ヤライトサバキ (2)
問う暇を与えられないのはつらい。が、悩む暇すらも与えられないのはさらにつらい。
家で父に電話がかかってきてからここまでを見れば、なかなかの紆余曲折。肉体的にも精神的にも負担の大きかった道中。それを乗り越え、ようやく辿り着いた場所、八頼神社本殿。
なのに、要はといえば訳の分からぬ栖の話で呆気にとられたまま。
煉瓦のように積み上げられてゆく疑問は増えるばかりである。
しかも不幸なことに、それは現在進行形だ。
急に妙な話をして要の頭にハテナマークを発生させた張本人は、何を言ってるのだろうかという思いを声に変えるよりも早く、
「さ、どうぞ」
手招きしながら本殿の中へと向かってしまう。
こうなると質問のタイミングを逸した要は、黙って従うより無い。
のであるが、
要の疑問増加は現在進行形。着々と増えることとなる。
先を行く栖の背を追い、同じく本殿へと入ろうとした際、要はまたしても気になる状況がそこへ形成された。
「じゃ、後はよろしくな栖。アタシは母屋で待機してっからさ」
「そうしてください」
そう手短なやり取りをし、巳咲一人がその場を離れていってしまう。
事前から決まっていたように何事も無く。
これにはさしもの要も、立ち去ってゆく巳咲を見ながら栖へ問う。
ここまでで蓄えてきた分の疑問はさておいて、この期に及んで何故、巳咲は本殿の中まで同行しないのか。頭が正常に動き、タイミングも一致するこの場にあっては質問するに障害となる要素は皆無。口は意識すらせずとも動いた。
「……あの……犬神さん」
「はい?」
「狗牙さんは……何か他の用事でもあるんですか?」
「他の用と言いますと?」
「や……だってわざわざここまで一緒に来たのに、一人だけ別のところへ行くってことは何か違う用でもあるのかと……」
「考え過ぎです。巳咲は単に本殿へ入る資格が無いから去っただけのこと。巳咲の家……狗牙の家は家格が三家の中でもっとも低く、本殿には立ち入れないのですよ」
「え……? か、かく……って、何のこと……」
「行きますよ」
「あ、ちょっ、待ってくださいっ!」
質問には応じたとばかり、そそくさと本殿内に入り込んでゆく栖に、要はその答えそれ自体が新たな質問を生じさせていることを伝えようとしたが、何を急いでいるのやら、栖の足は止まろうとしない。
仕方なく要も後を追う。そうする他にどうしようもないからという極めて不本意な理由で。
しかしそんな彼の感情も、次の瞬間に塗り替えられることとなる。
本殿の中へ足を踏み入れたその直後に。
正面の上り口を上ると二枚の木戸によって外部と隔絶されていたが、それを左右に滑らせて栖は中へと入っていったため、後を追う形の要は無造作にその内部の空間を目の当たりにすることになった。
暗い。かといって存外に暗くも無い。薄暗いのだ。
目が暗さに慣れてくると、その内部が外観からの予想以上に広く感じた。
闇に溶け込むように、ぼんやりと橙色の光で映し出される黒茶色の壁。廊下、柱、天井といったすべての構成要素が、各個に存在を主張しつつも、重苦しい闇の印象を際立たせている。
相当な年季が入っているはずなのに、木戸はスムーズに開いた。これは元々の造りがしっかりしていたことと、日々の手入れが万全に行き届いているからに他ならない。
一般に木造建築物は脆く、耐用年数も短いと思われがちだが、人が常に住み、手入れを怠らなければ驚くほどの長い歳月、その形と機能を保ち続けることができる。
そして、長い年月を経た建物には一種独特の風格が備わり、見る者の心に不思議な郷愁を芽生えさせるようになってゆく。
それは記憶とは違う領域に作用する奇異なるノスタルジア。
大袈裟に言えば遺伝子にでも刻み込まれた感覚か、もしくは本能への揺さぶり。
太古に自分の先祖たちが生き、暮らしたのであろう時間が、そこには過ぎ去ることなく留まっている。
さらに奥へと歩み入ってゆくと、五感のすべてに靄がかかり、煤けた古い木材の匂いと何か香のようなものの香り、軋む廊下の床板の音が、天井から等間隔に下がり、仄暗く内部を照らし出す裸電球の光と綯い交ぜになって要の中から現実感を剥ぎ取っていった。
が、そんな中でも要の思考は停止することなく回転する。
本殿の築年数はおおよその目算で百年以上。下手をすれば数百年かもしれない。だが、光源として裸電球が取り付けられていることから、少なくとも電気は存在するのだろう。
電線で通じているのか、または……、
「備え付けの発電機です。古いディーゼルエンジンを利用して作った粗末なものですが、山での生活に必要な電力程度なら、まかなうには困りません」
瞬間、要は驚きのあまり自分の横隔膜をバウンドさせた。反射的に息を吸い込み、しゃっくりのような音を立てて。
無理も無い。それだけ前を行く栖が突然に発した言葉は、要の頭の中身でも見透かしたとしか思えない内容だったのだから。
「え……い、犬神さん……?」
「ちなみに発電機を動かしている軽油は、巳咲が貴方をほったらかしにして入り浸っていた氏子百貨店で購入しています」
「……!」
「そう何度も驚くほどのことではありませんよ。私の家……犬神の家は八頼守護三家の中では特に勘働きが優れている一族なんです。考え事だろうと隠し事だろうと、大抵のことなら簡単に察せます。にしても……あれだけ念押しをしておいたのに、やはり役目をすっぽかしていましたか。まったく……こんな人手の足りない状態でさえなければ、巳咲になど始めから何も任せたくはなかったんですがね……」
要が口を挟む余地も無く、栖は足も止めずに淡々と語る。最後、巳咲について話した時だけは明らかに嘆息の混じった口調であったが。
「まあ、もし奴が貴方の存在に気付いていたなら、八頼駅へ着くより前にもう貴方をどうにかしていたはず……そう考えれば、奴はやはり貴方のことをまだ知らないと考えて間違い無いでしょう。不幸中の幸い……いえ、災い転じて……と言うべきですか……奴に対して貴方の存在がまだ秘匿できていることが分かったのは結果だけ見れば何より……」
「あ、あの、犬神さん!」
堪らず、要は半ば悲鳴じみた声を上げて栖の言葉を遮った。
またしても置いてけぼり。大まかな話は分かるが、所々にまた謎が織り込まれている。とてもではないがこれ以上、蚊帳の外で話を進められたのでは神経が先に参ってしまう。
そう思っての、必死の喰いつきであった。
「何だか今はすごく大変な時なんだってことは、僕にもなんとなく分かります。でも全部が全部、なんとなくなんです。何ひとつ具体的に理解出来てない。お願いですから、いい加減で僕にもちゃんと説明をしてもらえませんか?」
人の価値観はそれぞれに異なる。ゆえに誤解や無理解が生じる。それは往々にして性格や思考傾向の違いによって生じるのだが、原因はさておき、今の要にとって何より重要だったのは、栖がどうにも自分だけで分かったまま話を進めている現実だった。
そんな、ひどい伝達不良に疲弊した心が上げた要の悲鳴が声となって喉から出たのである。
かくして、悲痛な叫びのようなこの要の言葉に、栖は瞬時、後ろを振り返る。人の考えに対しての勘所は良いのかもしれないが、心の動きには鈍感としか言えない栖が。
始めこそ目を丸くし、親とはぐれた迷子を思わせる表情をした要の様子を見ていたが、少しするとまた自分だけ分かったように小さく何度かうなずくと、今までどおりの落ち着いた調子で要へ語りかけた。
「いけませんね……これは失態でした。自分で道々、仔細をお話しすると言っておきながら、事情を知らない要さんに対する配慮を完全に失念するとは……まことに申し訳ありません」
「……いえ……分かってくださればそれでいいんですが……でも正直を言って、かなりつらかったです……」
「そのお顔とお声を見聞きすれば誰でも察せるでしょう……そんなことにも気づかず、本当に失礼をいたしました……」
「はあ……」
「では改めまして、ご説明のほうをさせていただきましょう。つきまして、これは言い訳のつもりではないのですが、要さんが何を知り何を知らないかを私も完全には理解していません。そこを踏まえ、要さんのほうから質問してくださると助かります。何が分からないのかを言って下さればそれについて説明をさせていただく。そういう形でよろしいですか?」
「……そうしていただけると、僕もありがたいです……」
「了解いたしました。それでは、さっそくに質問をどうぞ。先にも言いました通り、向かいながらでお話をさせていただきます」
そう言うと、一旦は要へ身を向けていたのを素早く返し、再び薄暗い廊下を栖は足運びも早く進んでいってしまう。
ただ、その背中がもう単なる背中でなく、受け答えをしてくれる背中だと思うと、要にはもう不安は無かった。
ところが、である。
「じゃあ……まずは、まさに今のことなんですけど……」
「何ですか?」
「父からは八頼の本家に行けとしか言われてないんですが……一体、僕はここに何の用事で呼ばれたんでしょうか……?」
「……ふむ……」
まさかの質問一回目で妙な間を空けられてしまった。
これには要も失望し、無意識に嘆息を漏らしそうになる。が、
「それについてはまず要さん、貴方が自分の立場を知ることから始めなければいけません。少しばかり長くなりますが、大丈夫ですか?」
しばしの間こそあったが、返答は戻ってきた。
聞いて、慌てて要は気を取り直すと話を再開する。
「あっ、はい……どうも込み入ってるみたいな言い方で気持ち悪いですけど……」
「実際、相当に込み入っています。まあ無理も無いことです。最後の八頼である貴方のお話が単純に済むほうが不思議でしょう」
「いえ……だからその……狗牙さんにも言われましたが、僕が最後の八頼ってどういう意味なんです? 僕の名字は水朱だって言っても、狗牙さんは聞いてもくれなかったし……」
「当然です要さん。貴方が名乗っている水朱という姓は、育て役を引き受けた者たちの名字であって、貴方自身の本当の名ではありません」
するりと、まるでごく普通の会話であるかの如く、うっかりしていたら聞き流してしまうほど自然に、あまりにも衝撃的な返答。それゆえ、
要は今、まさに今、栖が何を言ったのかを瞬間的に理解出来ず、その場に硬直してしまった。
だが、やはり振り返りもせず栖は一声、
「要さん、考えたり悩んだりは結構ですが足は動かしてください。今は立ち止まっていられるほど時間的余裕は無いんです」
冷たいのではない。無感情とも違う。こんなことは大した問題ではないという口調。
そして、そのあまりに当たり前といった態度に混乱の度を極めた要は、言われるがままに歩を進める。栖の背後へ張り付くようにして。
「……あ……の、何が、何なんです……? 育て役とか、本当の名じゃないとか、犬神さん何を話してるんですか……?」
「言われてすぐに納得しろと言っても無理でしょうが、かといって納得するための時間を用意できるほど状況は穏やかではありません。ですので恐らく今、要さんが抱いているであろう疑問を一度に解くため、長い話をさせていただきます。よろしいですね?」
問うてはきたが、返事を聞くような質問ではない。話し出した時点ですでに強制。
その証拠に栖は要の返事など聞かず、すぐさまひとりで語り始めていた。
「八頼とは何かと、問うておられましたね。先ほど答えた通り、八頼とは神の名であり、家の名であり、土地の名です。そしてそれらは個別の意味を成すわけではないのです。この土地を司る神の名が八頼であるため、土地の名も八頼。加えてその神の血を継ぐ人間もまた八頼と呼ばれていました。古来より連綿と受け継がれてきた神の血統。それが八頼の家に生まれた方々であり、そんな八頼家の守護を太古から担ってきたのが私の一族である犬神、巳咲の一族である狗牙、さらに八頼家守護筆頭の火伏を加えた三家。この三家の手で八頼家は守られ続けてきたのですが、それも今となってはもう遠い昔の話です。本家である八頼の血統はとうに絶え、形ばかり残った八頼の社を我々、八頼守護の三家が今日まで虚しくも守り通してきました。それもこれも、再び八頼の血をこの世に甦らせるため。一度は滅ぼされた八頼の血を復活させ、憎き仇を倒さんがため……」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ……何か僕の事情はどうでもいいみたいに流されてますけど、僕の名前がって……それ、つまり僕の父と母が本当の親じゃないとでも……」
「……そういう意味で申し上げたつもりですが、お分かりいただけませんでしたか?」
「……」
絶句するより他は無い。何せ突然すぎる上、要からすればとてつもない重大事である。
ごく普通だと思っていた父と母。ごく普通だと思っていた親子関係。ごく普通だと思っていた十五年間。
それをただの一言、実の親ではないと言われて何も思わずに飲み込めるほど要の神経は図太くなかった。
ゆえにこその絶句。言葉など出せない。それ以前に口から出す言葉が見つからない。
そのため、お世辞にも中身が整っているとはいえない頭で、要は栖がなお語るのをどこか放心した状態で聞き続けることとなる。
「にしても、育て役をこなした水朱の者たちはよく貴方を守り育ててくれたものだと感謝しています。奴の目から隠し通して十五年。こうまで立派に育て上げてくれたのですから。都会ならば、それも東京のような人口密集地帯でなら貴方から微かに滲み出てくる八頼の匂いも誤魔化せるかもと、危険な賭けをした甲斐がありました。ですが、まだ貴方の中にある八頼の血は薄すぎます。今まではそのおかげで奴の脅威から身を守れましたが、これからは奴との戦いを想定しなければいけません。そのためにも早く千華代様にお会いしていただく必要があります」
「……千華代……?」
ほとんど反射的に口から出た。
別に何かを思って口にしたわけではないが、とりあえず知らない名前が出てきたので反応した程度のこと。
さりながら、聞いた側の栖にそんな事情までは伝わらない。そのため、普通に説明を返してきてくれたのは要にとって、ひとまず結果的に幸いではあったと言えようか。
「火伏千華代様。八頼家守護の三家筆頭、火伏家の当主です。今回、貴方をここへ呼び寄せることを決定したのも、そして……」
「……?」
「十五年前、この土地から遠く都内へと貴方を逃がすよう差配したのもその方です」
途端、急激な眩暈。ひとつ何かの内側から物を覗いているような錯覚。現実感の無さに拍車がかかってゆく。
ふと、要はこれらすべてが睡眠不足と疲労による幻覚ではないかと考えたが、すぐさまその考えを自ら否定した。
目頭の熱さに気付いて。
知らぬ間、自分の頬を流れていた涙は熱く、濡れた感触で現実を教えたが、要にはもはや自分の中のどの感情がこのような涙を流させたのか、理解することが出来なかった。