クガトヒブセトイヌガミ (3)
始め、それは微かに何かが聞こえるようにだけ知覚された。
音が小さすぎたためでもあるし、意識がまだはっきりしていなかったせいでもある。
ぼんやりと目を開けてゆくと、まず飛び込んできたのは裸電球の淡くも強い光。
そこでようやく頭が動き出した。
ああ、自分は昨日、八頼町の八頼神社に来て、巳咲や栖や千華代に会って……と、
思い出した刹那、要はバネ仕掛けの人形のように上半身を跳ね起こす。
そうなってようやく気付く。聞こえていたのは何ということもない。外で雀たちが鳴いているのだ。
板壁越しに小さく聞こえてくる都会でも馴染みのある鳴き声に少しばかり気持ちは落ち着いたが、すでに受けてしまったショックは消しようも無いことを、要は自分の背中が寝汗にぐっしょりと濡れている感触で思い知らされた。
見ると、自分はきちんと布団で寝ている。
冷静に記憶を掘り起こすが、風呂で巳咲に抱きつかれて……まあ、巳咲にはそんな自覚は無いとは思うものの、要の立場からすればそうだったのである……からの記憶が綺麗に抜け落ちており、どういった流れで自分が布団に寝ているのか、皆目見当がつかなかった。
ただ想像はつく。
恐らくは巳咲に運ばれ、部屋まで来たのだろう。
風呂で自分を軽々と湯船に投げ込んだ巳咲の腕力を思えば、それが唯一の可能性であろうし、一番妥当な推測だ。
すると自然、裸だった自分を思い出し、恥ずかしさに顔が赤く染まってゆくのが分かる。
あの状態で意識を失ったということは当然ながら、裸の自分を巳咲は運んだはずで、そうなると栖にも自分の裸を見られた可能性は高い。
というより、ほぼ見られたと考えるべきだ。
布団の支度をしてから着替えを用意すると言っていた栖のその後の動きを想像すれば、その場にいなかったというのは逆に考えにくい。
思うと、なおさら要は顔に血が上ってゆくのを感じた。
顔が熱い。耳が熱い。うなじの辺りまでもが熱っぽく感じる。
ごく当たり前のことだが、要は男……主に同級生、クラスメイトの男子などに裸を見られるのには慣れているが、女子に裸を見られるのには慣れていない。
特に素っ裸、全裸、生まれたままの姿となると、男子にすら見せたことはそう何回とは無い。
あるにはあっても、プールの授業で水着に着替える際や、銭湯、温泉などへ行った時ぐらいのものである。
というか、もし慣れていたとしたら今までどれだけ特殊な生活を送ってきたのかと、他の疑問が湧いてきてしまう。
さておき、
要が慙愧に堪えない思いで身悶えしそうになっている事実には変わり無かった。
未だに産みの親と育ての親がどうのという重たい話が間に入っているせいでピンときていないが、巳咲や栖、それに千華代も、関係は複雑そうだが親戚であるのに違いは無いわけで、そうした考えからすると常識的には要の忸怩は極めて当然の反応であった。
親戚ならば今後も顔を合わせることも多いわけであろうし、しかも現在は顔を合わせっ放しの状態がいつまで続くかも分からない。
そうなると要の心情はこうなる。
(穴が合ったら入りたい)と。
いや、実際にはもうすでにそんな次元の感覚はとっくの昔に通り越し、(穴が無いなら自力で掘ってでも身を隠したい)とすら考えていた。
とはいえ、現実的にそれは不可能なのも分かっている。
持ってきた荷物は炎上焼失。スマートフォンは砕けて散った。
着てきた服は見渡した限り、この部屋の中には見当たらない。
この時点で要は詰んでいる。
たらればではあるが、もし脱衣所で脱いだ衣服が室内にあってくれれば、旅の恥は掻き捨てとばかりにそれを着て脇目も振らず遁走することも出来たかもしれない。
されど実際、服は無い。服の中に入れていたキーホルダーも財布も無い。無い無い尽くしだ。
かろうじて幸運と思えるのは、少なくとも服は着ているという点くらいか。
これも下手に考え過ぎると巳咲か栖、もしくはそのふたりに着せられたのだと改めて思ってしまい、目まで充血しそうになるが、そこを抑えて考えるなら、丸裸よりは身動きに不自由しないで済むだけマシとは思えた。
が、はたと考えてしまうこともある。
昨夜、参道で見た悪夢の如き光景が本当に悪夢だったのなら困りはしないものの、残念ながらそう都合の良い悪夢も無い。
何より感覚が鮮明過ぎる。
これほど記憶や知覚が明瞭な夢など有りはしないと自覚できるだけに、現実逃避の道も断たざるを得なかった。
そうなると自分の立場はさておいて、今現在とても尋常な状況ではないことぐらいは分かる。
だからこそ父……これも心情は複雑だが、千華代の話が真実だとすれば育ての父……は、自分をこんなところへ行くよう仕向けたわけで、そこの事情を考慮すると気軽には帰れそうもないとも思う。
ただし、自分がここへ来たから何がどうなるのかは、やはりさっぱり分からないが。
だとしても、無断で家路に着くわけにもいかない。せめて連絡を入れてからでなければ。
幸いと言うべきか、ここには固定電話があることを昨日、栖の口から聞いている。
下手に細かくその時のことを思い出すとぞっとしてしまうが、ともかく電話があるわけだから家に一旦連絡を入れて帰るのは無理ではない。
ではないのだが、
ここでさらに、要はふと気が付いた。
昨日の晩、風呂で気を失って以後の経緯はこの際あえて考えないこととして、自分は現在これこの通り服を着ている。
着せられたという表現が正しいのは分かっているが、そこもあえて忘れて、何にせよ服は着ているのだ。
しかし、
自分は一体、何を着ている?
思って、しばし馬鹿らしいほど単純な疑問に頭の中を占有された要は、今さらながらに自分の着ているものを確認し始めた。
起きた時にはもう上体を起こしていたので、上着はすぐ視界に入る。
見ると洋服ではない。和服……着物だ。しかも真っ白な。
途端、何とも嫌な気分になった。
着替えを用意してもらって文句を付けるのも悪いが、白装束など今の環境では悪趣味な冗談としか思えない。
見慣れているわけでは無いものの、白装束が想起させるのは棺桶に入った死人のイメージだ。月並みではあるが。
正直、楽しくは無いし、気持ちも悪い。
山の上の古い神社で死に装束を着せられて布団の中。
あとは枕元に守り刀でも置いてあれば完全に死人の扱いだ。
さりながら、
余談だが神道では死人を社へ置くことは有り得ない。
神道において死は(穢れ)であり、死者を社へ置いたり、運び込んだりするなどあろうはずもない。
単に要が神道についての知識をそれほど持ち合わせていなかっただけのことであり、どちらかといえば見慣れている仏式の葬儀と感覚が混同しているのである。
だとしても要が気分を害したのは紛う事の無い真実。
ここでは知識の正否を問うべきではないだろう。
そうしたわけで、
要はどうにも心地の悪い顔をしながら布団を出ることにした。
じっと布団の中にいても仕方も無いし、出来れば脱いだ服と、ここにあるらしき電話の所在を探ろうかと考えて。
と、急に恥ずかしさで麻痺していたものが明確になる。
寒い。震えるほどに。
季節柄もあるし、まして山の中。加えて時間は分からないが恐らくまだ朝も早い。
暖房の類は見当たらないうえ、薄く心許無い布団。服も家から着てきた物ならまだ暖かかろうが、今は白装束一枚……いや、正確に言うと中にもう一枚、襦袢を着せられていることに気が付いた。
そこからである。
少しく落ち着いた要は、めくれた布団の端に目を遣って、はたとした。
白装束だけかと思っていたが、よく見れば胸の下辺りから赤い布地が伸びている。
眼にも鮮やかな赤、緋、朱の布地。
布団の奥を覗けば、それは足元まで。足元までずっと。ずっと……。
時を経て、
そうは言っても、ほんの4、5分の時間だが、要が自分の姿を確認してからしばらく。
廊下をするすると滑るように歩んできたのは栖だった。
音も立てず、朝の静寂に身を包み、唯一、要の部屋の戸を開ける音だけを静かに立ててから、
「おはようございます」
一声を発して静寂を断ち切る。
「昨晩は立て込んでいたので夕餉もお出ししませんでしたから大層お腹もお空きになっているでしょう。朝餉の用意はもう出来ていますから早く起きて……」
言い掛けたところで、栖は様子のおかしさを察して言葉を変えた。
「……どうしました? 要さん。そんな頭の上から布団を被ったりして」
「……」
栖の問いにも要は無言であったが、布団のふくらみ方が不自然なことから栖には要がもう目を覚ましているのは分かっていた。
寝ている人間なら布団は横に伸びているはず。が、縦にふくらんだ布団はすなわち、中で上体を起こしているのを示しているからである。
それゆえに、
栖もまた無言で布団を掴む。
同時、有無を言わさず引き剥がした。
「答えてくれなければ何がどうしたのか分かりませんよ。それとも、急に口を利けなくなったんですか?」
相変わらず淡々とした口調で言う栖に、姿を露わにした要はただ、座り込んだまま両手で顔を覆っている。
「疲労は……どうやら取れていないようですね。匂いからして下手をすると昨日よりも疲れは増しているようにも感じる……思うようにお休みになれませんでしたか? やはり湯のぼせた後遺症が残って……」
「……何ですか……」
「は?」
突然、話しているのへ割り込むように声を上げた要の反応に、さしもの栖もわずかだが驚いた様子で、縮こまった要を見下ろした。
体のほうに動きは無い。先ほどからと同じように顔を両手で覆い、座り込んでいるだけ。
どこか妙なところがあるとすれば、
「……何なんですか、これ……」
声が微かに上擦っているように聞こえることぐらいであろうか。
「何なのか……と言われても、そんな漠然とした問われ方では私も答えようが……」
「……この……恰好は……何なんですか……」
「恰好……?」
再び中途で要が問いを差し込んでくる。
だが、そこまで聞いても栖は問われていることの意味がまるで理解出来なかった。
何故なら、栖からしてみればごく当たり前のこと。何故かを問われる理由すらも思いつかないほど常識的なことであったからである。
「何かと言われれば、白衣と朱袴ですけど……それが何か?」
「……だから……」
「?」
「何で……男の僕に巫女さんの服なんて着せるんですか……」
問い終え、気力も萎えたのか要はさらに深く身を屈める。
固く閉じた貝のように。
その様子を見つつ、栖はと言えば、
不思議そうに小首を傾げ、要を見つめ続けていた。




