ヤライノカナメ (3)
気付くと、
何故か巳咲はサバキの後ろについて歩いていた。
本殿の長い……長い廊下を。
横に呆然自失したままの栖を抱えるようにして。
ただ、
違和感はそれだけではなかった。
本殿の廊下の長さは知っている。
いや、知っているつもりだった。
のだが、
長すぎる。あまりに。
裸電球が間隔を置いて連なるその先は、暗さだけが原因では無く、
まったくその奥……果てが見えない。
「……考えてなかったわけじゃないけど、ほんと派手にやるねえ……恐らくは要チャンだけじゃあ安心できないってんで、本殿ごと依り代に使う気だわ……もうこの場所、常世並みに空間や実存の性質が破綻してきてる……」
独り言とも、巳咲への説明ともとれるように、サバキは振り返りもせず歩きながら言った。
無論、巳咲がそのどちらの意味でこれを受け取ったかは明らかである。
分からないなら聞く以外に無い。
それが誰であろうと。
「本殿を依り代に……? や、それ以前に何だっていまさら要の話が出てくるんだ? あいつはもう……」
言いかけて、巳咲は言葉を飲み込んだ。
要について話し始めれば、嫌でもサバキに襲い掛かりそうになる。
それより聞けることを聞けるだけ聞こうと、巳咲は寄せ集めの理性を総動員して話を続けた。
「……八頼の巫覡、要はもういない……八頼ももう終わりだ。なのに依り代って……」
「そ、八頼はもう終わり。でもヤライは違う。あいつは逆に……これからなのよ」
「……は?」
サバキの話している意味かよく分からず、巳咲は小さく疑問の声を上げた。
すると、
大きく溜め息を吐いてしばし、サバキはまた口を開く。
「これ、要チャンには少しだけ説明したことなんだけどねえ……ま、時間はあるだろうし話してあげる。八頼の、昔話をね……」
「……?」
「昔々、この地にはヤライという古い神がおりました。火を自在に司り、あらゆる生き物の命を気分次第で奪ってゆく悪魔みたいな神……って、ヤライは荒御霊なんだから当然かもって感じなんだけどさあ……」
「!」
驚きと当惑に、巳咲は思わず息を呑んだ。
しかしすぐさま気を取り直すと、反論の声を上げる。
「待てよ! 荒御霊はテメェだろサバキ! 何でヤライが荒御霊なんて見え見えのウソ言ってやがんだっ!」
「落ち着きなさいってば巳咲チャン。始めに言ったでしょお? 話を信じる信じないは巳咲チャンの自由って。だから話だけは続けさせてもらうわ。文句は聞いてからにしてちょうだい」
「う……」
「実際のとこ、ヤライが荒御霊である理由は簡単な話。ヤライはサバキの本体なの。で、サバキはすなわちヤライの分身みたいなもん。何らかの側面的な意味じゃなく、紛うこと無き分身。つまり分身であるサバキが荒御霊なんだから、本体のヤライもまた荒御霊。理屈はそゆこと」
「……無茶苦茶だ……そんな……そんな理屈……」
「そうでもないわよお? だってヤライの出自を考えてみて。ヤライがこの地で何か良いことをしたなんて伝承が残ってるう? 残ってる話はたったのひとつ。近場の人間すべて焼き殺そうとしたのを、人身御供に男の子を差し出して鎮めた。とても和御霊がするようなことじゃない話しか残ってない。といって、これもまた過分にウソが含まれてるけどねえ」
「……ウソ……?」
「人身御供に男の子を差し出したなんてのはウソ。本当は荒ぶる神であるヤライ……とか、言い続けてるけど、これもある意味でウソ。ヤライは元々、名前なんて無かった。名も無き荒御霊……風の向くまま気の向くまま、人々を殺し続ける災厄の権化。そしてその力を少しでも削り取るため、人々はこの神に名前を与えたわけ。それがヤライ。本来、当てられるべき字だった遣って字はヤライの力を意味するものじゃないの。そのまったく逆。文字の意味する通り、ヤライ自身を追い払おうっていう、一種の言霊の呪縛。名を呼ばれれば名を呼ばれるほど、ヤライは力を失ってゆくように。そして極めつけは人身御供だったって語られてる男の子。これが鍵」
「捧げられた男子って……八頼の初代が……鍵?」
「そう。けど、ヤライに人身御供? その程度であの殺害欲求の塊みたいな神が鎮まるわけないじゃない。真実はもっと攻めに回った対策。男の子をヤライに送ったのは事実だけど、問題はその男の子……」
そこまで言うと、サバキは足は止めずに顔だけ振り返って巳咲を見、いやらしく笑いながら、
「ヤライよろしく、これまた名前を持たない……ただし、恐ろしく強力な和御霊の現御神だったのよねえ……あ、巳咲チャンには現人神って言い方のほうがしっくりくるのかなあ?」
「……なっ……!」
このサバキの話に、巳咲が小さな驚きの声を上げた。
無理は無い。
ここまでの話だけでも十分すぎるほど自分の聞かされてきた話とは大きくかけ離れている。
そのうえ、初代が現人神だったとなると話す以前にサバキが言っていたように、自分の中にあったものが根底から覆ってしまう。
サバキが真実を話しているという大前提があって始めて成立することながら、もし本当だとしたら今現在の状況を含めて何もかも訳が分からない。
まず、初代が本当に現人神だったとすれば、そしてヤライが荒御霊だったとするなら、そこから話がどう繋がってゆくのか。
ところが、
サバキはまさしく巳咲の疑問を見通して、ほぼ間も空けずに言葉を継いだ。
「まあ、そうだったとしちゃったら今までの八頼の三千年に亘る歴史が辻褄の合わないことになりそうだよねえ。でも矛盾は発生しないんだなあ♪ 面白いもんよ。真実に沿わせてウソを上手く固めていけば、どんなウソでもほんとだと思い込まされちゃうんだからさあ♪ と、言っても三千年かけて作り上げたウソの土台はハンパな強度じゃない。だから少し長くなると思うけど、とりあえず静かに説明を聞いてちょうだい♪」
「……」
「最初は何故、そんなに危険な荒御霊の名前を今でもずっと名乗ってるか。これはさっき言った通りでヤライに対する言霊の呪縛。常にその名を呼ばれ続ければヤライは力が弱まって暴れられない。初代である名無しの現人神は、そこを考えてヤライと同じ名を名乗った。自分の中に封じるだけじゃあ、まだ危なっかしいと思っての安全策……もしくは保険みたいなもんだと言えば喩えとして合ってるかなあ……」
「……え? 封じ……る?」
「あ、そうそう。ここも大切なとこだから説明しとかないとねえ。次は何故、八頼家がヤライの巫覡っていうことになったか。それは今、私が説明している行為のちょうど真逆。如何にしてウソをウソと思わせないかと考えての辻褄合わせ。ただ、これには現人神だった初代の特殊性のせいで隠蔽が容易になっちゃったとこがあるから、皮肉な話なの」
「特殊性……?」
「実は和御霊であり現人神だった初代の力って、自分以外の神を自分の中に封じ込めるっていう相当に変わり種の部類だったのよ。んで、初代はヤライを鎮めたんじゃなく、自分の中へと取り込んだ。そのおかげで初代は男の子だったのに、女神であるヤライを自分に封じた影響で女の子になっちゃったと。そして弱体化させ、人の身に転生させたヤライを産み落とした。この辺り、実は要チャンにはワタシ、元々のヤライは消滅したってウソをついた負い目があってねえ……けど、事の推移を考えたら要チャンにはワタシがヤライの正体を知ってることを隠しときたかったから、仕方なかったんだけども……とにかく、本来はずっと自分の中に封じとければそれに越したことは無かったものの、現人神は他の神とは違って寿命があるからさあ。何にしても自分の中から出さないわけにはいかなかったんでこういう形を取ったわけ。それが八頼家の真の起こり。お分かり?」
覆ってゆく。自分の中の真実が。
話を鵜呑みにすれば、初代以降の八頼……生まれた子供がヤライだとしたなら、
しかも、初代が封じた荒御霊ということが事実だとするなら、それは言うまでも無いこと。
「……じゃあ……アタシらが、必死こいて守ってきた八頼の血筋ってのは……」
「三千年も昔から今の今まで、ずっと後生大事に自分たちの敵の親玉をかくまってたっていう受け取り方も出来るわねえ。言い方は悪いけど」
「……」
もはや言葉も無い。
考える力すら失せかけている。
極めて細く、弱く、脆さを露呈した心の芯が、かろうじてサバキの言うことを本心から信じるのを一歩、踏み止まって押さえているおかげで。
だが、それとていつまで持ち堪えられるか知れない。
巳咲の精神は確実に、着実に、瓦解に近づいていた。
「そりゃショックよねえ……けど誤解しないでほしいのは、別に八頼本家が悪いってわけじゃない。あくまで悪いのはヤライ自体よ。現実問題、初代が死んで以降は火伏に犬神、狗牙と、分家を揃えて弱体化したヤライの監視を続けるぐらいにしか機能してなかったし、それ以上のことはできなかったのが実情。いくら弱体化してるったって、たかが初代の血をほんのわずか受け継いだ人間……並みの人間よりマシであろうとも、所詮は人間だけでヤライを封じ続けるなんて元から無理があったってこと。神様でも無理なもんを、人間がどうこう出来るわけないんだから気に病む必要なんか無いの。変に万能であろうなんて思っちゃうと、精神のバランス崩れるわよお?」
気楽な口調で話すサバキの言葉を聞き、
さらに心が揺らぎかけたその時、
何故かしら、ふと巳咲は忘れかけていた事実を思い出す。
ある意味では活路。
話の矛盾点を突く、まさに突破口。
ゆえに巳咲は下手な考えは捨て、単刀直入に疑問を突きつけた。
「ちょっと待てよ……テメェ、ずっとヤライこそが敵、そしてヤライは今では八頼家の人間だって……話はそういうことだよな……だとすりゃ、八頼がもう滅んでる今、ヤライなんてどこにいるってんだっ!」
一発逆転。
それほどの自信を持っての発言。
と、言えども別にこれだけでサバキの話すべてを虚偽だと断定できるわけではない。
さりながら、最低でも楔は打ち込める。
自分を見失う危険性を回避し、踏み止まる要素には十分になる。
そう巳咲は思った。
が、
流れは変わらない。何ひとつ。
儚い思惑は砕けて散る。
表情に明らかな憐憫を浮かべ、見つめてくるサバキの回答によって。
「……つい数日前までの自分がそうだっただけに、客観視すると耐え難く哀れねえ……って、今のワタシはサバキであって巳月じゃないんだったか……さておき、話を戻しましょうか。巳咲チャン、結論から先に言うと、八頼家……というか八頼は今まで一度だって絶えたことは無いのよ? バカバカしい……ほんとバカバカしい、ちょっと考えれば気付く話。巳咲チャン、急にこっちからの質問だけど、八頼って逆にいつ血が絶えたのお? 付け加えてヒントじみた質問。火伏の家の起源はあ?」
「……!」
青天の霹靂……は、表現として必ずしも適切ではないが、サバキから急に出されたふたつの質問が巳咲に与えた衝撃の大きさは間違い無くそれほど大きかった。
言う通り。サバキの。
馬鹿馬鹿しい。あまりにも馬鹿馬鹿しい矛盾。
気付かなかった自分の正気すら疑いたくなるほどに。
「その様子じゃあ、自分で理解出来たみたいね。そう、八頼の血は千華代によってずっと維持されてきた。単に八頼から火伏に名を変えただけ。これも千華代には都合の良い話よ。八頼と呼ばれなくなったことで、削がれるはずの力を温存できるようになっただけでも大きな収穫だったろうねえ……」
「……いや……でも、なら昔の連中は何だってあのババァが火伏なんて改名するのを止めなかったんだ? 自分たちが監視しなきゃいけないやつに、何でそんな好き勝手なこと……」
「一番の問題は時間っていう不可避の障害かなあ。どんなに先人が言い聞かせた約束事でも、千年単位の時間が経過すると徐々にグダグダんなってくもんよ。責任も義務も形骸化してくのは世の常。変わってゆくのは人間の強さでもあるけど、同時に弱さでもあるっていう楽しくない実例だわ。重ねて、さらに決定打」
「……決定打……?」
「大体、千華代ってのは誰なのかって話よ。八頼の血統であり、千二百九十四年を生き抜いた超ご長寿ババァ? そんなもんじゃないわ。千華代の正体は初代が産んだ最初の八頼。さすがに強力な荒御霊でも、二千年を越えて肉体を維持し続けるのは難しかったみたい。だから早目に八頼家へ生まれた若い娘の体を乗っ取った。あの体と千華代って名前は奴にとってはふたつ目ってこと。隠れ蓑であり、自由と権力であり、さらなる時を生きるための器。本来、これは当時の八頼家の連中が生玉を使って上手くヤライを別の肉体に移し替える予定だったのに、約二千年の間に平和ボケこじらせた八頼家の連中はまんまとヤライに先手を打たれた。人間と違って神は絶対に油断しない。常に隙を窺ってるもんよ。結果、積み重なった油断と失策から、ヤライは八頼家を分割して言霊の呪縛を弱め、しかも八頼は空位にして自分は火伏と改名しつつ、八頼にまつわる実権をほぼ掌握した。軒を貸して母屋を乗っ取られるなんて言葉があるけど、こいつの場合はその最悪バージョン。敵味方の立ち位置から区別からゴッチャゴチャだもの。そりゃ八頼も滅ぶわ」
聞き終えて、
巳咲は思わずその場で倒れそうになる。
始めにサバキが言った通りだ。
今まで、これまで、信じてきた価値観が、記憶が、事実が、音を立てて崩れてゆく。
あまりのことで足元がふらついた。
支えた栖の体を保つどころか、自分だけでも立っていられるものかと不安がよぎる。
予想をはるかに超えた精神的打撃によって。
しかし、
「……それに……まあ、今となっては事のついでみたいな話になっちゃったからどうでもいいっちゃあ、どうでもいいんだけど……」
正と負、どちらの働きをするかは分からないが、
「栖チャンさあ……ワタシが今、巳咲チャンに話したヤライと八頼の真実、知っては……いなかったろうけど、八割方は気づいてたのに……今までずっと黙ってたでしょ……?」
巳咲に向けていた憐憫の目を一転、
冷酷な視線をサバキは栖へと向ける。
呆然としかけていた巳咲も、またもや聞かされたサバキの信じ難い話に咄嗟、肩を貸して横に立つ栖の顔を覗き込んだ。
その顔は、
ひどく蒼ざめ、冷や汗の滲んだ表情はこわばり、恐怖と動揺を色濃く映し出していた。
「ふむ……ま、せめて怯えてでもくれないとムカつくってのは正直なとこかしらあ? 何せ、栖チャンが大事な秘密を黙っててくれたおかげで……」
瞬間、サバキの視線は殺意を帯びる。
「ワタシたち……サバキへの特攻を命じられた三家の人間たちは……自分たちのほんとの役割も知らず、サバキへ差し向けられた挙句、無意味に殺されたんだからねえ……」




