ヤライノカナメ (1)
胸を貫いていたサバキの腕が引き抜かれると、要は大量の出血とともにその場へ力無く両膝を折った。
自分の血で作った血溜まりに膝を漬ける際、周囲にバシャリと大きく水の爆ぜる音が響く。
そして、
そのまま弛緩した体は仰向けに倒れる。
不自然な体勢に折り曲がり、崩れゆくその様は、ひと目で要の全身から力という力が抜けているのが伺い知れた。
全体に茂った青草のせいか、上半身が地面に落ちた時にはこれといった音も無く、静かに要は横たわる。
意思も無く天を見上げた顔は呆けたように何の表情も示さず、かろうじて開いている双眸は虚ろに空を見つめているようにも見えたが、もはやそこに(見る)という行為が存在しないのははっきりとしていた。
どこも見ていない瞳。
ひとすじ、口の端から流れ出ている血。
呼吸を止め、動作をしない真っ赤な胸。
血の気を失い、雪の如く白くなった顔。
確認をするまでもなく、
それは死んだ人間の姿でしかなかった。
「はーい、これにて要チャンは死んじゃったねえ♪ 悲しいねえ♪ あっけないねえ♪ 人の命って、どうしてこうも儚いんだろうなあ♪」
「……」
目の前に広がった惨事に対し、しかも自ら手を下しておいてのこのサバキの異常としか言えない軽薄な台詞にも、事実をすぐには受け止められない巳咲と栖は揃い、絶句する。
要は死んだ。それは誰の目から見ても明らかなこと。
それでも、
素直に認めるには、あまりにも酷すぎた。
栖に限るなら、このような展開もまた考えてはいたものの、やはり現実として押し付けられるとショックを受けずにはいられない。
「とはいえ……今度ばかりはワタシも後味が悪いなあ……望んで殺すのと、必要に迫られて殺すのじゃ、やっぱ大違いだわ。楽しくないねえ、こういうのってさあ……」
なお、物憂げに言いつつ、要の血で濡れた自分の左手をサバキは眺める。
瞬間、
「……ォオアアアァアァァッッ!」
痛ましい叫声を轟かせたと思うや、巳咲はすでにサバキへ突進し、握り固めた右拳を叩き込んでいた。
考えも何も無い。ただ、ただ心の赴くまま。
殺したい。
純粋に、とにかくこいつを殺したい。
その一心だけで。
だが、
無防備に見えたサバキはまたしても容易く巳咲の一撃を遮る。
弾丸のような早さで迫っていた青銅製の拳を、事も無げに右手で包み込むように掴み、
「ふむ……ひとまず予定通りの反応……かなあ?」
言って、小さく溜め息を吐いて。
「贅沢を言えば、もう少し……時間が欲しかったんだけどねえ。でも、ここからまたひと押しは巳咲チャンたちが勝手にしてくれるだろうし、あんまり欲をかくのもアレかしらあ?」
「……テメェ……何ひとりで訳の分かんねえことほざいてんだよ……」
独り言のようなサバキの言葉へ反応し、巳咲は声を絞り出して問うた。
先ほどの叫び声といい、もはやその声は小さな悲鳴に近い。
しかし、
サバキはそんな様子を気にもせず……いや、
さらに煽り立てるようにして回答する。
歯を剥き出しにし、零れんばかりの笑顔を巳咲に向けて。
「何も知らない可哀そうな巳咲チャン……親切心からでは決して無いけど、今はひとつだけ教えておいてあげる……これがサバキのやり方。人の心が壊れるまで絶望させ、自ら死を求めるようにさせるの。単純に殺すだけのヤライとは手の掛け方が違うのよ……」
「どこまで……下衆なんだテメェ……それに、だとしたら何で要を……こんな風に、アッサリ殺しやがったんだよっ!」
「その辺はそれぞれの好みの違いがあるから、ワタシのやり方を理解してもらおうとは思わないけどねえ。ただし、要チャンに関しては例外としか言いようが無いわ。そりゃあワタシだって出来ることなら要チャンも絶望させてあげたかった。けど仮に絶望させたところで、すぐ心が復活しちゃうのよ。冷たいとか立ち直りが早いとか、そういう次元の問題じゃ無く……」
「テメェ……何の話なんだ? そりゃ、どういう意味……」
「っと、ごめん巳咲チャン。そろそろ時間っぽいから、おしゃべりはここまでー♪」
言ったが早いか、サバキは掴んでいた巳咲の拳を瞬時、
握り潰した。
青銅製の拳を、紙細工でも壊すように。
これに、巳咲が驚愕の表情を浮かべたのは当然だろう。
皿のように見開いた目で、砕け散って落ちてゆく破片を追う。
ひしゃげ、原形も留めずにちぎれた青銅の指が、一本、また一本と潰された拳から剥がれるように落下する。
「……いいわねえ……その顔……でも、まだ足りないわあ……まだ……」
ささやくように言うと、サバキは即座、
呆然自失して立ち尽くした巳咲の胸を、
蹴り飛ばした。
途端、巳咲の体は宙を舞い、背後にあったひときわ太い石の樹に背中からぶつかると、そのまま崩れるように地面へ倒れ込む。
小さく咳き込みながら。
「今回はちゃんと手加減できたみたいで良かったわあ♪ さすがにまだ怪我人の巳咲チャンをあんまり痛めつけすぎると、本気で動けなくなっちゃうからねえ♪ 無理すれば動ける程度に止めないと、後の楽しみが減っちゃう……」
そこまで、
言いかけたところでサバキは露の間、動きを止める。
何か、気配でも察したように。
何の気配か、どんな気配か。
それはサバキにしか知り得ないものであったが、その正体はすぐに知れた。
何やら察し、サバキが動きを止めたのとほぼ同時、起きる。
まさに刹那。
刹那の異変。
サバキが何かをする間も無く、その背後の広がる空間が突如、
斬り裂かれた。
比喩で何でもない。
まさしく、斬り裂かれた。
加えてそこから、飛び出してくる。
人影。ごく、小さな人影。
その人影は裂け、開かれた宙空から脱兎の如く弾き出たと見えるや、振り上げた手をサバキに向かって振るった。
が、空振り。
距離は近かったものの、目測を誤ったのかその手はサバキに届かない。
ところが、
裂ける。サバキの体が。
袈裟懸けに右の首元から股まで。真っ二つに。
すると瞬間、位置的に最も距離を取っていた栖が、その人影を見てやにわに叫んだ。
「千華代様っ!」
驚きに声をうわずらせつつ、発したその声を聞いてか聞かずか、千華代は呼び声には何ら反応せずにサバキの近くで地面に伏している要の躯を躊躇無く左脇へ抱え込むと、一声、
「栖、巳咲、早うついてまいれ!」
言い残し、先ほどの宙空の切れ目へと要の屍ごと再び飛び入り、姿を消した。
この事態に、つい今しがたサバキの蹴りで体勢を崩していた巳咲は、突然の出来事で戸惑いも手伝い、半ば思考停止していたが、
「巳咲、早く千華代様の後に!」
千華代と栖、相手は違えど二度まで声をかけられてようやく正気に戻ると、
「……お、おう!」
すぐに背後の石の樹を支えに立ち上がると、ほとんど考えも無く、ふたりに言われたまま裂け目へと駆け入ってゆく。
この間、数秒とかかっていない。
瞬く間は言い過ぎとしても、そう表現してもあながち間違いとも言えない急転。
ではあるが、
特に何かが解決したわけでもない。
いや、当面という条件付きなら巳咲たちがサバキの脅威から逃げおおせた点だけは事態の好転と考えてもいいかもしれないが。
ともかく、
今は千華代の言葉に従うのが最良と、栖も奇妙に裂けた空間の切れ目へ駆け込もうとした。
途端である。
「……んー、微妙にタイミングがズレた感もあるけど、ほぼこれも思った通りの展開……ってとこかしらねえ……」
切れ目に足を踏み入れかけたところへ、
「そうそう栖チャン、そっちに帰る前にワタシからひとつ、お節介な話を聞かせておいてあげようかなあ♪」
ゾワリと身の毛がよだつ、非常な邪気を感じさせる声。
誰のものかを判断する必要も、確認する必要も無い、耳障りな声。
眼を向けることすら躊躇われ、振り返ることはしなかったが、栖にはそれが千華代に両断されたサバキのものだという確信だけはあった。
見るまでも無く、
耳も鼻も、皮膚感覚だけに限っても、どうあろうとこの声がサバキのものだと訴えている。
「まあそう怖がらないで聞きなよ栖チャン。少なくとも今はまだ殺したりしないからさあ♪」
「……」
「けど、特別に何ってほどの話でも無いんだよねえ。ただ、栖チャンはお利口さんだから分かると思うから念のためにって感じ。目敏い栖チャンのことだから気付いてると思うけど、要チャンには死返玉を着けてある。無論、これもワタシから栖チャンたちへの嫌がらせ♪ 生き返らせてみれば? 栖チャンなら布瑠の言くらい簡単に使えるでしょ? ただし要チャンは生き返れないけどさあ♪ だってもう要チャンの魂は……」
露の間、沈黙を跨ぎ、
「……黄泉に来てる。常世でも特にワタシの庭みたいなところに……さて、魂を持たない、単なる生きた肉を作りたいなら好きにどうぞお♪ 正直、そうした時の巳咲チャンの反応を想像すると、逆にやって欲しい気持ちが強いかもなあ……」
「……お前っ!」
さしもの、栖も度重なる挑発にサバキへの恐怖心より怒りが勝り、思わず声を上げながら振り返った。
だが、もういない。
サバキの姿はどこにも無い。
音も風も無く、去っている。
それより数瞬、
栖は改めて空間の切れ目に足を踏み入れた。
サバキの言ったことの意味を考え、
サバキの言ったことの意味を思い、
思わず、
噛み千切るほどの強さで自分の唇へ歯を立てながら。




