ヤライトサバキ (4)
長く暗い廊下を抜け、通されたのは板敷の間。
要が部屋に入ってまず感じたのはその暗さだった。
廊下と違い、この部屋には電球が無い。無論、電球があったとしても光源としては心許無いのに変わりはないが、有ると無いとでは雲泥の差である。
が、別に光が一切無いという極端な話とも違う。
部屋の四隅には細長い灯明台が立ち、上に置かれた油皿から伸びる紙縒りに灯った小さく弱々しい火が、ぼんやりと部屋全体を照らし出していた。
おかげで部屋全体を見渡すには不十分な光ではあるが、おおよその広さと構造は確認できる。
全体はほぼ綺麗な正方形。床板も、高い天井も、古く使い込まれた木の深い色合いが闇に溶け込み、漆でも塗ったような質感と錯覚させた。
出入り口の類は入ってきた木戸のみ。そこ以外には見た限り、戸はおろか窓すら無い。
ふと視線を巡らすと部屋の右手が一段、高くなっている。
加えてその奥がさらにあるようだが、簾が下りていてよく見えない。
ただ、簾の奥にも灯りが見えるので、一段高いその先に一定の空間が存在するのは確かだろうとも思う。
と、自分が連れてこられた場所を念入りに吟味しているところへ、
「……要さん、不敬ですよ。千華代様はずっとお待ちになっておられるのです。早く中へお入りなさい」
廊下に膝をついたまま、木戸の横から栖が指図をしてきた。
一刻ではあるが、先ほど奇妙に変質した指先を突きつけられた事実を忘れていたところに声をかけられ、一瞬にして意識が現実へと引き戻される。
いや、極めて現実離れした現実……という言い方をするのが正しいだろうか。
何せここに来てからというもの、現実と非現実の境界線がひどく曖昧だ。夜の山中。長大な石段。夕闇の中でさえ鮮やかな朱色の鳥居。町の人間が総出で焚く参道の大火。いつから存在するのかも分からないほど古く、しかしどこか超然と建つ拝殿や本殿。
それらだけでも十分に非日常的ではあった。
だが、所詮は非日常。非現実とは意味合い的にも感覚的にも雲泥の差がある。
これらに加えられる要素。業火に晒し続けてなお、何事も無かった巳咲の手。いつ、どのようにそう変化したのかも分からないうちに喉元へ突き付けられた栖の切っ先じみた指先。
この二つの事柄が要に与えた感情はどうしようもなく単純だった。
恐怖。理解不能なことへの恐怖。そこへ日常とかけ離れた状況が加味される。
決して言いすぎでなく、この時の要が置かれていた状況は普通に考えればとうに気が動転し、腰のひとつも抜かしていてもおかしくないほどに異常。異様。異質。
にも関わらず、要が取り乱すまでには至らず、そこそこの冷静さを保てたのには訳がある。
気味の悪さから来るお世辞にも小さくはない……どころか、相当に大きな恐怖心すらも押しのける強い感覚。それは常々この土地に来てから感じ続けてきたもの。
強烈でありながらどこか判然としない、有り得ざる懐かしさ。既視感。デジャヴ。
そうしたものが心を満たし、通常なら正気を保つことさえ困難な事態の中にあっても、恐怖をも一時的に忘れさせる好奇の集中力が要を無意識に支えていたのである。
だからだろう。要はそれなりに安定していた。それなりに、ではあるが。
「あっ……は、はい。でも……犬神さんは……?」
「私はここで控えています。千華代様の御前には貴方だけでお行き下さい。それが私と貴方の役割。くれぐれも無礼な言動や振る舞いはなさいませんよう、お気をつけて……」
「……は……はあ……」
取り繕うような返事を栖へ発すると、言われたままに室内へと入ってゆく。
こういった改まった場での作法などは知りもしないが、ともかく部屋の中央辺りに座るのが無難と踏み、そそくさと早足に部屋の中を進んだ。やはり無意識に漏れだす恐怖心で気が急いているのだと、変に実感する。
中央まで来ると、次は座り方に悩んだ。が、厳格な場での座り方など一種類しかしらない。
正座。板の間で正座。現代っ子の要にはかなりきつい。しかもこれで正解かも分からないからなおのことつらい。
さりながら、座る方向について悩まずに済んだのは不幸中の幸いであったろうか。
見回した部屋の構造からして、人がいる可能性がある場所は限定されている。
右手の一段高い、簾のかかった位置。そこ以外は遮蔽物の無い正方形の部屋。
よほどに察しが悪く無ければ自然と気付く。なので、要は素直に簾へ向かう形で座った。
腰を下ろし、膝を折って板間へ。堅い床に接する膝とくるぶしの骨が地味に痛んだが、思ったほどではない。途端、少し気が抜けて溜まっていた疲れも手伝ってか、漏れ出すように肺から空気がゆっくりと出てゆく。大きめの溜め息となって。
すると刹那、
「……遠方より足労、大儀であったのう……要」
突然に声を掛けられて、はっとした。
驚いて急激に肩をすくめたせいで、上半身だけが跳ねるように反り、視線が声のした方向である簾に向かうや、かっちりと固定される。
ここで好奇心より恐怖が勝る。得体のしれないものに対する純粋で明瞭な恐怖が。
長年に渡り、八頼という広範な解釈のできる何かを守り続けてきた人物。
同時に、自分を実の親から引き離し、今の両親とともに都内へと移した張本人。
別に自分の人生を狂わされたなどという大仰な考えは無いが、何故にそんな込み入ったことを自分に対しておこなったのかという素直な疑問は大きい。
絶えた八頼の血筋を取り戻すため……といったようなことを栖は言っていたが、そこからして謎が多い。
家名を復活させるのならいざ知らず、血筋は一度でも絶えたら戻すことなど絶対に出来ない。出来るはずがないのだ。
とはいえ、もし自分が八頼の血統に連なる遠縁の人間だとすれば少しは筋も通る。
しかし、そうだとすればここへの道中、栖から聞かされた大袈裟に過ぎる言い回しがいまいち釈然としない。
あの言い方はまるで一から滅びた血統を甦らせようとでもしているかの如き口振りだった。
だとしたらまったくもって狂気の沙汰だ。軽めに言っても、正気を大いに疑う。
そう。正常な思考ならそうも考える。はずなのではあるが……、
これまでに見せられた奇妙な現象のひとつひとつが、その狂気の思考へいくばくかの信憑性を与えているのも要は感じていた。
付け加え、栖が廊下で言った言葉。八頼として目覚めさせてくれるという発言にも引っ掛かりを感じる。
目覚めるとは何だ?
血の繋がりは血の繋がりであって、目覚めるの何ので血縁が生まれたり、濃くなったりなどするわけがない。
だとしたらあの言葉の意味するところは何なのか。
等々、要の頭が相も変わらず疑問で満室状態になっていると、
「何をしているんです要さん。千華代様が直々にお言葉をかけて下さっているのですよ。呆けていないで早々に返答なさい」
廊下側から栖が言葉をかけてきた。
これにもまた要は、はたと思って内向きになっていた意識を無理やり現実へと引き戻す。
頭を冷やせばすぐ分かることだ。何も今この場で悩む理由は無い。何といっても栖ははっきりと言っていた。千華代にすべてを聞けと。
だとすればこの場でひとり、勝手に考え込むのは徒労も徒労。無駄もいいところである。
「え……あ、の……どうもお気遣い、ありがとうございます……」
不必要な真似をして無用な間を空けてしまったと後悔しつつ、要はまだ落ち着き切れていない気持ちをどうにか抑え、簾の先にいるであろう人物に遅まきながら返答した。
「あれからもう十五年か……吾が存じおるそなたの姿はまだ生まれたての赤子であったが、ほんに……立派になっものじゃ」
「十五年……前?」
「そう。そなたを親より引き離し、水朱の者らへ任せてから十五年……長かったようにも思えるが、過ぎてしまえば露の間の出来事……さても時の移ろいとは不思議なものじゃな……」
「……それって……」
やにわに、と言って差し支えない変化だった。簾の先の人物、千華代との会話が進むうち、要は自分の感情が一色に染まり始めたのに気付く。
きっかけはごく当然の話。栖にも言われたが、自分はこの千華代という人物のせいで実の親を知らず、今の両親を本当の親と思って生きてきた。
某かの理由があってのことだったろうとは容易に察せたが、かといって何も感じず、そのまま事実だけを受け止められるほど、要は簡素な神経をしていない。普通の人間なら、同じ立場に立たされた時に抱くであろう感情を、要も抱いていたのである。
つまりは怒り。ただし、単に腹を立てているというのとも違う。
自分の身に降りかかった理不尽に対する怒りが主であったのは確かだが、それ以外の乱雑な感情も入り混じっていた。
「……質問……してもいいですか……?」
「申してみよ。そなたにはすべてを聞く権利がある。そして吾にはそれに答える義務がある。何なりと聞くがよい。」
「何で……今さら僕をここに呼んだんです?」
はっきり自覚が出来るほど声が震える。不安定な感情と比例するように。
「一言で説明するのは難しいのう。ただ、ひとつ言えるのはそなたが必要になったということじゃ。もはやサバキがいつ攻めてこようとおかしくない今、八頼の命運すべてをそなたひとりが握っていると言ってよい。水朱の者らも労うてやらねばなるまいな。まだどうなるかまでは分からぬが、少なくとも最後の……希望の種を守り抜いてくれた礼を言わねば……」
「そんなこと!」
整然と進んでいるように見えたふたりの会話が突如、要の荒げた声で一転する。
言いかけていた千華代の言葉を遮り、静まり返った本殿へ響き渡るような声を上げたのをきっかけにして。
「どうだっていいんですよそんなの! 僕は普通に暮らしてただけなのに……普通に過ごしてただけなのに……何で……何で今さら変な話、ほじくり返したりするんですかっ!」
正座したまま前傾姿勢になり、かまびすしく叫ぶ要の目には再び涙が光っていた。
今回は以前と違い、明確な感情によって。要は自分が泣いていることを確かに自覚しながら声を張り上げ続ける。
「年数はどうでもいいんです……物心つく前のことなんか覚えていないから……でも、だからこそ何で今になって混ぜ返す必要があるんですか! おまけにこっちへ来てからずっと八頼だ八頼だって……僕の名前は水朱要です! それにヤライだのサバキだの、神様だか何だか知りませんが、そんな訳の分からないものにどうして僕が関わらなきゃいけないんですかっ!」
頬を伝った涙が顎から滴り落ちて床を濡らす。涙を我慢する気など始めから無かったせいもあってか、双眸からは溢れるように涙が零れた。
「要さん、口を慎みなさい! 貴方が今、口をきいているのは八頼守護の三家筆頭である火伏家の当主であらせられるのですよ! それ以上の非礼は……」
「許さないとでも言いますか! だったら僕はもう帰らせてもらいますよ! 大体、家格だとか、血筋だとか、知りもしないことを無理やり押し付けられるなんて御免ですよ! 皆さんだけで勝手にやってればいいでしょ! 僕にはそんなの興味も無いし、関係も無いんだっ!」
激情のままに悲鳴にも似た怒声を上げる要を戒めるよう、廊下から同じく声を大きく発した栖の言葉にも耳を貸さず、要は半ば立ち上がってその場を去ろうとする。
これを止めようと、栖がさらに言葉を継ごうとした。その時、
「……簾を上げよ……」
静かに。しかし感情的となり、要と栖が口論に発展しようとした空気を、たった一言で途絶させる。それはまさしく、言外の部分に含まれた威圧であったのだろう。要も瞬時に断ち切られた自分の感情に、ただ唖然として千華代のいるらしき簾の先へと視線を固着させていた。
ところが、しばしして栖のほうは驚いた様子で千華代に問う。
「千……華代様……今、何と……?」
「簾を上げよと申した。栖、近う……」
「お、お待ちください……いくら要が八頼の器だとはいえ、御簾を上げれば千華代様の御姿を晒すことに……そのような恐れ多い……」
「そこじゃ。栖」
「……は……?」
「要の申せしこと、いちいちもっともよ。今は家格や血筋などに細々とこだわっておる時ではない。もはや戦う術も尽きかけ、名ばかりと化した八頼守護三家が眼前に迫りしサバキの脅威へ対抗するには、古い格式や風習を捨て、各々が力するよりもう道は無かろうて。それにの……」
「……?」
「今までは要の身を案じて何も知らせぬようにしておったが、今よりはその逆じゃ。すべてを知らず、どうしてサバキを倒さんとゆう意気が生まれようか。すべてを知らせ、すべてを晒してようやく要は八頼としての一歩を踏み出せる。栖、もう一度申す。簾を上げよ」
やはり静かに、されど断固たる口調で発せられたこの千華代の言葉には、さしもの栖も押し黙り、しばらくの間を置いて後ついに、
「……承知いたしました。それが千華代様の思し召しでありますのなら……」
そう言い、栖はすいと立ち上がると、するすると流れるような動作で簾の横まで移動し、これも手慣れた様子で簾を上へと巻き上げてゆく。
そして、簾が中ほどまで上がり、千華代の姿が目に入ってきたその時、
要は今日、何度目かの衝撃を受けて呆然となった。
事前に聞いていたのは、この八頼神社の歴史をよく知る人物ということ。
自分を十五年前に実の親から引き離して東京に移り住ませたということ。
そう、詳しい年齢や容姿については大まかな想像しか出来ていなかったのである。
ではあるが、さすがにこれは想定外もいいところ。と言いたいが、
否。違和感が無かったと言えばそれも嘘だ。
声を聞いた時点で何かがおかしいとは感じていた。
ただし所詮は漠然とした違和感。想像を大きく変性させるほどの要素ではなかった。
だからこそだろう。自分の目に映り込んだ千華代の姿に要が純粋な驚きを感じたのは。
巻き上げられ、紐で結わえ留められた簾の下、見えたもの。
それは、どう鯖を読んでも十一から十二歳といった幼い少女の姿。
真白な着物に緋袴。長い黒髪を左右で緩く留めている。
床の間に敷かれた座布団へきちりと座り、開かれた視線のその先、
さも嬉し気に、要の驚いている様を見据え、穏やかな微笑みだけを浮かべていた。