トコヨトウツシヨ (2)
わっと墨染めの空から大柄な人の形をした炎が無数に飛び掛かってきた時、要は思わず背を丸め、きつく目を閉じた。
当然の反応である。
巳咲が急に外へ出たのに釣られて参道まで来てみれば、
泥と死体でもこねたような異臭。
昼は夜へと変じ、眼前の大鳥居と石段以外のすべてが周囲から消えた。
そこに持ってきて、先ほどまではもぞもぞと蠢いていただけの泥の塊たちが、人の形をした炎となって頭上から飛来してきている。
これに対し、恐怖と混乱で目を閉じてしまう程度は可愛いものだ。
下手をすれば失神……せずとも、失禁ぐらいはしていておかしくはない。
それほどに非現実的な光景と状況が展開されていた。己が立ち場に置き換えて、もしそのような粗相をしていたとしても、誰にも咎める権利は無いだろう。
だが、要はそうはならなかった。
このことについては幸運と喜ぶべきか。
ただし、この幸運には加えて大きなおまけがある。
しばしして、ふと要が目を開くとそこには無事な姿の巳咲と栖、そして無論のこと自身も無事なままに立っていた。
この喜ばしくも大きなおまけの幸運は、正しく言えば幸運ではない。
それゆえ、おまけである。
巳咲と栖の無事を見て取り、要はほっとしつつも、そこではたと思って周囲を見回した。
今の今まで、降り注ぐように迫っていた炎の人形たちはどこへ消えたのかと。
しかしその理由は、それほどの時間を要さずに知れる。
巡らせたその目に入ってきたもの。それは、
暗い四方を柔らかく照らすように灯る点在した焚火。
に、見えた無数の人形をした炎だった。
赤く焼けた中心部を除き、全体を包んでいた炎は見ている間にも弱々しく鎮火してゆき、後に残るのは火に焼かれた人形の土。
これは何がどうしたものかと要が疑問を抱いた次の瞬間、
「しつっけぇんだよこの泥ダンゴがぁっ!」
昨夜も聞いた猛獣の如き巳咲の声に合わせ、何やら火の塊が自分の脇をかすめて飛んでゆくのを目にし、一度は弛緩した体がまたもや驚きのあまり立ち尽くしたまま妙な恰好で硬直する。
それでも先ほどとは違って事態に早くも慣れ始めた要は、炎が飛んできた方向へと視線を向けると、ひと目で自分が目を閉じている間に何が起きたのかを理解した。
朱色の大鳥居の前では次々に石段を跳ね上がってくる火炎人形を、巳咲は拳で、栖は祖霊殿から持ち出したもので両手が塞がっているためか、足蹴で地上に叩き落としている。
ただ、暗闇を舞うように朱袴をはためかせ、炎の傀儡を蹴り飛ばしてゆく栖の顔は、如何にも不愉快さを滲ませていた。
「……こう次から次ではいつまで経っても埒が明きませんね。それにしても、買ったばかりの靴……まだ何度も履いていないのに……」
なんとも忌々しそうに言いつつ、栖はなお飛び掛かってきた三体を軽々と屠る。
まだ空中にいる一体へ目掛け、まるで槍でも突き上げるような蹴りを突き込むと、そのままふわりと軸足の左足を入れ替わりに振り上げてまた一体。
そうして蹴り込んだ余勢で素早く屈みこむように着地するや、そこからほとんど高さを変えずに低空でとんぼを切り、手も着かず逆立ちでもしたかに見える奇妙な姿勢から、やにわに両足を鞭の如く振り回すと、残った一体だけでなく遅れて落下してきた二体をも弾き飛ばし、それぞれ三方に散らすと、手先たちは地面を滑ってしばらく燃え残った火をちらつかせただけで、すぐさま焦げた土くれと化し、地面に同化していった。
その間にもう栖は重力を感じさせない動きでもって、ひらりと音も立てずに右のつま先だけで地面へ着地している。
さりながら、その両足はとうに靴は燃え落ちて素足であった。
「ケチくせぇ文句なんぞ言ってんじゃねえよ! アタシなんざ昨日、上から下まで全部綺麗に焼き潰されちまったんだぞっ!」
そう喚きながら、巳咲のほうは地面に足を着け襲い掛かってきた五体の手先を相手している。
抱きつこうとでもするような、それでいて恐ろしく敏捷な動きの五体を相手にしながら、巳咲はそのさらに数倍も敏捷だった。
密集して一気に迫ってきた五体を腕二本、つまり拳ふたつだけで瞬きする間も無く文字通りに殴り飛ばす。
四散し、土煙を上げながら地面をどこまでも這い飛ぶ四体。残るは一体。
それは偶然か、鳥居に跳ね返って低く宙に浮いていたが、そこに体重を乗せて半回転し、振り回したハンマーを思わせる巳咲の、圧力すら目視させる重い拳が再び直撃した。
自分でも勢いを殺しきれず、踏み込んだ右足がくるぶし近くまで地に埋もれているだけでその破壊力は容易に想像できたが、それ以上に二撃目を喰らった手先が宙を飛びつつ砕け散る様子からもその凄まじさは見て取れる。
そんなふたりの様子を少し距離を空けて見ていた要は、つい今しがたまでの不安や恐怖はどこへやら、ひどく安易に安心していた。
他力本願にもほどがあるのは自分でも重々承知だが、巳咲と栖の力を見る限り、よほどのことでもなければ大丈夫なように思えたのである。
いくら精神的耐久力と回復力が人並み外れていても、気を休める間も無く続々と奇怪な出来事が続けば、さしもの要でも限界は知れた。
だからこそ、こうした自分ではどうにもし難い状況にあって頼りになる人間が側にいてくれるというのは大きい。
実際問題、これだけの状況に遭遇したら、普通の人間ならとうに気がふれている。
何故なら、
今の事態以上にこの先が予測すら出来ないからだ。
冷静になって考えれば分かるが、昼が夜になった事実は変わらない。
元に戻る保証も無い。
化物は巳咲と栖が軽くあしらっているが、数が減っているわけでもない。
つまるところ、何ひとつ改善も解決もしていないのである。
単に非常識なほど現在だけに偏って物事を見る要の特殊な性格ゆえに、事の深刻さをまともに感じていないが、それもいつまで続くかは分からない。
そして、
問題なのは要だけではないという点だ。
目先のことしか見えていない……というより見ていない要に対し、巳咲と栖は現状をより正確に把握している。
すなわち、絶望的であるという意味で。
実のところ、精神的には要などより巳咲や栖のほうが先に折れる危険性がこの状況では高いというのが現実だった。
その証拠に、尽きることなく湧いてくる手先を相手にしながら交わされるふたりの会話に余裕はもう無い。
「くそっ……やっぱ、いくら倒してもキリが無え……どうにか亡者を甦らせてる元凶を潰さねえと、いつかはこっちの体力が先に尽きちまう……」
「……その意見には賛成ですが……しかし果たしてその元凶を潰せるかどうか。そちらがまず問題のような気もしますがね……出来れば認めたくないところですが、この状況から察して、元凶は間違い無く……」
「……サバキ……か?」
「……それしか有り得ないでしょう」
「だが、それだとおかしいだろうよ。何で殺すしか能の無いサバキに、亡者を甦らせることが出来るってんだ?」
「そこは私もずっと疑問に思っていますが、でも現にこうして亡者が蘇ってきている以上、そうとしか考えようが無いと……」
と、そう言い止したところで栖は、不意に聞こえた声に刹那、動きを止める。
「……ヒト、フタ、ミ、ヨ、イツ、ム、ナナ、ヤ、ココノ、タリ……」
その声が何であるのか。その言葉が何を意味するのか。栖には分かっていた。
分かっていただけに、途切れずに襲い来る手先を相手にしながら、思わず咄嗟に動きを止めてしまったのである。
無論、ショックを受けつつも即座に立ち直り、相変わらず子供でもあしらうように手先たちを簡単に土へと還してはいたが。
とはいえ血の気が引き、平静を装うのも限度を超えたらしく、冷や汗が伝い落ちるその頬は、わずかに恐怖から引きつっていた。
「……どしたよ栖、テメェらしくもねえ。さすがにビビッたか?」
「……この……声を聞いて……怖気づかない人間がいるとでも……?」
「違ぇ無えわな……」
答えつつ、巳咲の頬にも汗が伝う。
思えば巳咲は声より先に、匂いでこの事実を知っていたのだろう。
そのため、あれほど取り乱していた。
いや、
今も取り乱している。
それを無理に押し殺し、自制しているだけだ。
「なるほど……肝の太い貴女が何故、歯を鳴らすほど怯えていたのかが今さら分かりました」
「……出来れば、今回ばかりはアタシの鼻も鈍っているんだと思いたいんだけどね……」
「それを言うなら、私も自分の勘と耳が鈍っているのだと思いたいですとも……今回だけは、心の底から……信じたくありませんとも……この聞こえてくる声、言葉……」
答える栖の声に合わせてか、また微かに風のような声が耳へと届く。
「……フルベ……ユラユラト、フルベ……」
再び聞き取り、
「……まさかサバキに布瑠の言が使えるはずはない……でも、この現状を思えば逆にそうでないと話がおかしくなってしまう……始めてですよ……こんなにも事実を認めたくないと、思ったことは……」
言った栖の唇は小刻みに震えている。
それを受け、巳咲は無言で相槌を打つ。
巳咲もまた始めてだった。
敵をここまで恐ろしいと思ったことも。
重ねて、
そんな漠然とした恐怖だけで、気を抜けば今にも自分の膝が……心が、折れてしまいそうになる感覚を味わうのも。




