プロローグ (5)
目標が目前となると、人間という生き物は現金だ。
ここまでの疲れはどこへやら。嘘のようにペースを上げて動けるようになる。
現実に、要はついてゆくのがやっとだった状態から一変、巳咲と並んで進むほどの早い歩調で残った石段をひと息で上りきってしまった。
要した時間は最初の半分を上るのに使った約10分に対し、わずか数分。
常に緊急を考え、無意識に余力を残そうとする人体の性質が如実に表れたといえよう。
さておき、
石段を上り終えた要と巳咲。自然、先ほど声をかけてきた人影の正体とご対面である。
ただ、正確には上りきるより以前にその全容はほぼ目にしていた。
何とも不思議な光景とともに。
それまで周囲を覆っていた大量の樹々が、霧が晴れるようにして消え失せ、代わりに眼前を覆うのは目にも鮮やかな朱色の鳥居。
まだ日は落ちていないとはいえ、かなり暗くなっている山の中。その奥にあるらしき境内辺りから差してくる眩しい光に照らし出され、どこか霊妙な威厳を醸し出している。
而してその中央。
鳥居の真正面へ立ち、静かに要らが訪れるのを待ち続けていた人影。
光を背にしていたため当初は判然としなかったが、近づくと身に纏う影の輪郭だけでもその正体はおおよそ知れた。
これもまた少女。とはいえ要よりは年嵩なことに違いは無い。
短いが、さらりとした髪。ふくよかな胸のラインを映す長袖の白いYシャツ。ループタイと見紛う緑青色をした勾玉の首飾り。
一瞬、下に履いているものは何なのか分からなかったが、よく見れば袴だった。
しかも緋色の袴。和洋折衷のコンセプトで着ているのかもしれないが、何とも奇妙な取り合わせである。
銀縁の眼鏡をかけた顔立ちは端正ゆえか、どこか冷淡な印象を感じさせたが、そこがより女性らしさを強調していた。
特に対比する相手がこの場合、巳咲だったから余計であったかもしれない。
「お役目ご苦労様。途中、寄り道したのは褒められたことではありませんけど、ともかく無事で何よりでしたね」
石段を上りきった巳咲に向かい、かけた第一声。
その明らかに険のある言い方からして、タイプこそ違うが彼女も巳咲に負けず劣らずきつい性格だと要は感じた。
そして言われた当人である巳咲はといえば、素知らぬ顔で袋に残った最後のジャーキーを取り出すと、咥えてそのまま口を閉ざす。
この様子から、どうやらこの二人は険悪とまでひどくはないかもしれないが、お世辞にも仲が良いとは言えないらしい。
などと、第三者を決め込んで様子を見ていた要だったが、
「で、そちらが東京からいらした……?」
急に話を振られた。眼鏡の少女に。
二人で話していると決めつけていたせいで気がつかなかったものの、見れば眼鏡の少女は視線を真っ直ぐ自分へ向けていた。
慌て、要は形ばかりに挨拶をする。巳咲の時とは異なり、握手などは無し。ごく普通の会釈と自己紹介。
「あ……はい、水朱要です。始めまして……」
「始めまして要さん。私は犬神栖と申します。さぞ急な話と長旅でお疲れでしょうが、まずはこちらの社殿のほうへ急ぎ、ご案内をいたしましょう。ここまで来れば奴もそう容易に手は出してこれないとは思いますが、何事も油断は禁物。用心してし過ぎるということはありませんから」
「……は?」
要としては至極当然に発した疑問の声。
まあこの栖と名乗った少女が話した内容を思えば、誰しもそう感じるだろう。
大体、今回の事情に関してあまりにも曖昧な情報しか聞かされていない要にとって、こういう自分を置いて勝手に進む話というのは楽しくないし、非常に不安である。
ただし幸いなるかな、栖はその身に滲ませる聡明さに違わず、察しは鋭かった。
奥の社殿へ向かおうと一度は背を向けた要を振り返り、発せられた短い疑問の声の意味を考えつつ、じっと眼の中を探るように見て、
「なるほど……」
一人、納得したようにそう言い、言葉を続けた。
「事情は何も聞かされずに育ったとは聞いていましたが、どうやら本当に何もご存じないようですね。ならば疑問を抱くのも已む無しでしょう。けど、今はとにかく足を進めてください。疑問については社殿までの道々、お話しいたしますので」
そう言うや、栖は再び要と巳咲から身をひるがえし、鳥居をくぐって奥へと歩き始める。
するとすぐ、いつの間にか要の横にきていた巳咲が、その小さな背中をパンッと高い音を立てて叩くと、
「ほれ、言われたろ? さっさと行けよ。でないとほんとに日が暮れちまうぞ」
言って、巳咲は要の横を抜け、すでに鳥居をくぐり抜けていた栖の後を追う。
こうなると要に選択肢は無い。
「あ、や、ちょっと待ってくださいよ!」
日の落ちかけた山の中にひとりで取り残されるなど、想像するだにゾッとする。
おかげで情けない声を上げ、慌てて巳咲と栖を追うしかなかった。
ところが、
鳥居を抜けて姿が見えなくなってしまった二人へ急いで追いつこうと、自らも鳥居をくぐったその瞬間、
要は絶句する。
眼前に広がった光景に。
鳥居と栖を濃い影にし、後光の如く照らしていた光の正体。それは、
煌々と燃え盛る巨大な焚火。
考えていた以上に広大な敷地の中を貫くように通る長い参道の真ん中。そこに行く手を遮るかのように、猛火がのたうちまわっていた。
山から吹き降ろしてくる風になぶられ、蛇のように蠢く業火。
その光に照らされ、荘厳に輝く拝殿。それを手前に置き、堂々たる風格で建つ巨大な本殿。
こうした独特の様式美には決して明るくない要であったが、何か精神が世界とともに広がってゆくような、言葉での説明が極めて難しい、圧迫感と浮遊感が同時に介在する濃密な霊異が包むその場の空気。空間感覚の変質。淡い既視感。
それらの複雑な意識の流動が混在し、めまいさえ感じる。
子供の頃、近所にある神社のお祭りに、夜も更けてから両親と行った時、感じた空気感とどこか似ていた。
いくつも焚かれた松明の火。薄い月明りと松明が描き出す境内。その中で、神楽殿に踊る巫女の姿を要は今も忘れていない。
子供ゆえにその行為の意味は理解していなかったが、しかし心の深い部分……本能に近い部分が、見た目の幽玄さに隠された本質を感じ取っていたのである。
(これは目に見える事柄の奥に、どこか知らぬ別の世界との交わりを示している)のだと。
知り、感じ、畏怖の念を抱きながら、それでも目を逸らせなかったあの日の記憶。
無意識、要の体は震えていた。
だが、
それとてこの後に見た光景によってもたらされた大いなる戸惑いと恐れに比べれば、些細な思い出のひとつでしかない。
しばし、目に映る光景に呆然としていた時、全体の一部として目にしたもの。
その驚愕は、先ほどこの巨大な焚火を目の当たりにした時とは天と地。雲泥の差。
何せ、性質が大きく異なっていたのだから当然か。
これまでのところで見た光景の異様は、単に感覚的異様。
何かが奇妙だと感じただけの話。
しかし今度は根本から違う。
視界の大半を埋め尽くすように燃える火と、その在所である参道。そこを足早に進んでゆく巳咲と栖の二人。
あまりにも二人揃って直進を続けるので、まさか火の中でも通ってゆくのかと馬鹿なことすら考えたりもしたが、いくらなんでもそんな非常識は起こらない。
巳咲も栖も、参道を中ほどまで進むと、ピタリと足を止めて焚火の正面に立ち、間近にその火へ見入っている。
と見えた。少なくとも要の目には数秒、そう見えた。
けれど、実際の二人は要が思っていた事とはまったく別の動きを示す。
「お疲れさん。悪ぃな、年寄りどもにこんな力仕事させちまってよ」
一声、巳咲の言葉が飛ぶ。
始めその声の対象が何なのか分からなかった要だったが、ほんの一瞬後にはすべてを目と耳で理解することになった。
「いやいや、このくたばり損ないでもまだ八頼さんのお役に立てるなんて、うれしいこって、疲れなんぞ忘れちまいますわえ」
やにわに、巳咲でも栖でもない声が響く。
音はほぼ焚火の中から聞こえてきたが、それが有り得ないことだと理解していれば、おのずと答えは出る。
よく見てみれば火のそばには数人の人影。というより、もはや夕闇へ埋没して定かでない人の形をした何か。と言っても、二人との話し振りからしてその正体はある程度の察しはついた。
「もう何年振りですかいのう。前は多分、わしらのじいさんたちの頃だったかな」
「だな。アタシも直接は見てないけど、よく話には聞かされたよ」
「大体、百年に一度くらいですか……まったく、あいつのしつこさにゃあ、ほとほと呆れて口もろくろく利けませんて」
「その割にはよく動く口だな、ジジイ」
「ありゃ、こりゃあ狗牙の姫さんに一本取られましたわ。ははっ」
「……姫はよせよ。キモチワリィな……」
「照れることはありますめぇよ姫さん。うちらにゃ大事な姫さんだ」
「うははっ、違いねぇ違いねぇ。のお、犬神の姫さんもそう思いなさりましょ?」
「……私も……出来ればその呼び方はご遠慮願いたいですね……」
「ああははっ、見てみぃ、犬神の姫さんまで照れていなさるわ。こりゃ珍しいもんが見れた」
どこか、からかわれた感じで口をつぐんでしまった巳咲と栖を尻目に、話の様子から老人たちだと分かった人影たちの笑い声が夜を間近に控えた空へ木霊する。
ここで、要は遠巻きに会話を聞きつつ、依然としてされない現状説明について補填するため、自分なりの憶測を始めた。
急ぎの用である風なのにも関わらず、何故だか遅々として進まぬ自身への情報提供に、要なりの対処を試みた格好である。
さて、そうなるとまずこの老人たちの正体について。
恐らくこの老人たちは、町に古くから住む人々なのだろう。それでこの神社……もしくは八頼家に対して協力をしてくれている。そういった流れであろう。
巳咲や栖への親しい接し方からして、そこはまず間違いはあるまい。
といった具合に、要としては精いっぱいの当て推量をしている間にも、老人たちは手に手に地面へ置かれた薪を拾い上げるや、道を塞ぐ壁のような火の中へと手慣れた様子でくべてゆく。
要を蚊帳の外へ置いた展開は変わりなく。が、
「西組と北組の連中がどんどん新しい薪を持ってくる手筈んなってます。火は決して絶やしませんので、姫さんたちゃあ安心してくださいまし」
幾人もの老人のうち一人が、それまでの砕けた口調から一転、何か鋭さすら感じる真剣さでそう告げたのが、その場の最後のやり取り。
合わせたように巳咲は一声、
「分かってるよ」
不思議な、何か芯の部分に信頼感を含む言葉を残し、巳咲は無言の栖と連れ立ち、なおも火勢を増す焚火の横を通り過ぎる。
と、思ったその刹那、
「おっと、忘れてた」
足元で薪をくべ続ける老人を避けつつ、焚火の横を抜けようとしたまさにその時、
巳咲はそう軽く言ったかと思うや、先刻から左手に持っていたジャーキーの空き袋を焚火の中へと放り込んだ。
のだと思った。
思った。が、違った。
袋を火の中へ放り込んだ?
違う。
袋を持った手を、そのまま火の中へと突っ込んだのだ。
その事実に気付くや、思わず、あっと要は危険を感知した短い声を漏らしたが、瞬きをするよりも早く、その行為が何の意味も成さないことだと知ることになる。
ビニール製の袋は瞬時に高温で溶け、焼け落ちた。灰も残さず。消えるように。
ならば手は?
巳咲の手は?
そう思い見ていた要だったが、次の間に目の中へ飛び込んできた光景はまるで驚きの具象。
もしくは非現実的な現実という表現がしっくりとくるだろうか。
こうした特異な状況における間延びする時間経過の錯覚を差し引いても長いと断言できる間、灼熱の火に炙られた巳咲の左手。普通ならば全体が焼けただれていておかしくないその手。
それを、巳咲はゆっくりと火中から引き抜く。
自然、要の視線はその手に向かったが、心配した手の状態はといえば、持っていた袋が跡形も無く失われている以外、何の変わりも無かった。
ぱっと開かれ、火の光に輝く楓の葉のような手。
どこにも火傷をしたらしき跡は無い。
それどころか煤に汚れてさえいない。
そんな光景に、唖然として口をぱくつかせる要の耳に、
「ゴミの始末はちゃんとしねえとな」
何やら楽しげにも聞こえる巳咲の声。
しばし意識の散っていた要も、はたと反応して視線を巳咲の手から顔へと移した。
そこには背を見せつつ、首だけ横を向き、流し目で要の驚いた表情を眺める巳咲の顔。
転瞬、要の背筋にぞくりと寒気が走る。
何故なら、
その巳咲の顔が、炎に照らし出されたその顔が、
あまりにも、獣じみた笑みを浮かべていたがゆえに。