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カナメノカナメ  作者: 花街ナズナ
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ヤライトサバキ (3)

心が千々に乱れるという表現をよく耳にする。


これは文字通り、ひとつであるはずの心が幾千にも分かれてしまったかのように気持ちが混乱する様子を意味している。


このうえなく混乱した精神状態を言い表すのに、もっとも強いニュアンスを含む日本語のひとつであり、その中でも最古の部類に入るだろう。


客観的に見て、要の現在の精神状態がまさしくそれだと思われる向きも多いかもしれない。


だが実際には異なっていた。それも多少の誤差などでなく、まさしく極端に。

現実には真っ白。白紙。混沌とは真逆の空虚な意識。


要の思考力は完全に失われていたのである。


悩もうにも脳が動かない。考えようにも思考することができない。そんな様。


ただただ、記憶だけが頭の中を駆け巡っていた。

十五年の記憶。平凡な記憶。家族の記憶。親子の記憶。


幼稚園の頃、母と一緒に出掛けた近所のデパートでおまけつきのお菓子をねだり、買ってもらえずに泣いた記憶。


小学校に上がる少し前。好奇心から友達と一緒に入った裏道で迷子になり、半べそをかいているところを運良く巡回中の警官に保護され、連絡を受けて交番に駆け付けてきた母の胸へ飛び込んで泣いた記憶。


小学生の頃、誕生日のプレゼントでもらった自転車を、鍵を掛け忘れて盗まれたことを父に怒られて泣いた記憶。


取り留めも無く過去の事柄が思い出されては消え、また浮かぶを繰り返す。


ところが、


「……あまり感心しませんね……」


ふと、冷ややかに浴びせられた栖の言葉に、要は我を取り戻した。


取り留めの無い記憶などではない。それどころか完全な一致。今の自分に。


そこで始めて、要は自分が泣いていることに気がついた。正確には涙を流していることには気づいていたが、泣いているという認識が無かったのである。


感情がまるで定まらず、自分自身が何を感じ、何を思っているのかも分からぬほど頭が真っ白になっていたのがその原因であったのだが、そこまで冷静に自己分析できる状態であるなら、まずその時点で(涙を流している)と(泣いている)を別儀と捉えるような不可思議な考えには至らなかったはずだろう。


「当世風ではない物言いかもしれませんが男子たるもの、そうみだりに人前で涙を流すというのは、性根の軟弱なるを疑われても仕方がありませんよ。こうも些細なことで動じられては、周囲の者にも悪影響です。早々に八頼の血を受け継ぐ人間としての器量というものを身に付けて頂きたいものですね」

「……些細……?」


やにわに、続けられた栖の言葉へ要が反応し、声を漏らす。

白紙のようだった心に、ふつふつと湧き立つような怒りを感じつつ。


「些細って……何ですかそれ……僕が……僕と僕の両親が、本当は血が繋がっていないってことが些細な問題だとでも言いたいんですか!」


怒鳴るというほどのものではなかったとはいえ、形ばかりは冷静だった語り出しが、最後には語気を荒げたのは事実である。語尾の部分はほとんど叫び声に近かった。


しかしそれも無理は無い。何も知らずに、知らされずに過ごした十五年を、些細だなどと言われて感情を荒立てない人間のほうが珍しい。


「些細なことだから些細だと言ったまでです。何かおかしなところがありますか? 昔の武家などでは産みの親と育ての親が異なる例などざらにあった話。気にするような事柄だとは思いませんが?」

「それは大昔の話でしょうが! それに僕が腹を立ててるのは、何でそうならそうだと教えてくれなかったのかってことですよっ!」

「教えなかったのは当然です。幼くして貴方が自分の出生の秘密を知れば、どこで口を滑らせるか知れたものではありません。そうなったら、せっかく私たちが必死で隠してきた貴方を奴に見つけられる危険性は確実に増していたはず。無用の危険は冒さぬが吉。こんな簡単なことが何故、貴方は理解出来ないのですか?」

「……分からなくって当たり前でしょう……」

「……?」

「こっちに来てから何かにつけ、『奴が、奴が』って言われ続けて、でも僕はその(奴)っていうのが何なのかも分かってないんですよ! そんな僕がどうして、ああすべきこうすべきなんて道理を考えられるっていうんですっ!」


ここまで来るとすでに要は声を抑えようという気すら失せていた。


今までで溜まりに溜まった不満と疑問をがなり立て、涙で濡らしたその目を、前を歩く栖の背中へ真っ直ぐ向けて睨み据える。


と、要がこれほどの状態に至って始めて、栖は何か得心した様子で小さくうなずき、変わらぬ静かな調子で、改めて口を開いた。これまた変わらず、足を止めることは無しに。


「なるほど……言われれば、まったくもってその通りですね。事情を知らない貴方に事の重大さを考えろとは……我ながら粗忽でした。その点についてはお詫びいたします」


言ったが、謝罪は言葉のみ。後ろすら振り返らない。そして言葉を継ぐ。


「仔細は千華代様の御前でと考えていましたが……おおまかにでも説明をしなければ収まりがつかないようですし、少しだけお話しいたしましょう。我々が神代の昔より戦い続けてきた敵の名を……そう、奴と呼んでいたのはその名を口にするのも憚られる仇……八頼の血筋を断ち切り、その守護を任される我ら三家までをも滅ぼそうとしているおぞましき不倶戴天の敵……名を……サバキ」

「……サバキ……?」


その名前を聞いた時、一瞬だが要はそれまで抱いていた怒りや悲しみといった感情を綺麗に忘れてしまうほどの奇妙な既視感を感じた。


知りはしない。聞いたことも無い。だのに、

何故だかその名を聞いた途端、名状し難い感情に心が満たされていったのである。


恐怖のような、それでいて何か親しみに似た複雑怪奇な感情。自分で自分の感情をどう分類すればよいのかが分からない。


などと思っているうち、栖は再び語り出す。


「サバキは古代に信仰されていた数多き神の一柱ひとはしらです。その起源は八頼とほぼ同時期。と言っても、これも推測にすぎませんが」

「推測……ってつまり、犬神さんたちもそんなに詳しくは分かっていないんですか……?」

「極端に言ってしまうと、そうですね」


この返答には要も呆れて脱力してしまった。

聞いていた様子だけでもかなりさんざんな言い方をしていたにも関わらず、その相手のことを大して知りもしないとは。どういうことかと頭を捻ってしまう。


すると、またもや栖はそんな要の考えを読んだように話を続ける。


「自己弁護をする気はありませんが、サバキについて知らないことが多いのは致し方の無いことでもあるんです。何せサバキは中国から漢字が伝来するより以前の、まだ文字すら存在しなかった時代に祀られていた神。神道の神について書かれた最古の文献である古事記にも一切その記述は無く、口伝でしかその存在を知られていないほどに古い神なのです」

「口伝って……つまり言い伝えだけの神様……ですか?」

「乱暴に言ってしまえばそうなります。ですから、あてがわれる字も存在しません。サバキという呼び名である以外、知られていることは極めて少ないのです。ただし、その点では八頼も似た存在ではありますが……」

「……どういう意味です?」

「八頼もまた、漢字の伝来以前に信仰されていた神。本来はあてがわれる字は無く、単にヤライと呼ばれていました。それが偶然、土地の信仰として根付き、今に至るまで残ったことで、当て字として八頼と表記されることとなったわけです」

「当て字……」

「言うなればサバキは歴史に埋没し、忘れ去られた神。ヤライは小規模ながらその信仰を継続して存在を残してきた神。簡単に区別するとそんなところです。人々に望まれたものは残り、望まれないものは忘れ去られてゆく……歴史の必然ですね」


淡々とそう語り終え、栖は仕事を済ませたように再度、黙々と廊下をゆく。


が、栖の認識と要の認識には決定的な隔たりがあった。

そしてその認識の隔たりは、ごく自然な反応として要に栖への質問を促す。


「……あの……」

「はい?」

「ひとまず……いくつか分からなかったところは今のお話で分かりました。これまでに聞いた話も、ある程度は筋が通って理解出来たと思います。けど……」

「けど?」

「栖さんの話を額面通りに受け止めると、僕はヤライとかいう神様の血縁だと言われてるように聞こえましたが……」

「そうですね」

「加えて、その僕を狙っているっていう敵は、サバキとかいうよく分からないけど……何かの神様だということになるような……」

「まさしく」

「……」


この手短な問答を経て、行き着いた要の反応はある意味で至極真っ当。

今までの人生の中で吐いた溜め息のうちでもまず五本の指に入る大きな嘆息。


然る後、もはや声を出すのも面倒に思いつつ、要は呆れた様子で栖に話しかける。


「……犬神さん、申し訳ないですけど僕もう帰っていいですか……?」

「それは認めるわけにいきません。まだ説明不足の部分があるので仕方はないかもしれませんが、貴方はサバキに狙われているんです。ここなら絶対に安心とも言えませんが、今からこの土地を出るなど思案の外。論外も論外。この緊急時に、そんな幼稚な要求で人を困らせるのは止めて頂きたいものですね」

「だから……」


言い止し、要は一旦言葉を切って深呼吸をした。

冷静に話そう。相手がまともじゃないなら、なおのこと。冷静に話すべきだ。


そう思い、深く肺の奥まで吸い込んだ息をゆっくり吐き出すと、努めて落ち着いた口調で栖へ語り出した。


「僕はね犬神さん、さっきまでは色々と真面目に話を聞いていたつもりですよ。ええ、父からの頼みでしたし、僕なんかが何を出来るかは分からないけど、それでも何かの役に立つならと思ってこんなところまで足を運んできたんです。それが……」

「それが?」

「食べるものも食べず、飲むものも飲まず、寝ずの強行軍で来てみれば何ですかそれ。この僕が神様の親戚? それに他の神様から狙われてる? 申し訳ないですけど、僕は怪しげな妄想に付き合うほど暇でもお人好しでもありませんので、早々に家へ帰らせていただきます。家に帰ったら父にどういうわけでこんなタチの悪い冗談を言ったのか問いただして、それから改めて父にこちらへご連絡をさせるようにしますので、これにて失礼を……って、でも……ここに連絡を入れるにも携帯は圏外……」


そこまで。言い切るよりも早く、要は言葉を止める。思ったはずの疑問を口に出さず、中途で切り上げて。


理由は要からすれば単純なものだった。


実際には言葉を止めたのでも、話を切り上げたのでもない。


単にしゃべれなかったのである。


突然、喉元に突き付けられた鋭利な何かの感触のせいで。


突き付けているのは栖。だが何を突きつけられているのかが分からなかった。少なくとも要が見ていた範囲、栖は何もその手には持っていなかったし、かといって何かをどこかから取り出す動作も見て取れなかったから。


だが、そんな要にはお構いなく、


「ご心配無く。携帯電話は使えずとも固定電話の回線は通っています。ただし今はそれを使う必要は無いと思いますが……」


冷然として答える栖に、自然と要は視線を移す。

と、はたと気が付く。


裸電球の弱々しい光に照らされ、見えた栖の手元。自分の喉元に突き付けられた栖の手元。

それは栖の手に持たれた何かなどではなかった。


栖の手、それ自体。さらに正確に言うなら栖の指先。


始めは伸びた爪を首に押し当てられているのかと思ったが、よく見れば違う。


爪でなく、指先。何故か槍のように鋭い指先。まるで骨が指先から飛び出し、その形状が鋭利に尖っているような指先。


要が自分の目を疑ったのは当然だったが、あまりに至近距離で視界に入るそれを見紛っているのだと自分を騙せるほど要は器用な神経をしていなかった。


再び、頭が真っ白になる。今度は違う理由で。


人間の指はこんな形状に変化はしない。少なくとも要の知る常識の範疇では。

ゆえに思考が止まる。何が起きているのかが分からず。


しかし、やはり栖は言葉を続けた。

今、この状況が何ひとつ飲み込めず、ただ純粋な恐怖に体を硬直させる要を無視して。


「貴方は神を信じますか……などという愚かな言葉を吐く人々がいますが、私からすれば何を言っているのやらと思いますね。神は信じようと信じまいと存在するし、そしてそれは私たちが理想するような都合の良い神では決してありません。その最たるものがサバキなのです。要さん、自分の理解を越えた世界を否定するのは簡単ですが、現実はどんなに貴方が無視しようとも変わることは無いのですよ」


そう言い終えた所で栖はゆっくりと要の喉から鋭く変化した自分の手を離す。


瞬間、淡い光源に照らし出された栖の指先を見た要の恐怖は最高潮に達した。


背中を冷たい汗が流れ、肺は潰れたように浅い息しかできない。


「さ……着きました。こちらで千華代様はお待ちになっておられます。八頼守護三家筆頭たる火伏家の当主。今となってはこの八頼の社と八頼の歴史を知る唯一のお方……お聞きなさい、何もかもを。あの方なら、すべてに答えてくれるでしょう。そして……」


露の間、栖は声を止め、


「貴方を八頼として目覚めさせて下さるはずです……」


言って、すいと廊下へ膝をつくと、静かに横の木戸へ手を掛けた。

一度、二度、三度に分け、丁寧に作法通り、ゆっくりと開け放つ。


知らぬ間、辿り着いていた。自分をこの土地へ呼び寄せた当人のいる場所へ。


堪らず、要は乾いた唇を無意識に噛んだ。


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