ヤライノカナメ (7)
本格的な真の攻防、紛う事無き戦いの幕が開いたのはそれからすぐのことだった。
それまで様子でも見ていたのか、力を抑え、散発的な攻撃だけに止めていたヤライの動きが突然、活発化する。
雰囲気からか、それとも神なるものゆえの力なのか、その変化をいち早く察知したサバキは早口に巳咲と栖へ状況の悪化を伝えた。
それによって何がどうなるという希望こそなかったが、知ることによる覚悟をするとしないとでは、しているほうが低いながらも何かが好転する可能性くらいは得られる。
買わない宝くじは死んでも当たらないが、買えば当たる可能性だけは手に入れられるという考えとでも言おうか。
ともかく、取れる手立てはすべて打つ。
そういう意味でのサバキの叫声にも似た素早い説明は、目的通りの効果を成したかはさておくとして、暗闇と炎だけが延々と続くこの異様な空間へ吸い込まれるように木霊した。
「巳咲、栖、ヤライの動きはふたりに捉えることはできない! 相手は瞬間移動してくるぐらいの気持ちで構えなさい! ワタシと戦った時のことを思い出して! やつの動きはワタシなんかより確実に早いわよっ!」
ふたりへ言い伝えるのにわずか数秒。そして瞬間、
サバキは飛ぶ。
もはや跳ぶではなく、飛ぶ。
先ほどまでとはまるで雰囲気を異とするヤライヘ目掛けて。
が、先手は先手の意味を成さずに空しく終わる。
サバキの飛び掛かった先。そこに、
ヤライはもういなかった。
変わって、
「おわっ!」
後方から巳咲の吃驚する声が響く。
確認するまでも無い。予想通りのこと。
攻撃を加えんと挑んだサバキを、ヤライは歯牙にもかけないといった風で無視し、ただ栖のみに狙いをつけて唐突に現れるや、迫撃を仕掛けてきたのである。
ただし、
栖の前に巳咲が陣取っていたのはサバキからの注意による危機回避が一応の成功を見たと考えるべきであろう。
さりながら、余裕のある防御でなかったのも事実。
いきなり眼前に現れ、予備動作も無しでやにわに手刀を突き入れてこられた巳咲は、それを剣で打ち払うのが精いっぱいであった。
しかも、
「栖チャン、後ろっ!」
前置きも無く飛んできたヤライの攻撃を巳咲が自分の前で危うくも捌ききったのを見終えたかどうかといった途端、またしてもサバキの声が轟く。
これを受けて急速反転、栖は自分の背後をほとんど反射的に振り返ったが、その時にはすでにヤライは瞬時の移動と、次なる一撃をとうに放ち終えていた。
的確に、あまりにも的確に栖の胸元に光る勾玉へと目掛けた一撃。
これが仮にサバキと栖、ふたりだけであったなら間違いなくこの時点で勾玉も栖の命も失われていたのは疑いようも無い。
もし、ふたりだけであったなら、である。
他の大部分に関しては不運を嘆いても誰ひとりそれを咎める権利を持つ者はいないだろうが、わずかにひとつ、
「……マジ、勘弁しろよ……こんなん、どう考えたってそう長く続かねえぞ……」
巳咲がいたことは幸運以外の何物でもなかった。
勘というよりも実戦感覚。
サバキの注意が聞こえるより早く、巳咲は次の攻撃、ヤライのこれまでの攻撃パターンから半ば瞬間移動じみた速度を生かして死角を狙ってくると読み、一撃目をしのいですぐに栖の背後へと回っていたのである。
まともにやり合ったのでは遅れを取るのが目に見えていたがゆえの賭け。
無論、巳咲も危険は承知の賭けだったが、結果的に二度の攻撃を巳咲は防ぐことに成功した。
ではあるが、
賭けで攻撃のタイミングと方向、その他を読むなどの運任せな要素ばかりであったうえ、受け止めはしたもののヤライの重く、鋭い右手の爪は八握剣の刀身を力ずくで砕こうとでもいうのか、サバキの血を帯びて力を増した巳咲ですら支えきるのがやっと。
それもヤライはまだ本調子ではない。
攻めに回るのはなお困難だが、受けるだけでも確実に限界は見えてきている。
勝てるビジョンが欠片も見えない現状に、必死で攻撃を受け止めているため溜め息をつきたくてもつけない巳咲は已む無く集中力を保ったまま苦々しく顔を歪めた。
その時、
「ナイス!」
声が先か、それとも、
ふと気づき、目にしたヤライの体が斜めに斬り裂かれたのが先であったかはこの際、気に掛けるほどのことでもなかったかもしれないが、何にせよ、
「今のは運試しにもほどがあったけど結果オーライね。けど、気を抜くのはまだまだ先よ巳咲チャン。今は集中!」
言って、舞い散った血飛沫とともにまたしても眼前から忽然と消えたヤライに代わって姿を見せたサバキの指摘に、巳咲は思考を意図的に止めて素直に従う。
悔しいが、今は主義主張や好き嫌い、さらに極端を言うなら敵味方すらも気にしている余裕は無い。
相手との……ヤライとの戦力差を思うならば。
かといって、それでも決め手に欠ける現実は残酷に迫ってくる。
案の定、サバキによって斜に上半身と下半身を斬り分けられたヤライの姿はもう見えない。
この点に関してはサバキからの情報が直接に役立つかについては置いておくとしても有難いのは確かだ。
自在に消え、自在に現れ、自在に攻撃してくる。
力の差は埋められなくとも、力の性質を知っていれば対策も考えられる。
対策を考えられなくとも、身構えて覚悟するくらいはできる。
無いよりはマシ。というと情けないが、それでも実際、無いよりはマシ。これは紛う事無く事実だ。
「巳咲チャン、次にヤライがどこから姿を現すか分からないから、ひとまず無駄な動きはせずにこの状態をキープして待機しましょ。ワタシは栖チャンの後ろを守るから、正面をお願い。道返玉を砕かれるのはマズイから最悪、攻撃を防ぎきれそうになかったら攻撃の軌道を少しでも逸らすよう努力してちょうだいな。それで最悪、栖チャンが死んだとしても道返玉が失われさえしなければ基本、さほどの痛手じゃない。切り札は大切にしないと、ってねえ♪」
「……テメェの命令を聞く気はさらさら無えし、栖を犠牲にする気も無えが、一応正面は任されてやるよ……」
「期待してた返事より劣るけど……ま、今のところはその辺りで手を打つとしましょ。決定的と言い切っても間違いじゃあない実力差のある戦いの最中に仲間割れなんかしてたら、起きる奇跡も起きなくなっちゃうしねえ」
妥協の産物としての協力体制。
その形としての栖を挟んだ巳咲とサバキの不自然な防御姿勢。
納得したものでない以上、当然ながら気分の良いものではない。
無論、ずっとふたりに守られ続けている栖もまた。
だからこそだったのだろう。
己が無力、己が無価値、己が邪魔となっている現実に、黙して耐えられるほど栖も厚顔無恥ではなかった。
というより、なれなかったというのが正しいかもしれない。
図太い神経をしていれば人に守られること、人に迷惑をかけること、そうしたも平気で甘受できていたかもしれない。
が、もはや答えるまでも無く、
「……巳咲……」
力無くつぶやいた栖は、そうした神経を持ち合わせていなかったのである。
上を向けば、虚空に広がる闇の深淵。
下を向けば、尋常のものなら数秒を待たず灰と化す猛火の平原。
そんな中にあって、すでに衣服はおろか勾玉を結んだ紐も燃え尽きた栖が、右手に握りしめたそれをどう扱おうと考えたか。
十人並みに察しが良ければ、思いつくのに大した労力を必要とするような事柄でもなかった。
「……この状況、これからなお不利になりこそすれ、有利になる可能性はほぼ有り得ないでしょう。そしてサバキの言う通り、私はこの中では足を引っ張るばかり……ならば、この道返玉は私が持っていては危険です。守る力を持たぬ私が持つより、守る力のある貴女が持ったほうが安全ではと……」
言いつつ、栖は勾玉を握り込んだ右手を巳咲へと差し出す。
話している内容と反比例し、歯痒さと口惜しさで眉をひそめながら。
「あのな……栖。何か変に卑屈んなってるみてえだけど、アタシとテメェの実力差なんてそう大してありゃしねえよ。アタシは八握剣を持ってるから今んとこ力負けしねえで済んでるってのと、テメェは道返玉を持ってるからひとり狙いされてて思うように動けないってだけの話だろ? もしお互いに持ってるもんが逆だったら、立場も逆になってたろうって程度の差だ。下らねえことで自分を安く見積もるなっつうの。そういう態度こそ、よっぽど邪魔くせえわ」
「しかし……そうした事情はさておき、現実に今、私が足手まといになっていることは事実であって……」
「……ふむ。どうも妙な勘違いしてるみたいねえ。栖チャンが足手まとい? とんでもない。今、曲がりなりにもヤライと戦えてるのは栖チャンがいてくれるからよお?」
「……え?」
軽く口論に発展しかけていた巳咲と栖の間に、サバキは急に口を挟んだ。
意外な物言いに少しく驚きの声を漏らす栖を表情も無く見つめて。
「さっきも言ったでしょ? ヤライにとって要チャンの魂が戻ってくるのは最悪の展開。だから道返玉を執拗に狙ってくる。というより狙ってきてくれてるの」
「それは……どういう……?」
「移動速度、回復力、単純な力、どれもワタシら三人を足してもヤライには敵わない。けど、移動速度に関しては対処が可能なのよ。道返玉を栖チャンが持ってくれてる限りは……ね」
ここまで聞き、話を察した栖はぽつりとつぶやく。
「……避雷針……」
「さすがに勘がいいわねえ♪ そゆこと。栖チャンが道返玉を持っている間は、ヤライも栖チャンをひとり狙いして攻撃したいって誘惑に踊らされてくれる。つまり、どう動くか分からない相手と戦うより、どこに向かってくるか分かる相手と戦うほうが守るも攻めるも楽なわけ。だから栖チャンは役立たずなんかじゃないのよお? 立派なエサ♪ ヤライっていう、でっかい魚を釣るための大事な誘い水……」
そこまで。
サバキが言い切るよりも早く、事態は急速に動いた。
声を上げる間もなかった。いや、心の中では声は上げていたが、口へ上らすことができなかったのである。
まさしく一瞬の隙。
巳咲へ向け、体が触れるほどの近さもあってほとんど無防備に勾玉を握った右手を差し出していた栖だったが、まさか思いもしなかった。
腕一本、どうにか抜ける隙間。
巳咲と栖の合間にあった隙間。
そこへ、
真下から燃え立つ炎に紛れ、恐るべき速さで突き出してきた手刀が、手の内にある勾玉ごと栖の右手を裂き砕くとは。
巳咲は何が起きたかを知る時間も与えられなかった。
栖は裂かれた己が手に痛みを感じる暇も無かった。
共通してふたり、散り滴る鮮血と砂利のように変じ、砕けて落ちる勾玉を考える余裕も無く目で追ってゆく。
呆然としながら、業火に隠れていくその光景を。
だが、
唯一、ひとりだけ。
ひとりだけがその場の流れを無視した行動をしていたことに、しばしの間を置いてから巳咲と栖は気づくこととなる。
今や聞き慣れた声。
不真面目かつ、緊張感に欠ける声。
サバキの、
「……はーい、引っかかったあ……♪」
この一声を合図にして。
ふたりとも呆けていたがゆえに反応は送れたものの、揃ってそんなサバキに視線を向けたのはごく自然なことであった。
さらに加えるなら、
向けた視線へ映ったものに、巳咲も栖も多少の温度差はありこそすれ、非常な衝撃を受けたことも伝えておくべきであろう。
守るべき勾玉を奇襲で破壊され、呆然としたままのふたりが見たサバキ。
正確にはサバキが抱きかかえ、動きを封じている者に、ふたりは驚きを隠せなかった。
見紛う理由も無い。
それはヤライ。本物のヤライであった。
いつの間に、どのようにして捕らえたのか。そこまでは分からない。
分からないが、
現実にふたりの目はサバキの腕に身の自由を奪われ、自分たちと比べても遜色の無いまでの吃驚を表情に映したヤライの姿が確かにある。
だけに止まらず、
いやらしく笑うサバキの左手には、これもまた何故かあるはずの無い物が握られていた。
道返玉。
目を向けるまでは微塵も感じることの無かった神威を滲ますそれは、真贋を改めて確認する必要の無さを、漂う威風だけで明らかとしている。
「いやー、やっぱエサが良いと釣りが楽でいいねえ♪ ほんとはもう少し手間が掛かるかと思ってたんだけど、案ずるより産むが易しとはよく言ったもんだわあ♪」
もちろん、巳咲も栖も問いたいことは山のようにあった。
まともな人間ならば誰しもがそうであるように。
しかし、
声は出ない。出せない。理解を超えた異常な状況が、声をせき止める。
ところが、ここでもサバキの力が声無き質問に対して会話を成立させた。
「……まあ、ほんとに忙しくなるのはこれからだから、ひとまず一番疑問に思ってるとこだけ説明してあげる♪ 栖チャンの持ってた道返玉は、ヤライが現れた時に偽物とすり替えておいたの。覚えてるかしらあ? 私が勾玉を指で弾いたのは」
「……あっ!」
「そういうことよ。ヤライの動きは牽制したい。けど、道返玉はそうそう簡単には直せない。時間は欲しい。でもヤライの注意は栖チャンに向けておきたい。いろいろと事情が重なっての今回の作戦だったわけ♪」
「それじゃテメェ……栖に危ない橋を渡らせて……アタシらまで騙してたってのかっ!」
「そこは表面的なものの見方をするとそう見えるかもねえ……だけどもしワタシがこの作戦を実行せずに正面からヤライとやり合ってたら、ものすごく分かりやすく全滅して終わりだったわよ?」
「……だからって、こんな……」
「味方を引っ掛けるみたいなやり方は気に食わない? 別に気に食わないのは個人の好みだしワタシは構わないわ。ただし、出来る限り犠牲を出さず、もし出るとしても最低限の犠牲に抑えるのは戦い方の基礎。責めてくれていいわよ? その代り、ワタシの作戦より上等な代替案があるっていうんならだけどお?」
「……」
「……さて。何にしてもこれにてヤライもようやく終わり。代わって、現人神……現御神たる要チャンが戻ってくる。数千年の時を経て甦った名も無き和御霊……んー、さすがにもう名無しってのもアレだし、仮に名前をつけてあげましょうかねえ♪ ヒト、フタ、ミ、ヨ、イツ、ム、ナナ、ヤ、ココノ、タリ、フルベ、ユラユラト……フルベ……」
気持ち早口に、サバキが布瑠の言を唱え、手にした道返玉をヤライの胸元に押し付けたと同時に、これまで足元全体を包むように燃え上っていた火という火が、
瞬く間に跡形も無しに消え去る。
残されたのはただ、
もはや上下左右、天地の境界の区別も無く何もかもを飲み込む深遠なる闇。
浮遊感も失せ、平衡感覚もつかめず、広がる。漆黒だけが、広がる。
そんな中、
静かに……ささやくより静かに、喪失したいくつかの感覚によって希薄になってゆく巳咲と栖の意識の中、
「さあ……始まりが終わり、再び新たなる始まりが訪れる……行きましょう、ふたりとも。すべての真実を知るために。古く停滞した流れから新しく清き流れへと。行きましょう、真なる和御霊にして現御神……『カナメ』の内へと……」
揺蕩う心に、言葉ならざる言葉がゆっくりと浸透していった。




