病
炎託は、蒼の一番最初の娘、瑞姫を妻に迎えて、もう数百年が経っていた。
瑞姫のことは、本当に愛して来た。前世鳥の王だった炎嘉の最後の皇子として生まれ、鳥の宮が滅ぶ時一人逃れて放浪していた炎託は、維心を恨んで殺そうと画策し、捕らえられた過去がある。
しかし、炎嘉が跡継ぎにしたかったと言ったほど、炎託は優秀な神だった。改心した後は、月の宮で軍の指南などをしながら、友の将維と時にたわむれながら、瑞姫と二人でゆったりと過ごして来たのだ。
しかし、炎嘉の血を受け継いで大きな気を持って生まれた炎託は、老いが止まっていた。
一方、瑞姫は普通の神並に老いて行き、今では老衰による衰えで体の自由も利かなくなり、寝台から起き上がることも出来なくなってしまっていた。
今日明日かと言われているほど衰えている瑞姫に付き添いながら、炎託は言った。
「瑞姫…つらい所はないか。我が調べたところ、ここより南西に痛みをとることに大変に長けた神が居ると聞いての。蒼に許しを得て、呼んでおるゆえ。楽になるぞ。」
瑞姫は、老いて細くなった手で、炎託の手を握った。
「良いのですわ。我は大丈夫です。炎託様も、そのようにご案じなさいますな。自然の摂理でございまするわ。こうして、皆一生を終えるのですから。」
炎託は、涙を浮かべた。
「そのようなこと…まだ大丈夫ぞ。」
しかし、大丈夫でないことはその気から分かった。もう今この瞬間でもおかしくはない。瑞姫は、微笑んだ。
「ここまで大きな病もなくこうして参ったのですから。炎託様には、我が死するまでそのように美しい姿を保っておってくださって…最後までそのお姿を見ていられることは、我にとり幸福なことでございました。」
炎託は、溢れて来る涙を見せないように、横を向いた。
「我も主と同じく老いればよかったのに。無駄に王の血など引いておるから、このように。」
瑞姫は、首を振った。
「炎託様には、まだ何か責務が残っておられるのでしょう。我らには、子がありませぬ。1700歳で初めて妃を娶られた龍王様のように、炎託様にも我亡き後、是非に良い縁を見つけて欲しいものと…。」
炎託は、首を振った。
「そのようなことを申すでない。子など無くとも、我らは幸福であったではないか。」
瑞姫は、微笑んだ。
「炎託様…。それでも…、」
すると、侍女の声が控えめに告げた。
「炎託様。お呼びの治癒の者たちが、着きましてございます。」
炎託は、急いで顔を上げた。
「おお、参ったか。応接室へ。」と、瑞姫を見た。「瑞姫、少し離れる。」
瑞姫は、微笑んで頷いた。
「はい、炎託様。」
そうして、炎託は南西から来たという治癒の神達を目通りをするために、そこを出た。
炎託が応接室へと入って行くと、そこには薄い色の着物に身を包んだ神が二人、座っていた。炎託に気付くと立ち上がって、頭を下げる。炎託は、手を振った。
「良い、座るが良いぞ。して、主らが痛みを取るのに長けておる神か。」
二人は、しかし座らずに頭を上げた。一人は、淡い茶色の神に澄んだ緑の瞳、一人は、黒髪に紫がかった黒い瞳の、いずれも男の神だった。
「はい。我は慶。こちらの黒髪は修と申します。さっそくでございまするが、先に瑞姫様を拝見したいと。」
炎託は、頷いた。
「もっともなことよ。」と、炎託は今入って来たばかりの戸へと踵を返した。「最近では、背がよく痛むと申すのだ。何とかこちらの治癒の者たちも痛みを取ろうとしてくれておるのだが、老化に伴って臓器が劣化し、それによる痛みであるからなかなかに取ることが難しいと申して…意識を奪ってしまえば痛みもないと申すが、それでは瑞姫も生きておるとは言わぬと言うて、同意せぬ。マシな時もあるのだが。」
二人は、頷いた。
「では…恐らくは、いくらかお覚悟をしておいていただいた方が良いかと。」慶が言った。「かなり進んでおるようでございます。我らにも、どうしようもないことである可能性のほうが高うございますので。」
炎託は、諦めたように頷いた。
「分かっておる。これ以上苦しみながら命を永らえるのは我も良いとは思わぬし。ただ、残りの時を痛みだけでも取ってやって欲しいと願っておるのだ。」
慶は、それを聞いて深刻そうに頷いた。
「はい。努力させて頂きましょう。」
瑞姫の部屋へと入って行くと、侍女達が瑞姫を囲んで、必死に背を擦ったりと大騒ぎしているところだった。炎託は仰天して慌てて駆け寄った。
「どうした?!瑞姫は!」
侍女の一人が振り返った。
「先ほどまた痛みの発作が…!今、やっとよ呼吸が楽になって来られて。」
炎託は、瑞姫を見る。瑞姫は、寝台に伏せて背を上に、腕を寝台について突っ張り、ぜーぜーと深い息を何度も繰り返しているところだった。炎託は、慶と修を振り返った。
「早よう見よ!」
二人は、進み出た。
「は、それでは失礼を…。」
二人は、並んで手を瑞姫に翳した。瑞姫の呼吸が、段々にゆったりと深く、そうして腕の力も抜けて、ぐったりと寝台へ身を預けた。炎託は、瑞姫を仰向けにした。
「瑞姫!気分は、どうか?」
瑞姫は、薄っすらと目を開いて、言った。
「はい…楽になりましてございます。」
その声はか細かったが、それでも気が安定していた。炎託は、ホッとして慶と修を見た。
「ご苦労であるの。落ち着いたようぞ。」
二人は、頭を下げた。瑞姫が穏やかな顔になったので、侍女達も瑞姫の着物の乱れを直したり、布団を掛け直したりと世話をする。炎託は、それを横目に言った。
「では、様子を聞こうぞ。今ので状態は分かったであろう。こちらへ。」
三人は、そこを出て再び応接室へと戻った。
応接室へ入ってすぐ、まだ炎託は背を向けたままなのに修の方が言った。
「瑞姫様は、既に臓器のほとんどが機能しておらぬ状態。先ほどの発作で亡くなっておられてもおかしくはなかった。」
炎託は、振り返った。その顔は、苦渋に満ちていた。
「そんなに、早く?」
修は、頷いた。
「今、この瞬間にも。今はただ、心の臓が動いておるので辛うじて生きておるような形になっておるだけでございます。それも、今にも止まるのではないかと。」
炎託は、言葉を失った。慶が、庇うように言った。
「こら、修。そのように言葉を選ばずに言いおって。ならぬ。」と、炎託を見た。「炎託様、残念なことでございます。ただ、瑞姫様は老衰ではありませぬ。」
炎託は、驚いて慶を見た。
「なに…瑞姫は、老いたゆえあのようになっておるのではないのか。」
慶は、首を振った。
「違いまする。見た目は老いと似ておりまするが、あれは似て非なるもの。極稀に発生する、細胞の劣化が早まる病でございます。何らかの原因で遺伝子に変異が起こり、まるで老いのように身が衰えるので、それを発見するのは容易ではありませぬ。皆、老いが来たから死んだのだと思うておりまするので。」
炎託は、身を乗り出した。
「ならば…ならば治療は出来るか?!瑞姫は、死なぬのか。」
慶は、気の毒そうに炎託を見た。
「残念ながら、あそこまで進んでしまえばもう手立てはありませぬ。恐らくは3百年から4百年ほど前に発生されておるのではないかと。本来の寿命は、もっと長くあられたはずでございます。そのぐらいから、老いが始まったのではありませぬか?」
炎託は、じっと思い出してみた。そういえば、瑞姫が体が疲れてならないからと、ずっと一緒に訓練場で立ち合いをしていたのに、出てこなくなった。それが、そのぐらいの時ではなかったか。それから、驚くほどに衰え始めて、気がつくと今のように。寿命だと思っていたのに…違っていたのか。
修が、無表情に言った。
「発生してすぐの辺りで治療しておったなら、恐らくは今頃まだ若い姿であられたのではないか。瑞姫様は、大変に大きな気を持っておられる。龍の王族の気配や、月の気配も。」
炎託は、力なく頷いた。
「瑞姫は、龍王の妹、瑤姫と、月の宮王、蒼の間の娘なのだ。ならば、あれはもっと寿命があったと申すか。」
修が、頷いた。
「恐らくは、老いがしばらく止まったのではないかと。普通ならばなだらかに老いるものを、龍の王族は大変に長く生きる。月は不死。炎託様と同じように、お暮らしであったかと。」
炎託は、ショックを受けた。ならば病に気付かなかったから、こんなことになっていると。本当ならまだ瑞姫は元気に自分と同じように生きていて、共に旅して回ったり、穏やかな日常を送ることが出来ていたのではないか…。
「そのような…ただの老いであると、片付けてしもうていたばかりに。」
炎託は、頭を抱えて膝へとうな垂れた。あの疲れやすいと言っていた時に、なぜにいろいろな神に診てもらい、治すことを考えなかった。ただの老いではなかったのに。
「…あれが苦しんでおるのは、我のせいよ。」炎託は、うな垂れたまま言った。「我が早よう気付いて専門の治癒の者に診せておったなら…。」
慶と修は、顔を見合わせた。
「…残念なことでございます…時を巻き戻すことが出来ればと、我らも、本当に。」
炎託は、そんな慰めの言葉しかなかったであろう慶と修を責める気にもなれなかった。本当に、それしか考えられなかったからだ。時を戻ることが出来たなら。そんなことは、龍王の力であっても出来ない。月にだって時を遡るなど出来ない。地にだって…。
そこで、炎託はハッとした。地…。次元を越える力を持つのだと言う。維月が帰って来た時、いつも何を言っていた?将維は、確か維月は地に時を調節してもらって次元を越えて飛ぶのだと言うてなかったか…?
炎託は、すっくと立ち上がった。
「手は、ある。」
慶と修は、仰天したように炎託を見上げた。
「え?」
炎託は、二人を見た。
「共に来てくれぬか。主らに治療してもらいたい。瑞姫を、あの時の瑞姫を治してもらいたいのだ!」
慶と修は、訳が分からないながらも、炎託に連れられて、月の宮の中を歩いて行ったのだった。
月の宮には、別次元の入り口があった。
碧黎の力で封じられ、碧黎の許しがないとそれは開くことが出来ないものではあるが、維月が帰って来た時には、そこから別次元の維心の元へと向かうので、その時には開かれる。
あちらの維心と過ごす時間は数ヶ月であるが、こちらへ戻る時にまた碧黎が時を調節するので、維月がここを出て僅か数日であることが多かった。
そうしてまた、あちらの維心のところへ行く際にも、碧黎が時を選んで前に戻ってから数日から数週間の時間へと到着するので、あまりあちらの維心も維月を待つことはなくて済んでいた。
そんな風に使うこの入り口は、碧黎の守りがあるので、月の宮でもあまり警戒はしていなかったが、それでもいつも、軍神を一人は見張りにつけていた。
それは一重に、誰かがあちらへ落ちてしまってはいけないという、事故を想定した警戒に過ぎなかった。
その日、蒼がいつものように報告を受けていると、そこへ突然に碧黎が現れた。いつもの事だが蒼は憤って言った。
「宮の中でそれはダメだって禁じてるじゃないですか!」
しかし、碧黎は常にないほど切羽詰まった顔で叫んだ。
「蒼!こっちへ!急げ!」
蒼は、戸惑った顔をした。
「え?あの…、」
「良いから!」と、乱暴にその腕を掴んだ。「早よう!」
その瞬間、蒼は、辺りが暗くなり、気が遠くなるのを感じた。
「いったい、どこへ…!」
蒼は、そのまま気を失った。
報告をしていた軍神が、呆然とそれを見ている。
そして、その軍神の姿もかき消すように見えなくなり、月の宮のあった辺りが、忽然と消えた。
そこには、荒野しか残らなかった。
龍の宮では、維心が政務を終えて居間へと歩いていた。すると、十六夜が突然に目の前に現れ、叫んだ。
「維心!維月は?!」
維心は、仰天して顔をしかめた。
「だから突然に出て来るなと言うに!禁じたであろうが!」
十六夜は、維心の腕を掴んだ。
「何でもいい!維月はどこだ?!一刻を争うんでぇ!」
維心は、ため息をついて宮の中を探った。
「…維斗の部屋ぞ。あれもいろいろ忙し…、」
「来い!」十六夜は叫んだ。「間に合わねぇ!」
維心は、しっかりと腕を掴まれたままだった。
「なに?何事ぞ?!」
急に辺りが暗くなる。十六夜に共に運ばれているのを、維心は感じた。そして、何が起こっているのか理解するのも追いつかない間に、次に出たのは維斗の部屋だった。
「維月!」
維月は、突然に現れた十六夜と維心に、仰天した顔をして、維斗から目を離して振り返った。
「え?!なに?!」
「来い!早く…、」
すると、いきなり目の前に居た維斗が、かき消すように消えた。維月は、口を押さえた。
「維斗!」そして、ふらっとふらついた。「な…に…?」
十六夜は、慌てて手を差し伸べた。
「維月!維月、手を!」
「い…ざ…、」
十六夜の手は、空を切った。
「維月!」
維心が叫ぶ。
維月は、二人の目の前で消えた。
辺りは、急に寂れた様子になり、朽ち果てた椅子、テーブルなどが見える。
「いったい、何が…」
維心は、そのまま気を失った。
そうして、何も分からなくなった。