ヤライノカナメ (6)
それはおよそ異様や怪奇といった程度の言葉では言い表せない光景だった。
どこまで続くのかも分からない、広大な闇の空間。
その地面……いや、そんなものはまず存在すらしていない。
ただ、下からは凄まじい勢いで炎が吹き上がっている。
見た目だけならそれは一面に広まったまさしく火の海。
煉獄というものが真実あるとすれば、そこはこのような場所を言うのだろう。
そしてそんな場所に今、巳咲、栖、サバキが立っている。
とはいえ、巳咲と栖については立っていると表現するにはかなり不安定な状況にあったが。
「こ……これ、何をどうすりゃいいんだよ……足場が無いから踏ん張りが……って、そもそもなんで足場が無いのにアタシら浮いてんだ……?」
「浮いてるんじゃなくて立ってると思ったほうがバランス取りやすいわよお。ただし炎を足場にしてるから安定感は期待しないこと。炎の形状は常に変化し続けるから、そこを考慮してバランス取ってねえ♪」
「そんな……というか、変化し続ける足場でどうやってバランスを取れと……?」
「そこは各自、感覚でやってもらうしかないかなあ。ま、一番手っ取り早くて簡単な方法はっていうと……」
噴き上がる火の勢いに押される形で危うげに立ちながら話してくる巳咲と栖に、サバキはそこまで言うや、
「跳び続ければ楽かもっ!」
叫ぶように言葉を継いで瞬時、
サバキは跳躍……限り無く飛翔に似た跳躍を見せ、やにわに眼前に浮かぶヤライへと躍りかかった。
が、転瞬、
目の前にいたはずのヤライは吹き消した蝋燭の火の如くその姿を無くす。
ところが、
「読めてんだよっっ!」
語気を荒げ怒鳴ったサバキは即座にその場で身を翻すと、火柱を蹴って反転し、何故か栖へ向かって一直線に跳びかかった。
これには栖も泡を食ったが、それも一瞬のこと。
次の瞬間、
突然視界を覆うように広がった炎からヤライの腕が突き出されるのを見て、何が起きているのか分からずに栖は凍りつく。
そこへ、
振り下ろされる。
サバキの爪が。
途端、
栖の視界は燃え上った炎から血飛沫へと塗り替えられた。
切断されたヤライの右腕。その傷口から舞い散った鮮血で。
はたと気づけば、すでにヤライは姿を消している。
代わりに、
「……オーケー。とりあえずは予想通り……」
つぶやき、煌々と眼を輝かせて微笑むサバキがそこにいた。
「でも、やっぱり少々の攻撃じゃあ効かないみたいねえ……」
言いつつふと横を見遣ったサバキの視線を追うと、いつの間に移動したものか、ヤライは十メートルほど離れた宙空に浮かんでいる。
信じ難いことに、今まさにサバキの手で斬り落とされた右腕を再生させて。
「……もう……再生してる……」
「ま、あの程度ならワタシでも軽く出来る芸当よ。まだ器……要チャンの体に入ってそう時間が経ってないから、実力の一割も出てない感じかなあ?」
「あれでまだ一割も……ですか?」
「信じたくないかもだけど、あれでもヤライは相当にギクシャクしてる。要チャンの体と初代の血。このふたつを思い通りに出来るほど馴染むまでには、いくらヤライでもかなりの時間が必要なはず。もし万全になられたら完璧に手が付けられないだろうし、何とか攻撃が当たる間に倒さなきゃいけないけど正直、厳しいわあ……」
溜め息めいた調子で答えるサバキは、それでも余裕を失っている風ではない。
ただしそれが単なるポーズなのか、本当に追い詰められていないのかは、栖でも判断しかねるところだったが。
「でも、何故……お前はヤライが私を狙うと……?」
「一番効率的な戦い方を考えた場合、相手がどこを狙ってくるかは自然と分かる。多勢を相手に戦う時、まず狙うのはどこだかって考えればねえ」
「……一番……弱いところから攻める……?」
「それもある。けど、今回はそれ以上に栖チャンがヤライにとって脅威と成り得るからって部分が強いかなあ?」
「私が脅威に……何故?」
問うた栖に、サバキは少しく間を置いてから答えた。
「……このことについては、とぼけてるわけじゃあないみたいねえ。本気で疑問に思ってる。なら話してあげてもいいか……」
「?」
「栖チャンが首からぶら下げてるの……それ、まだ千華代だった時のヤライから貰ったみたいだけど、道返玉よ」
「……!」
予想外の答えに、栖は慌てて自分の胸元に掛かる勾玉を見る。
手で触り、指で探りつつ。
「必死で確認しなくてもワタシが言ってるんだから確かだってば。それは十種神宝のひとつ、道返玉で間違い無いわ。黄泉に流れた魂を再び現世へ呼び戻せるっていうねえ♪」
「まさかそんな……だって、これからは何も……」
「力を感じない、でしょ? 当り前よお。それ、意図的に壊されてるもの」
「壊され……? で、でもどこにも……」
「あー、壊すって言っても物理的にじゃあないから見た目で判別は無理。大雑把に言っちゃえば呪いみたいなもんよ。まあ物理的に壊しちゃってもよかったんだろうけど、そうすると後でもし必要になった時、困るからってんで念のために取っておいたみたいねえ。ほんと、物欲は身を滅ぼす元だわ」
「……けど、だとしたら何故……千華代様は私にこれを……?」
「そこはさすがのワタシも分かんない」
どこか、突き放すようにサバキは返答した。
といって、それは今までのような栖に対する腹立たしさというのではなく、単純にそうとしか言えないからだとは、口調と態度で察せる。
「ただ言えるのは、現時点でヤライがそれを何より邪魔だと感じてること。これだけは確か。栖チャンも要チャンを……というより、要チャンの体を生き返らすのにヤライが唱えてた祝詞で感づいてるでしょ?」
「……魂のある体では器として扱うのに面倒だから、魂は戻さず体だけを生き返らせた……」
「そういうこと。ちゃんと蘇生させるなら、あんな祝詞でなく布瑠の言を使うのが普通。とはいえ道返玉が無いんじゃあ、どっちにしても魂は戻せないけど」
「……」
「詰まる所、今のヤライが何を恐れてるかっていうことよ。壊れてはいても道返玉が栖チャンの手元にある事実は怖いわけ。万が一にも要チャンの魂が戻ったりしたら大変だからねえ」
「大変……?」
「どうも栖チャンも巳咲チャンも誤解してるけど、要チャンはマジで荒御霊にとっては天敵だってこと。血が薄い? 匂いが弱い? 当り前よ。要チャンから漂ってたのは昔、ヤライを取り込んだ時についた残り香だけだもん。でもそこが要チャンの恐ろしさ。再びこの世に生を受けてなおヤライの匂いが残っているのも、それだけ相手を自分に吸収しちゃう特性のせい。底無しの穴みたいな存在……だから精神も希薄なの。容量が大きすぎて自我すら薄めてしまうほど。その気になればいくらでも飲み込んでゆける無限の深淵。だから何より怖がってる。要チャンの魂が戻ることを……」
言った刹那、
「バカかテメェらっ!」
叫声とともに、栖の眼前に八握剣が一閃した。
瞬刻、またしても血飛沫が舞う。
今度はヤライの両腕が宙を飛び、すぐさま足元の炎へと落ちてゆく。
「勝てる気がまるでしねえやつ相手してる時に、ベラベラおしゃべりしてんじゃねえよっ!」
サバキと栖へ怒声を浴びせる巳咲だったが、すでにその息は上がっている。
衣服のほぼ焼け落ちたその体を、滝のような汗が流れては火に炙られて揮発していた。
「あらら、すごいことになってるわねえ巳咲チャン。大丈夫?」
「これっぱかりも大丈夫じゃねえっ! さっきからずっとあのバケモンの相手、アタシだけでしてんだぞっっ!」
「そりゃまた……息切れ起こすのも当然だわねえ。けどさすがは巳咲チャンだわあ♪ 期待通りの活躍してくれてうれしい♪」
「言ってろボケッ!」
話しながら、巳咲とサバキは栖に背を向け、同じ方向を見る。
その先にはヤライ。
やはりというか、知らぬ間にもう再生した両腕をひらひらと動かし、相変わらず炎の上に浮かんで笑みを絶やさない。
「んじゃ、改めて始めましょうか。栖チャンはとにかく道返玉と自分の身をしっかり守っててちょうだいな♪ で、ワタシは栖チャンと道返玉を守りながらなんで、あんまり積極的には突っ込めないから、その分は巳咲チャンお願いねえ♪」
「……まあ、事情が事情だから仕方ねえか……でも、聞きてえことがあるな……」
「何?」
「道返玉……あれが使えねえのに、どうしてヤライは栖を狙うんだ? 万が一ったって、壊れてるもんはどうしようもねえだろ。それとも実際は万が一より可能性が高いのか?」
「確かに。確率だけで言えば万が一よりは高い確率かしら。だって、その気になればワタシが直せるしい♪」
「……だと思ったよ……何せこの八握剣まで直しちまったんだからな……」
「ただ時間はかかるけどねえ。さすがにチョチョイのパッて具合にはいかないの。つまりどっちにしてもヤライは相手にしなきゃいけないってこと」
「そのぐれえの覚悟はとうにしてるっつうの……」
「それは何よりねえ♪ 期待してるから、お願いするわよお巳咲チャン……」
話を終えるや、
巳咲とサバキは剣を除けば鏡写しのように横並びで構えると、宙空を揺蕩うヤライを刺し貫くが如く睨み据えた。




