プロローグ (3)
長々と語られた老警官の話の中に、こんなものがあった。
八頼町は生活するに最低限のものしか揃っていないと。
まずは鉄道。これ以外の交通手段は徒歩以外では自転車程度。バイク、原付なども数えるほどしか無い。
まともな連絡道路が無いから車などは当然存在せず、自然とこうした車両輸送専用ではない貨物列車でも運搬可能なものに限られる。
次に警察施設としての駐在所。これもまったくもって最低限。
何せ通常、こうした都市部以外に設置された駐在所にはパトカーが備えられるが、その通常がこの土地では通用しない。
前述した通りの理由で、白バイならぬ黒バイと、自転車が一台ずつ置かれているのみ。
あとは郵便局。これもさすがに無ければ困る。こちらには原付が一台と自転車が二台。
ところが病院は無い。診療所も無い。消防署も、町の消防団すら存在しない。
最低限のものしか揃っていないということは、裏を返せば最低限のものだけは揃っているということ。にもかかわらず、である。
医者の不在も相当なものだが、さらに消防設備が一切無いと聞き、さしもの要も耳を疑った。
民家同士が離れており、隣家への火移りが心配無いとはいえ、なんとも不備が多い。
しかし、聞いて思わず怪訝そうな顔をした要に老警官が気を利かせて答えた言葉はといえば、
「この町に火事は起きないんだよ」
こんなことを笑顔でさも当たり前のように。
無論、要はさらに困惑したが、老警官はその後すぐ別の話へ移ってしまったし、いちいち聞き返すのも面倒だったので他の話と一緒に聞き流すことにした。
だがこの話、実はちゃんとした理由があるのだと、要は後になって知ることになる。
閑話休題。話を戻そう。
二度の声掛けに足を止め、道端で声の方向に向けた要の視線が捉えたのはひとりの少女。
肩に掛かる程度の髪を無造作に、まさしく(ざんばら髪)といった風。身長は170はあるだろうか。少なくとも自分より高いのは間違い無い。
顔立ちと胸のふくらみで少女と知れたが、実際のところ男子と見紛っても不思議は無かった。
全体にがっしりとした体格をし、据わった大きな両の眼と、いかつい眉。
服装はこの寒空にTシャツとチノパンだけ。
見ているだけで要のほうが寒くなったが、当人はまったく寒さを感じている気配は無い。
平気な顔で道脇にある小さな建物の前に立ち、左手に抱えた遠目にも分かるほど大きなビーフ・ジャーキーの袋から、中身をひとつ取り出しては口に運び、取り出しては口に運びして咀嚼を続けている。
そこまで見て取った時、またも要の頭に老警官の話が蘇ってきた。
先ほどの、この町には最低限のものしか揃っていないという話の下りで聞かされた内容。
交通手段。警察施設。郵便局。その最後に語られたのは当然であろうか、販売業者。つまりは小売店についてである。
八頼町で小売業を営んでいるのはただの一軒。氏子百貨店なる、名ばかり大仰な建坪三十坪ほどの古びた商店。
ただし品揃えについては名前負けしていないようで、町民から不満が出たことは無いという。
食料品に衣料品、日用雑貨に文房具、家具や電化製品、雑誌、書籍まで何でもござれ。
実際、この町にはガソリンスタンドが無い代わりに、こちらの商店でガソリンや灯油に加え、家庭用のプロパンガスまで取り扱っているらしい。
そんな、まさしく町の生命線ともいえる店の前に、見知らぬ少女は立っていた。
そう、立っていた。過去形である。
要が巡らせた視線がちょうどその少女と合った時、少女はすでに歩き始めていたのだ。
要に向かい、真っ直ぐと。
元からそれほど双方の距離が離れていなかったのに加え、少女の足取りが思った以上に速かったため、気づけば少女は要の目前。道の真ん中に二人は向かい合って立つ形となった。
近づかれると、やはり身長差が際立つ。要は少女を見上げ、少女は要を見下ろす格好。
そこから、
「よう、チビ」
三度、少女の声が今度は頭上から降りかけられる。
意図的なのか、自然体でそれなのか、妙に威圧的な視線とともに。
これに対して要はといえば、先刻からチビ、チビと謗られているのに、今さら視線を逸らすのも印象が悪いと気を遣い、甘んじて少女の睨みを直に受けつつ、四度目の言葉をただ、じっと待ち続けた。
すると、
少女は近づく。さらに。
立ち位置はそのまま。見下ろしていた顔を寄せ、覗き込むようにして要に頭を近づけてくる。
これには要も無意識に身構えてしまい、肩をすくませ顎を引いたが、実際には何のことは無いことだった。
自分の顔へ寄ってきていたと思った少女の顔は、途中でするりと方向を変え、要の首元辺りに辿り着くと、スンスンと小さく鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ始めたのである。
ただし、その少女の行動が驚きとともに要の心中を乱れに乱れさせたのは言うまでもない。
何せ行為の理由が分からない。それに何やら恥ずかしい。
理屈と感覚、両面で当惑させられ、なおも硬直してゆく思考と体に四苦八苦する要の心境など知るはずも無く、ようやく少女は四度、口を開く。
「なるほどねえ……確かに匂いがする。アタシらとおんなじ匂いだ。どうやら同族ってえのは間違い無さそうだな」
言われて、要はその言葉が意味するところを考えはしたものの、どうにも意味不明にして理解不能。
などと、軽いパニックに近い状態の要へ、身を引いて再び目を向けた少女は、
「つーことは……」
一言置き、
「テメェが東京から来たっていう、最後の八頼ってことか」
こう宣ったもので、さすがに堪らなくなった要はようやく声を上げた。
「あ……いえ、なんか人違いされてると思うんですが……」
混乱した頭と、見知らぬ少女の奇異な行動から来る多少の恐怖が影響し、声がうわずってしまったが、少なくとも伝えるべきことは伝えようと、要も必死に喉と口を動かす。
「確かに僕は東京から来た人間ですけど……その、八頼ってこの土地の名前でしょ? 僕の名字は水朱です。八頼なんて名前じゃ……」
そこまで、どうにか言い通した。
が、間髪を入れず、
「それがどうした?」
今まで以上に威圧的な目をし、少女は断ち切るように要の言葉を否定する。
「テメェが今どんな名を名乗ってようが、そんなことは関係無ぇんだよ。アタシの鼻はウソをつかない。アタシの鼻が八頼の匂いを感じたんだから、テメェは八頼だ」
「え、で……でも……」
「うるせぇな。それとも何か? アタシの鼻が信用できねぇとでも言うつもりかよ」
言って、少女は明らかに不機嫌な様子でまた抱えた袋からジャーキーを一本取り出し、勢いよく噛りつくや、ブツリと鈍い音を立てて食いちぎった。
そしてほとんど噛まずにそれを飲み込むと、またしても不愉快そうに要の目を覗き込み、
「こちとら腹が減っててイライラしてんだ。くだらねえケチつけてると噛み殺すぞテメェ」
この物言いである。
こうなるともう反論の余地は無い。
相手が論理的に話をするタイプてない以上、言葉を尽くすのは無意味だ。
思い、諦めを身で示すように要は黙って体を縮こまらせた。
本来なら要にも言いたいことは山ほどあったのに、だ。
例えば「あなたはどちら様ですか?」とか、である。知らぬ土地で知らぬ人間から声を掛けられれば、そこを疑問に思い、聞こうとするのが正常。聞きたくない人間などまずいまい。
それでも要は自分の直感に従い、口をつぐんで相手の出方を見たのは、田舎の人間が余所者に声を掛けてくるには必ずそれなりの理由があるはずと考えたからに他ならない。
しかして結果、それが良かったのだろうか。
つい今しがたまで本気で人でも殺しそうな雰囲気だった少女は、ふと強い表情を和らげ、手に残ったジャーキーの半切れを口の中へ抛ると、これも一噛みもせず飲み込むや、打って変わった穏やかな口調で、
「でも、まあ……」
品定めでもするような目をし、要を頭のてっぺんから足のつま先まで見て取ると、
「得意げなツラした男が来るよりは、よっぽど可愛げがあるか……」
そう言って、まだかなり怯えている要へ、空いた右手を差し出しながら言葉を継ぐ。
「アタシは狗牙、狗牙巳咲だ」
一瞬、この手のひら返しにも似た相手の態度に、要は即座の反応こそ出来なかったが、すぐさま気持ちを立て直し、こちらも右手を差し出して、
「あ、の……僕は……水朱、水朱要です……」
ようやくにまともなコミュニケーション。といっても、たかがお互いに名乗り合っただけではあるが……それでも、やっと人間らしい意思疎通の第一歩が踏み出せたと、要は内心で少なからず安堵した。のだが、
「おう、よろしくな要」
言った少女が差し出した自分の手を握った瞬間、その握力の凄まじさに右手から電気でも走るように頭まで突き抜けた激痛で、要は思わずその場へ膝から崩れる。
鏡も無しに自覚できるほど、情けなく苦痛に歪めた涙目の顔を晒して。
それを見て、謎の少女から改め、狗牙巳咲と名乗った少女は、
何とも楽しそうな笑顔を浮かべ、道路に尻もちをつきそうになっている要をニヤニヤとしばらく見つめていた。