プロローグ (4)
「そうか、じゃあテメェは八頼の本家が一大事ってこと以外、何も聞いてねぇわけだな」
「はあ……まあ……」
目的地へ向かう道の途中に出会った少女、狗牙巳咲。
その少女と今、要はそぞろな話をしつつ、突き当たった道の端から山道へと入っていた。
これまで歩いていた目抜き通りとは名ばかりの舗装も所々に朽ちかけていた道ですら、さすがに人が通るため手入れされているとはいえ、所詮は山道に比べると段違いに歩きやすかったことに気がつく。
細かな傾斜、凹凸、転がる石や枯れ枝。平坦な土地を歩くのとでは、足だけでなく全身にかかる負担がまるで違う。
標高も上がってきているため、空気の薄さが疲労の度をさらに高める。
「どうした? もう息が上がってんのか?」
「はあ……まあ……」
「テメェな……さっきから(はあ)と(まあ)しか言ってねえじゃねえかよ」
「はあ……」
この連続した受け答えを聞き、巳咲は要の前を歩きながら小さく舌打ちを漏らした。
別に腹を立てたというほどではないようだが、軽く苛立ちを覚えたのは確からしい。
とはいえ、要のほうにも言い分はある。
昨夜のうちに家を出され、移動続き。もちろん、まともに寝てもいない。
そうでなくとも、都会っ子のうえに別段、何というスポーツをしているわけでもない要の基礎体力は決して高いわけではない。
そんな要が、特に険しいわけではなくとも山登りである。
息も上がるし、頭も回らなくなる。
受け答えが多少、ぞんざいにになったとしても致し方なしと思って欲しい所だが、そうはいかないのが彼女の性格なようで、
「ったく……こんなヤワなヤツが、ほんとに八頼なのか……?」
聞こえよがしというわけでもないが、聞こえないようにという配慮も無い悪態が漏れ聞こえてくる始末。
こうも礼節の欠片も無い、重ね重ねの非礼無礼を浴びせかけられれば、普通なら腹のひとつも立ちそうなものだが、それでもなお、要には落ち着いていられる三つの理由があった。
一つ目は生来、良い意味で大雑把な性格。これのおかげで過去、幾度も被害を受けた痴漢行為についても、さほど気にかけず現在まで至っている。
二つ目は蓄積した疲労。元より細かいことを気にしない性格に加え、すいすいと山道を登ってゆく巳咲へついていくのがやっとの状態では、怒りを感じようにもその元気すら出ない。
某かの感情を抱くにも人間、体力が必要なのだ。
そして最後の三つ目。ここが結局はもっとも理由として大きい。
何者かも分からぬ……自分を狗牙巳咲と名乗った少女の素性を知った。これが三つ目。
当たり前すぎる話だが、いくら相手が少女でも、理由も身元も知らない人間についてゆくほど要もお人好しではない。当然ながらその辺りの話を聞いたからこそ今、一緒になって山道を歩いているのである。
山道に入るまでの道中、目抜き通りを歩きつつ巳咲から聞き出した話によれば、どうやら彼女は八頼本家とやらからの使いであるらしい。
先に東京から要が向かったのを連絡されていた八頼の家が、迎えとしてよこした。
ようなのだが……、
「ところで、さっき言ったこと忘れんじゃねぇぞ」
「はあ……」
「はあ、じゃねえよ。いいか、ちゃんと覚えとけ。絶対にアタシが駅まで迎えに行ってなかったのは内緒だからな」
「分かってますよ……ほんとは駅まで僕を迎えに来なきゃいけなかったのに、寄り道してて行かなかったことがバレたらまずいんでしょ……」
「分かってんじゃねえか。とにかくアタシは駅からテメェを一緒に連れてきた。もし聞かれたりしたら、口裏ちゃんと合わせろよ」
「はいはい……」
事情を聴いてからというもの、しつこく巳咲が念押ししてくるのはこの話ばかり。
思えば簡単なことだ。巳咲からすれば、与えられた要の迎えという役目が、どうにも面白くなかったのだろう。
ただし何故、巳咲がそれほどこの役目を嫌っていたのかについては、要はまだその真の理由を知らない。
と、疲弊しつつもどうにか巳咲の後を追い、山道を進むことどれくらいの時間であったか。
「お、やっと着いたぞ」
この巳咲の一言に、要は心だけでなく、先ほどまで悲鳴を上げていた自分の体までもが安堵を抱いたように感じ、小さな溜め息とともに足元を見ていた顔を上げ、正面へと視線を移した。
ところが、
目に入ってきたのは建物などではなく、かといってまだ山道が続いているでもなく。
そこにあったのは、ある意味もっと恐ろしいもの。
それを指差し、巳咲はごく当たり前のことのようにこう言った。
「こいつが社まで続く通称、八束の石段だ。ここまで来れば後はこの石段を上るだけ。テメェみたいな足手まとい連れてた割には早く着いたな」
「……」
陽気にすら聞こえる巳咲の声に対し、要のほうはまさに絶句。
目の前に広がったのは、なるほど言われた通りの石段。
これを上りきれば、どうやら目的の八頼神社には着くという。
巳咲の口振りからして、そこは少なくとも間違い無いのだろう。
しかし、
問題はそうした部分ではない。問題は長さ。全長。付け加えるならその殺人的傾斜角度。
正面からその石段を見た要の印象は単純ではあるが、至極残酷。
(石段というより、もはや壁)である。
左右を無限に広がっているのではと錯覚するほどの乱立する樹々に囲まれ、天までそそり立つように長大な石段。
見ただけでも体力が消耗するのではと思わせる威容。迫力。圧迫感。
だが言わずもがなではあるが、
「おい、何ボケッとしてやがんだよ。日が暮れちまうだろうが」
そう吐き捨て、とんとんと石段を軽快に上ってゆく巳咲の言葉と姿が真実。
この石段を上らねば終わらない。それが真実。
悟って、要は今にも泣きたくなる気持ちを必死で抑え、体感傾斜角20度超の石段へと挑む。
艱難辛苦は悩み、怯えていても解決しない。打ち消す方法はただ行動のみ。
長く苦しい体験も、終わってみれば笑って話せる苦労話となる。
そのためにも、今はこの苦行にも似た状況を乗り越えねばならない。
たとえそれがどんなに長く、険しい道であろうと。
どんなに長く、険しい道であろうと。
長く、険しい……。
険しい!
思わず、要は叫びそうになった。あまりの辛さに。
が、これを素直に良かったと言えるかは別にし、要は叫ばなかった。
というか、叫べなかった。
もうすでに家を出てから約二十時間。移動移動の繰り返しの二十時間。
全身は悲鳴を上げ続け、精神力で補おうにも、その精神もまた確実に限界へと近づいている。
上れど上れど見えない頂。
目標が曖昧な苦労は精神に響く。ゴールの分からないマラソンなどしたら、誰でも体より先に心が萎えてしまうのと同じ理屈だ。
ゆえに、
「……あ、あの……狗牙さん……」
「あ?」
「こ……この、階段……一体……」
「階段じゃねえよ。石段だよ」
「いや……今はそういう細かいことはいいですから……」
油断すると間違い無く自分を置いていってしまいそうな巳咲に、ついてゆくのがやっとの体へなお鞭を打ち、問う。
せめて目安をと。
心を下支えしてくれる、具体的な目標までの必要努力を計算するための情報をと。
「この……石段って……一体、どこまで……?」
「どこまでって、社までに決まってんだろ。バカかテメェは」
「……いえ……行き先の話じゃ……なくて……長さはどのくらいかと……」
「長さ?」
明らか、この要の問いに対し巳咲は思考を巡らすため、一時的に口を閉ざした。
無論、要にとってはありがたく無いことながら、その足を止めることはなく。
そして数秒。体感的には数分が経過した辺り、唸るような息を漏らしつつ、巳咲は自分の頭の中でも探りながらといった風で、答え始める。
「そうさな……長さなんて測ったことも無ぇから見当もつかねえけど、段数なら知ってるぜ」
「で……何段……なんです……か……?」
すでに声を出すのもやっとの要が、虫の息で聞く。
最後というのは大袈裟としても、希望を見出すため、残り少ない気力を絞り。
一縷の望みにすがって問うた。
が、返ってきた巳咲の回答はそっけなくも無情な一言。
「八百八十八段だ」
この時、要が自分の心の中で何かが根元からポキリと折れる音がしたのを感じたのだが、それは当人である要しかもちろん知る由も無い。
また知らないがゆえ、巳咲は自分の背後で今にも膝から崩れ落ちそうになっている要に気づくことなく言葉を継ぐ。
「ガキの頃から何度も数えてっから、これだけは間違いねぇよ。きりの良い数だから覚えやすいしな。でも、何だっけか……確かこの石段の段数……何かの意味があるとか聞いた気がすんだけど……」
もはや止めは刺されたも同じ状態の要にとって、述べ続けられる巳咲の声は、ほとんど意識に霞がかかってしまい、聞き取れなくなっていた。
何を聞こうと八百八十八段という段数が減るわけで無し。
何を言おうと八百八十八段という段数が減るわけで無し。
半ばふてくされた思考に、精神が侵食されてゆく。
いっそもう、ここで巳咲に置いていかれたほうが楽になるのでは?
などと、心を満たす絶望感から逃れるため、思考が現実逃避を始めるという末期症状を要が呈し出した。
まさしくその矢先、
「それは八という数字が聖数だからです」
突然、山彦の如くに響く声。
はっとして、音源を追う要の目が見た先は遠く頭上。
前を行く巳咲の背に阻まれ、横へとずらした視界に入ったのは、
遥かな石段の頂点。
そこに立つ人影から声は落ちてきていた。
「古来、八は数の多さを示すと同時に、邪を払い、幸を招くとされていました。ゆえにここ、八頼の社へと続く石階は、八を三つ重ねた八百八十八という段数にすることで禍を寄せ付けぬ結界の役割を果たしているのです」
続けざま、人影が話すのを聞き、要はようやく気がついた。
自分が知らぬ間に石段を半分以上も上っていたことを。
加えて、
石段の頂にくっきりと黒く映し出される人影と、巨大な鳥居。
それらが石段の先から差している強い夕焼けの光を思わせる何らかの光源によるものだと。