ。いつでも呼べば来てくださったのだもの。でも、本来父親とそんなにべったりしないものでしょう。私も、あまりにお父様が私を大切にして、愛情を持ってくださるから、勘違いしたのかも。一緒に過ごして、感覚がおかしいのかもしれない。さっきも言ったように、本当に自分で自分が分からないの。だから、お父様が言うように、しばらくお会いしないほうがいいのかも知れない…。」
十六夜の声は、まだ震えていた。
《そうか。お前がそう言うのなら、そうかもな。それで、維心はどこへ行った。》
維月は、十六夜が落ち着いて答えているので、ホッとして月を見上げた。
「維心様は、炎嘉様の所へ。連絡が来ないので、きっと今日中には帰って来られると思うのだけど…まだなの。」
十六夜の声は、幾分冷静になって言った。
《炎嘉と話してるなら、しばらく掛かるだろうよ。じゃあな、維月。また連絡するよ。》
維月は、微笑んで頷いた。
「うん。私も、お風呂へでも入って、寝る準備するわ。じゃあね、十六夜。」
そうして、十六夜の声は途切れた。
維月は、やっぱり十六夜に話して良かったと思いながら、足取りも軽く大浴場へと歩いて行ったのだった。




