カナメノカナメ (2)
栖は純粋な驚きをその顔に映し、それ……物と定義すべきか、者と定義すべきかも分からぬ、まさしくこう言うしかない、(それ)を見つめていた。
辺りは天地の区別もつかない暗闇であるのに、自分の数メートル先へ光源も無いのにはっきりと姿を浮かび上がらせて立つ、千華代の形をした何かを。
とはいえ、正体の見当はほぼついてはいたが。
自分に向かって微笑みかけつつ、発してきたそれの声を聞いて。
「苦労をかけたのう栖……吾の無力さゆえ、そなたにはひどく負担を強いることになった。心から詫びよう。吾は自業自得と言ってもよいことなれば汚名も甘んじて受けるが、そなたに一時でも裏切りの心痛を与えたのはすべて吾の不徳。まこと、慙愧に堪えぬ……」
「それは……何のつもりですか? サバキ……」
「ふむ……」
感じた違和感は決して大きなものではなかったが、それでも今、自分の目の前にいるのが千華代ではないという感覚は強かった。
そうなると自然、導き出される答えは単純になる。
しかし、
この件に限れば、栖の勘は外れていた。
いや、勘ではない。
考えが正しくなかったのである。
問いかけられ、少しく考えたような素振りをしたそれは、すぐに栖を見つめながら答えた。
「不審を抱かれるも已む無しではあるな……すでにヤライから分離した吾は、存在としてはサバキにより近しい。分身と本体の違いといえど、ヤライとサバキとでは性質が大きく異なる。逆に、なればこそサバキはヤライから分裂できたのじゃから、何が良し悪しとは一概には言えぬがのう」
「……え……?」
「簡単なことじゃよ栖。今の吾はおよそ二千年間、ヤライに身を支配され、操られていた火伏千華代ではない。ほぼ本来の自身……八頼千華代であった頃の吾へと戻った姿よ。さりとて、これも一時的なことでしかないがな」
「なっ……で、では……本当に……本当の千華代様、なので……?」
「そこも答えるのは難しい。そなたの知る千華代はヤライに支配されていた吾であり、ただの千華代である吾とは異なる。思うに、そなたが吾に対して感じている違和感こそが、そのまま今現在の吾が如何に曖昧な存在であるかを示しておるのじゃ」
「そんな……」
「まあ、言葉で説明するより早く知る方法もある。要……いや、今や現御神カナメと呼ぶのがふさわしかろうな……その中にいる今なればこそ、こうした伝え方もまた良しか」
そう言った千華代であるらしき人の形へ、栖が問おうとした途端、
光景が一変する。
暗闇から、ぼんやりした闇へ。
そこに、
『お覚悟は決まられましたか? 千華代様』
慇懃な男の問いかけを聞き、栖はそれが当然だというように響いてきた声の方向へと反転して身を向けた。
そしてさらに驚愕する。
視線を移したその先には、何故かもうひとりの千華代がいた。
瞑目して座り、身じろぎひとつせず静かに、自らへの問いに対して静かな調子で言葉を返す。
『埒も無いことを言いよる。吾の覚悟、不覚悟が何の意味を持つと申す? 烏滸の沙汰じゃと吾が申したところで、もはや定められしことなのであろう? 時を経て抑え難くなりし八頼の血を、吾の身に封じんというそなたらの存念は』
『……お返し致す言葉も、御座りません……』
『いや……吾こそ意地の悪い物を言ってしもうた。そなたにこのようなことを申したところで何もならぬというに……済まぬな。未熟者の弱音と笑うてくれ』
心苦しそうな男へ、千華代は目を閉じたまま口元にだけ微かに笑いを浮かべている。
ここで、少しく気持ちに余裕が出てか、栖は千華代と男以外のものにも視線を巡らせた。
見間違いは無い。ここは千華代の部屋。つまりは本殿。
ただ、微妙に造りが異なる……というか、木質が違うように感じられる。
雑な感覚で言うなら、全体に今の本殿より新しく見えたのだ。
「この後、すぐに吾は床に伏したヤライの許へと向かい、その血を受けた。初代様が産みし最初のヤライ……その正体を知ったのは皮肉にもそんなヤライにこの身を奪われてから。いつの世も変わらぬな……人は過ちを犯さねば、それが過ちであることにすら気が付かぬ……」
言うのを聞き、栖は自分が今、見ているものが二千年前に起きた八頼での出来事と知り、危うく声を失いかけたが、何とか己を奮い立たせて質問を続けた。
「流れは……それなりに理解しました。初代様は自分の中に取り込んだヤライを人の子として産み落とすことでその力を封じた……が、それも歳月には勝てずヤライの力を封じる力は弱まり、代わって千華代様がその身へヤライを宿そうとした……そういうことですか?」
「左様。なれど初代様が直々に力を封じた御子に比べ、吾などではとても任に非じと分かってはおった。ところが、事態の逼迫がその現実を人々に忘れさせた。いや、無理に目を逸らしたのじゃろうの。出来るはずも無いことを、出来るものと信じるしかなかった。結果はもう分かっておろう。吾はヤライの傀儡として二千年をかけ、八頼と守護三家を弱体化させていった。ゆっくり……少しずつヤライの力が戻るまで、最悪の内患となっての……」
「……」
「思えば、初代様が現人神であったことも、ヤライそのものというより歳月に負けた最たる要因じゃ。寿命があるゆえ、初代様も御自身の中にヤライを保つわけにはゆかなんだ。そこで人の子に変えて生を受けさせることにより、ヤライの力を削ごうとされたのであろうが、それも人の身でしかない八頼と三家には荷が重すぎた。結局、二千年の間に吾が成せたことといえばヤライの一部をサバキという別物の神に仕立てて逃したこと。それとどうにかヤライの意識の隙間を突き、力を封じた状態とはいえ道返玉を栖……そなたに託した。それが限界。二千年もの時をかけて……」
眉をひそめ、自嘲に微笑む顔をうつむかせながら千華代は歯切れも悪く言葉を終える。
一方、栖は何を話すべきか、何と話すべきか分からず、今度こそ絶句してしまった。
過失があったならもしかすれば話も変わってきたかもしれないが、これはどう考えてもなるべくしてなった結果としか思えない。
それを責められるほど、栖も愚かではなかったし、子供でもなかった。
ゆえにこそ、過去も含めた現在をどう受け止めてよいのか分からず、栖の思考は少なからず混乱する。
が、その瞬間、
「ま、千華代チャンも栖チャンも済んだことは気にしないでいいんじゃないのお? 終わったことでいちいち悩みすぎると、胃に悪いから止めときなさいな♪」
また少し離れた場所から声が響いてきたのへ反応し、栖は半身をひねってそちらを見遣った。
口調と声でほぼ分かってはいたが、それでも目で確認した時には安心というには複雑すぎる心境で声の主に視線を固定する。
突如、現れたサバキに対して。
ただし、奇妙に感じた部分もあった。
毒気が抜けた……とでも表現すればよいのだろうか。
今のサバキからは、何故かこれまで感じてきた危険な雰囲気が欠如している。
獣と化した姿を除けばまるで……生前の巳月と区別がつかないほどに。
「それにさあ、千華代チャンのことを責められちゃうとワタシも立場が無くなっちゃうし。ヤライを相手にしてた千華代チャンに比べたら分身のサバキを相手にしてたワタシは完全に抑え込めてなきゃダメなのに、けっこうサバキに引きずられてたからねえ……」
言いつつ、ばつの悪そうな顔をして頭を掻く。
それからおもむろに、
「それはそうと、栖チャンちょっと巳咲チャンのこと見てあげてくんない? 何だかワタシのことを犠牲にして生き延びたみたいな自己嫌悪で心が折れちゃったみたいで、さっきからずうっと、このまんまなのよお」
次は悩ましそうな顔つきで自分の足元を指さした先には、何故かは知らないが地に突っ伏して声も出せないほど激しく泣き続ける巳咲の姿があった。
「うっかりサバキ討伐の裏事情やら見せちゃってさあ……それからってもん、いくらなだめても泣きっぱなしで……栖チャン、助けてえ……」
哀願してくるその雰囲気に触れ、ついに栖の中で認識が切り替わる。
目の前のこれはサバキではない。
すでに、巳月へ戻っていると。
長年の付き合いゆえに、こうした微細な差異にはなおさら敏感に反応できた。
勘の裏打ちもあるだけに余計である。
そう思うと、巳咲の様子と巳月の言った話が気になった。
サバキ討伐の裏事情は栖も犬神の人間として会議に出席していて詳しい事情を知っていたのを隠していた後ろめたさもあり、巳咲の受けた精神的ショックが如何ほどか想像もつかない。
加えて疑問も出る。
巳月がサバキに乗っ取られていたことは不幸なことだったのは間違い無い。
千華代についてもそこはまったく同じく。
さりとて、どちらも共通して過去形の不幸でしかないはず。
千華代はヤライから、巳月はサバキから解放された今、何をそこまで悲しむことがあるのか。
純粋に巳咲の悲愴が理解できず、栖も困惑してしまった。
だが、
その疑問も頭を悩ますより早く解決する。
極めて、極めて望ましくない形で。
「なんか栖チャンもいろいろ考えちゃってるみたいだけど、何事も都合良く過去形になるほど世の中って優しくないわよお? 少なくともワタシや千華代チャンに関しては、ね」
「……!」
「あー、そうしつこく疑わないでよ栖チャン。ワタシの中にはもうサバキはいない。それは約束してもいい。千華代チャンの中からヤライがすっかり抜けたのとおんなじように。とっくにどっちも要チャンが食い尽くしちゃったわよ」
「なら……何故、私の心を……?」
「ワタシもそれなりに長くサバキと一緒だったからねえ。コツが掴めたからこの程度はサバキそのものの力を借りなくても自前で出来るってだけ。でも、得したとは思えないかなあ。いかんせん、間尺が合ってないもん。だって、どんなにいろいろ出来るようになったってワタシと千華代チャンはもう……」
そこまで言い、
巳月は小さく、長い溜め息でも吐くように、
「……時間差をつけて要チャンに食われて終わりってのは変わらないからさあ……ヤライやサバキとおんなじように……ねえ」
そうささやくように言うと、巳月はどこを見るでもなく横を向く。
対して、栖は巳咲が立ち上がることもできずに泣き続けている理由を知れた。




