トコヨトウツシヨ (9)
「ッダラアァァァッッッ!」
まだ傷の塞がりきっていない箇所からの出血に加え、長く全力で動き続けたせいで雨にでも打たれた様に濡れた全身は、流れる汗と血が混ざり合った薄紅色の体液が激しい動作に振り切られ、飛沫となって宙に散ってゆく。
八握剣のおかげで力負けせずに攻められると分かって以来、巳咲の攻め手は一度も止まることなく、延々とサバキへ向かって振るわれていた。
しかし、サバキの身のこなしまでは変わらない。
攻撃を防げる。攻撃が通る。
この二点だけでも確かに大きくはあったが、初手でサバキの左手を落として以降は有効な攻撃らしきものはひとつも決められずにいた。
というより、攻撃自体が当たらないのだ。
サバキの素早さはある程度想定してはいたものの、実際まともにやり合ってみるとその速度は予測していた範囲を圧していた。
高速で詰め寄り、異形の右手を伸ばす巳咲に対し、同じ速さでサバキも後方へ退る。
どこか余裕すら感じさせる様子で、サバキは連続で幾度となく繰り出される巳咲の攻撃をすべて避けていた。
「クソッ! チョコマカと……ほんと、イライラすんなこのヤロウッ!」
攻め手を緩めず、巳咲が悪態をつく。
無理も無い。
並みの相手なら体力負けする気はしないが、相手はサバキ。
ようやく攻防で互角になったと思ったら先に息が上がって負けるなど、冗談ではない。
「ほらほら巳咲チャン、攻撃は熱く、狙いは冷静に。すぐ頭に血が上るのは昔からの悪いクセよお? もっと考えて動かなきゃ♪」
要所要所で煽ってくるサバキの言葉も応えた。
言われなくとも努めて冷静にと思いはするが、巳咲の性格上、特に戦いの最中にこうした安い挑発を絡めてこられると、どうしても自制が利かなくなる。
いい加減で何とか状況を打破しないとまずいことは分かっていても、体以上に気持ちがついていかない。
思い悩みつつ、今はただ逃げるサバキを追撃するよりないと、森を駆けながら右手を振るう。
と、そんな時だった。
これまで攻撃の手を一切緩めることの無かった巳咲が、はっとしたように少しく目を見開いたと見えるや、
急にその足を止めてサバキの追跡を止める。
これにはサバキも多少、虚を突かれたようで同じく足を止め、巳咲に問いかけた。
「……どしたの? 巳咲チャン、まさかもう疲れたなんてことは無いだろうし……もしかして飽きっちゃったとか?」
半分はひやかし。だが半分は本心の問い。
ここまで来て、よもや巳咲が諦めるというのは考え難い。
なら、何故に足を止めたのか。
本当に不思議だと感じたのは嘘ではない。
が、巳咲はそんな問いに対し、声ではなくジェスチャーで答える。
サバキの身振りを真似るように小首を傾げ、右手の八本指を器用に畳むと、汗まみれの顔にいやらしい笑みを浮かべて自分の背後を指差す。
どういう意味か。何を伝えんとしているのか。
分からず、再びサバキは巳咲へ声をかけようとした。
瞬間、
サバキの背中に強烈な衝撃が走る。
同時に、目の前で奇妙な身振りをしていた巳咲が口を開いた。
「冷静に、ね……ご忠告ありがとよ。おかげで『ひとりで戦ってる』ってバカな思い込みから解放されたぜ。な、栖?」
言ったのを聞き、サバキは即座に自分の背後を振り返る。
そこへ間髪入れずに二撃目。
眼にその姿を捉える前に知らぬ間、背後へ回っていた栖の鋭い爪が、束となって左手全体でサバキに振り下ろされ、その胸元を抉った。
噴き上がって舞う多量の鮮血で遮られる視界の中には、すでにサバキの背を裂き、その血で染まった右手を引いて、抉り取った皮肉と血に今、彩られた左手をそのまま構えてサバキを見据える栖の姿がある。
「自分ひとりで何でもやろうとする巳咲の性格が、今回ばかりは良いほうへ転びましたね。おかげで私の存在をまったくといっていいほど、お前は気にかけなかった。身を潜め、奇襲をかけるには最高のお膳立てでしたよ」
「……賢しらに……この千華代の犬が……」
「当たり前のことを言われても何も感じるところはありませんね。私は犬神。それがどうかしましたか?」
答えながら、栖はなおも攻撃の手をサバキに伸ばした。
一旦、引いた右手で手刀を作ると、血に染まったサバキの胸元を貫かんと槍の如く放つ。
ところが、すでに奇襲ではなくなった攻撃をやすやすと受けるほどサバキは甘くなかった。
サバキもまた、残された右手で栖の突きを受けようと手を動かす。
以前の戦いを思えば、生身の手ではこの防御は防御だけでは済まされない。
受け止めただけで巳咲の両手を原形も留めないほど破壊した地雷のような防御。
すわ、惨事が再びかと思われたその時、
栖の右手は高速での直進を急に止めた。
代わりに、
体勢的に見てとても有り得ないはずの重心移動により、鈍く重い栖の左前蹴りが直にサバキの腹を蹴り飛ばす。
一度でも見て警戒した手は食わない。
そう言わんばかりの、瞬く間の攻防だった。
スピードこそさほどではなかったが、威力は十分だったらしく、サバキの体は投げ捨てられた人形のように後方……巳咲のほうへと飛んでゆく。
そこを待ってましたとばかり、巳咲が突進してくる。
千載一遇のチャンスを逃さず、ここで一気に停滞していた勝負をつけようと、巳咲は前傾姿勢も極端に、加速を強めた。
一撃で仕留める。そんな気概を胸に。
猛スピードで直進しながら、自分に向かって飛んでくるサバキに狙いを定めると、右手を広げてなおも地を蹴る力を増す。
途中、右手が触れた樹々は接触面が次々と発火してゆく。
これが単なる摩擦による発火なのか、もしくは今、右手として使われている八握剣が持つ何らかの力によるものか。
そうしたところの事実は分からないが、少なくともこの一撃が届けば、如何なサバキといえども無事で済むまいということは間接的にも十分に伝わってくる。
巳咲自身も自覚していた。
これなら、今なら、サバキを倒すのも可能だと。
それだけに巳咲の気負いは尋常で無い。
右手代わりに取り付けられた血も通わぬ、無論感覚も無い腕もどきの金属に、込めようも無いはずの力を込め、
「ォオオオオオオラアァァァァァッッ!」
咆哮一声、眼前まで近接したサバキの血濡れた背に向かい、巳咲は煙を吹くような勢いの右手を力任せに振り下ろす。
ところが、
突如、
「……なーんちゃってえ……」
無防備に背を向けていたサバキが、そう言いながら首を廻して巳咲を見、そしていたずらっぽく笑った。
この反応に、巳咲は当たり前だが動揺する。
だが、すでにサバキを追い詰めた体勢に変わりは無い。
妙な行動、言動に誘導されて好機を逃すわけにはいかないと、巳咲は揺れそうになった心を強引に押し止め、構わずそのままサバキへ右手を叩き込む。
その、刹那、
止まるはずの無い、止めるはずの無い、止める気など起きるはずの無かった巳咲の右手が、
止まった。
理由は、まさに振り下ろさんとした右手の先。それが、
つい一瞬前まで確かにサバキだったものが、
要の姿に変わっていたために。
ほとんど振り抜きかけていたものを反射的に止めたせいで、急停止した体をよろめかせつつ、巳咲は先ほどとは比べようも無い驚きに思わず、
「危ねっっ!」
吃驚の声を上げ、ギリギリのところで突進と右手を止める。
実際、よく堪えられたと自分で感心するほど紙一重での急停止だった。
頭より体が先に前進を拒絶し、突然に現れた要の寸前で、地面へすねまで埋まるような踏み込みにより、かろうじて急制動に成功したが、並みの人間の身体能力なら要の首から上は確実に消し飛んでいただろう。
いや、
並みの人間の力ではそこまでの惨事に至りはしないと考えれば、これも所詮は机上の空論か、つまらぬ喩えのひとつでしかないかもしれない。
ともかく、
すんでの事で危機回避はしたものの、当然ながら何がどうしてこうなったのかが分からない巳咲は、こんなことを聞くのも頓珍漢だと分かっていつつ、いきなり眼前に現れた要に怒鳴り声で問うた。
「バッ、バカかテメェはっ! なんでこんなところで急に出てくんだよ! 危うく頭ブッ飛ばしちまうとこだったじゃねえかっ!」
体勢を無理に立て直そうとしながら喚いてくる巳咲を見ながら、要は要で大きな目をいっぱいに開いて当惑も露わに問い返す。
「す、すいませんっ! って……いえ、そうじゃなくて……あれ? 何で狗牙さんこそこんなところに……?」
言うのを聞いている途中である。
巳咲が身を引いた状態になり、始めて要の全身が視界に入ったのは。
見れば、
最悪が最悪を着て、最悪に乗っているような状況。
にわかに現れた要についての疑問はさておき、問題なのは、
その要を、背後から右手でしっかと抱きしめている存在。
サバキ。
要の肩越しに後ろから顔を出し、にやついた口元から鋭く白い犬歯を覗かせ、細めた目で巳咲を眺めている。
「……ほーんと、これだから実戦て楽しいよねえ♪ 計算外のことが関わると戦況が二転三転したりとかさあ♪ あ、聞きたいんだけど巳咲チャン、本気でワタシに勝てるとか一瞬でも思ったりした? ねえ、思った?」
「……思ったよ……テメェが人質を盾にするような汚え手ぇ、使ってくるまではな……」
「ふうん……思ってくれてたってのはうれしいけど、途中の誤解がどうも引っかかるわねえ。ワタシがなんで要チャンを人質に使う必要があるのお?」
「ぬかせっ! 現に今だって要を盾に……」
「盾にする……必要って?」
言いつつ、サバキは要の背後に隠れていた手を広げて見せた。
右手では無く、
左手を。
それを見た時、
不覚にも巳咲は一瞬、我が目を疑って思考が止まる。
何故?
左手は切り落としたはず。
なのに何故?
単純すぎるがゆえに答えの出せない混乱に、しばし巳咲の頭が停止している間、
転じる。状況が。
無明の底への転落。
「絶望は希望を持っているものの特権……希望を持たないものは絶望できない……だから与えたのよ。ちゃんと絶望できるように、ちゃんと希望を与えてから……」
咄嗟、
「巳咲っ!」
ひどく遠くから栖の声が聞こえたように思えた。
転瞬、
目の前が一面、赤に染まる。
何が起きたのかを瞬時に理解するには、今の巳咲は困惑し過ぎていた。
とはいえ、まさしく眼前の出来事。
知るにはさほどの時間を要しなかった。
落ち着いてみれば、赤く染まったのは目の前ではない。
正確に言うなら、
要の左胸。
そこから突き出した同じく赤く染まるサバキの左手を中心に、傷口付近から噴き出すように流れ出した血が、要の上半身全体を白衣の白から赤へと塗り替えてゆく。
白から赤。
侵食する。
生を死が屠るが如くに。
「……奪う。これがサバキのやり方。ごめんねえ要チャン……別に恨みも何も無かった……むしろワタシ、要チャンみたいな子は嫌いじゃないなと思ってたんだけど、これも決め事みたいなもんだからさあ……」
どこか寂しげにも聞こえる声を発してしゃべるサバキの言葉を聞いてか聞かずか、
左胸……明らかに心臓を貫かれた格好の要はただ虚空を呆然と見つめ、
静かにその瞳を閉じ始めたと同時、
サバキの手が引き抜かれた。
瞬刻、
壊れた水道管のように要の胸へ穿たれた穴から致命的な量の鮮血が溢れ、しとどに濡れ伝わると、足元の草をその血溜まりの中へ沈み込ませてゆく。
あたかも、暗闇に沈みゆく要自身の意識と同じように。




