トコヨトウツシヨ (7)
要は呆気に取られる他に無かった。
それどころか、
呆気に取られる暇すら無かったというのが正しいかもしれない。
突如として眼前の空間を割り砕き、いきなりサバキへと襲い掛かった栖の姿を見てからの展開は、とても要の目と思考力で追い切れるようなものではなかったのである。
幅広の槍にも似た形状に変化し、サバキの喉元にまで迫った右手がほぼその皮膚に喰い込もうかとしたその時、
ようやくサバキは動いた。
瞬く間なとどいう表現では追いつかない。
およそ何かが動く速度を完全に凌駕して。
当事者として目の前でそれを見ていた栖にとっては、ほとんど錯覚に近い。
事実、そのあまりに異常な速さに神経がついてゆかず、平衡感覚が揺らぐ。
今まで眼前にあり、黙っていても自分の右手が引き裂くはずだったサバキの喉。
それが、
一瞬のうちに移動している。
すり抜けたというより一旦、消えてまた現れるようにして。
気がつけば、突き出した右手は空を切り、代わりに、
サバキは栖が伸ばした右手へまとわりつくような姿勢で体を密着させていた。
虚を突いたつもりがその上をいかれ、冷や汗を滲ます栖の耳元に口を寄せながら。
「……相手を待たせないっていうのは生真面目な栖チャンらしくて良いとは思うよお。けど、そこから先がお粗末すぎるなあ。現世から常世へ入り込むまでに時間かかりすぎだねえ。まあそこは仕方ないか……何せ、いくら三家の中で家格は二番目って言っても……」
優しく、諭すような口調でそこまで言うや、
口を動かすのと一緒に、忍び近づけていた己が右手のひらを栖のみぞおち辺りにサバキは貼り付けると、
「……レベルが違うんだよマヌケ……」
総毛立つほどの低く、邪気に満ちた声でささやいたと同時、
栖はサバキの身を離れ、凄まじい勢いで後方へと吹き飛んだ。
乱立する石の樹に激突を繰り返し、鈍く重い音を立てて倒れてゆく石の樹が舞い上げた灰白色の煙に包まれ、やっと停止できたのは十数メートルも先のことだった。
この時、要は自分の横をかすめて飛ばされていった栖をろくに確認することも出来なかったのは言うまでも無い。
元々から双方共に人間の運動能力や反射速度など優に超越している。
人並みの要が目視できようはずもないのは当然だった。
が、起きた出来事を時間を置いて理解することは出来る。
ゆえに、要は椅子に座ったまま腰も足も萎え、立ち上がることもできなくなっていた。
昨晩の火炎巨人の時と同様、身動きする余裕も無く呆然と、恐怖で絡め取られて硬直しているより無い。
だがそうしている間にも、状況は刻々と進行してゆく。
目の前に座っていたはずのサバキは知らぬ間にもう背後に吹き飛ばされた栖へとゆっくり歩み寄り、地面へ膝を突いて前屈みで胸を押さえながら咳とともに喀血するその姿を見下ろしながら言葉を続けた。
「ほらほら、たかが胸骨が砕けただけでしょお? それとも何? そのくらいでへばっちゃう程度の覚悟でワタシと戦いに来たのお? だとしたら世の中を甘く見すぎよ栖チャン♪」
諭しているのか嘲っているのか分からない、妙な調子で声を掛けてくるサバキに、それでも栖は言葉こそ発さないものの、持ち上げた顔をサバキへ向け、血走った双眸で睨み据える。
「……いい顔できるじゃない栖チャン……そう、どんなに冷静ぶったって理性にも限界はあるものねえ。怒るのはガス抜きの意味も含めて大事よお♪」
「……」
「とはいえ、いくら睨んだところでワタシは痛くもかゆくも無いっていう点では無意味だとも言えるのかなあ? ま、残念でしたとだけ言っておくわ♪ 睨んで相手が殺せるわけでもないっていう事実をねえ♪ それと……」
言いかけ、急にサバキは栖の一歩手前で足を止めると、
「奇襲なんかで覆るほど、ワタシと栖チャンたちとの力の差は……」
間を置き、言葉を継いだ。
刹那、
「小さくないんだよっ!」
サバキの言い終わりと同時、
瞬時にいくつもの事態が重なる。
咄嗟に後ろへ振り向きざま、扇のように左手をサバキは一閃させた。
そして、
その手の行く先には栖の時と同じく、宙空から忽然と姿を現し、右手をサバキへ目掛けて振り下ろさんとする巳咲がいる。
サバキからすれば一種の既視感。
これから起きる結果も含めて。
巳咲の右手はサバキの左手に阻まれ、またしても爆ぜた血肉と化すだろう。
ところが、
互いの手は交差してぶつかり合ったものの、それ以上の何事も起きない。
巳咲の右手。サバキの左手。
どちらも無事。
相違があるとするなら唯一、
白い包帯を厚く全体に巻かれた巳咲の右手の感触に、サバキは少々の驚きを表し、巳咲は笑みを浮かべたこと。
加えて、
緩み解けた指先の包帯の間から覗く巳咲の指が、明らかに異常な本数であったこと。
それも、その指はどこをどう見ても生き物の指とは思えないものだったのである。
青銅の質感と色をした八本の指。
不気味に蠢くそれを見つめ、サバキはそれでも軽い口調を変えずに言う。
「はー……こりゃまた思い切ったことしたねえ。というか、よくあのババァがそれを巳咲チャンに使ったなあって、ちょっと驚きながら感心しちゃったわあ……」
「ま、普通なら有り得ねえんだけどな。体のほうはともかく、さすがに両腕を急ぎで治すのはヤバいってんで、ババァも気を遣ってくれたらしい。とはいえ、アタシもまさか十種神宝のひとつをポンッと使われるとは思わなかったぜ……ただし一本しか無えっつうから右手だけで、左手は使えねえけどよ……」
「いやいや巳咲チャン、同じ十種神宝って言ってもコレ、他のとは比較対象外よ? 価値ちゃんと分かってる?」
「あん? 死返玉やら生玉やらと違って、こんなのただのボロい剣だろが。それに何故だか右手代わりに加工されたら八本指とかキモイ腕んなっちまったし……」
「そこんところはお気の毒様としか言えないわねえ……でも、その右手代わりに着けてもらったっていう剣……八握剣だけど、あの八岐大蛇を倒した十握剣とは同系統っていうバリバリの神剣よ? 紛うこと無く、荒御霊だろうが和御霊だろうが、神をも斬り殺せる剣……つまりワタシのことも上手くすれば殺せるかもってくらいの代物。自覚無く使ったりしたら勿体無いと思うけどお……?」
聞いた途端、巳咲はしばし目を丸くしたかと思うと、接近していた身をさらにサバキへと寄せて顔を覗き込みながら問うた。
「……そりゃ、マジか?」
「ワタシが今まで、巳咲チャンにウソついたりしたことなんてあるう?」
笑い混じりに答えるサバキを見つつ、巳咲もまた浮かべていた笑みを強める。
ひどく、歪んだ笑みを。
「へえ……そりゃ俄然『殺る気』が湧いてきちまったね……始めてだよ。両手を潰されてラッキーだと思ったのなんてさ……」
「そこはどうかしらあ? 言ったけど、『上手くすれば』の話よお?」
「心配すんなって……せっかくそんな楽しい話を聞かしてもらったんだ。こうなりゃ、どうあってもテメェは……」
言い止し、巳咲は八本指の奇怪な手で拳を作ると、
「ぶっ殺してやるっっ!」
絶叫を上げ、力任せにその手を振り下ろした。
密着したままのサバキの左手ごと。
瞬間、
両者の視界が覆われる。
押し潰すように断ち切られ、地面に落ちてゆくサバキの左手も隠れるほどの、
引き裂け、微塵になって散る白い包帯と大量の紅い鮮血に。
転瞬、
巳咲は仮の右手に感じた手応えを感じながら一気に後方へと飛び退った。
並みの相手ならばこの程度の視界不良でその位置と動きを見失うことは無い。
しかし今、相対しているのは並みの相手ではなく、サバキ。
次にどう動くかも、どこに現れるかも分からない敵。
特に前回の戦いで実力差は痛感している。
そのため、巳咲は大いに気を昂らせつつも冷静だった。
慎重に。無理をせず慎重に。
そうでなくとも、ここに来た主目的は決してサバキとの決戦ではない。
外側は焼け付くほどに熱く、内側は適度に冷めた意識を巡らし、巳咲は油断無く構えるとまた大きく一声を放つ。
「栖、いつまでも寝てんじゃねえよっ! こいつはアタシが相手してっから、その間に要を連れてさっさとババァんとこに戻れっ!」
「……他人事だと思って気軽に言ってくれますね……それが血を吐いて倒れている人間にかける言葉ですか……?」
「悪ぃけど、アタシは自分より軽傷のやつを思いやってやるほど優しかねぇんだよ!」
「……まあ、そこについては反論しませんが……」
苦しげに言いつつ、栖もようやく身を起こし出した。
言われた通り、傷の具合だけなら巳咲よりも自分のほうが軽度なのは確か。
それにやらなければいけないことの優先度を思えば、無理をするのが当然の状況。
思い、栖は巳咲のほうを向いたままのサバキに警戒しながら、素早く立ち上がると一直線に要のもとへと走る。
が、すぐさま、
栖は走るのを止めた。
何故なら、
「そういう動きになるのは分かりきってたことだからねえ……というより、陽動にせよ時間稼ぎにせよ、ふたりとも作戦がグダグダよ? ちゃんと事前に打ち合わせとかしなかったの?」
言いながら失われた己が左手の傷口を眺めるサバキの気楽な雰囲気に対し、またもや知らぬ間に忽然と姿を消した要の、座っていた椅子を栖は歯噛みして見つめる。
「大体、根本的なとこが抜けてるのよねえ巳咲チャンも栖チャンも。ま、それを責めたりはしないけどさあ……土台、サバキとの決戦には八握剣を出さなかったくせして、この期に及んで切り札じみた出し方してくるようなババァに疑問も感じず踊らされてるんだもん。哀れにこそ思えど、腹を立てたりなんだりはしないわ……」
そう言うと、サバキはゆっくり顔を上げ、身構えた巳咲へ視線を向けた。
同時、残された右手で手招きをしながら。
「さ、つまんない小細工は後にして、今は遊びましょ♪ 有り得ないけど、ワタシに勝てたら要チャンは返してあげる。有り得ないけど、ね♪」
言ったサバキの顔が優しげに微笑む。
見かけのそれとは裏腹に、底知れない邪気をその瞳へ映して。




