ヤライトサバキ (9)
栖の言っていた通り、廊下の突き当たりにある板戸からはうっすらと湯気が漏れていた。
おかげで確かに迷うことは無かったが、不安が無かったわけでもない。
他人の家の風呂というのは変に気を遣う。
どのシャンプーが誰のやら、リンスは誰のやら、ボディソープは誰のやら。
ただ、そうした方向の気遣いは恐らく必要無いだろうとも要は感じていた。
まずこの僻地である。シャンプーやリンスがあるかすら疑わしい。あっても固形石鹸ぐらいしか置いていないのではとさえ思う。
とはいえ、
そこも具体的にはどの程度か計りかねるところがある。
ここ、八頼町に唯一存在する商店である氏子百貨店の品揃えがどれほどなのか。そこが推測できない以上、見てみるまでは何とも言えない。
思いつつ、要は突き当たった板戸を開けた。
途端、視界にうっすらと靄がかかる。
と言っても、そう大したものではない。言葉の通り、ほんのうっすらだ。
だが驚きはあった。
板戸を開けてすぐ風呂があるとはさすがに思っていなかったが、それでも申し訳程度の脱衣所があるくらいだろうと高を括っていたのである。
ところが、実際はそんな想像をはるかに超えていた。
広々とした脱衣所は目算でも十畳以上。自分が宛がわれた部屋より広い。
窓や棚、鏡といったものは何も無く、やはりここも裸電球がぶら下がっているだけ。
唯一、備えられているのは竹で編まれた大振りの籠。それがいくつも重ねて隅に置いてある。
何やらロッカーの無い銭湯のような雰囲気。だが細かいものが置いていない分、何をどうすればいいのかが一目瞭然なのは有り難い。
つまりは籠の中に服を入れて行けということだろう。
その分かりやすさに少しく安心して籠をひとつ取りに行くと、重なった籠ひとつひとつにタオルが入っているのを見てその用途を確信した。
と同時、ふと巡らせた視線の端に今、視界を覆っている靄の出所が映る。
これも板戸。ただしかなり大きい。
室内の板戸は一枚のみの場所ばかりだったが、ここは玄関と同じ左右二枚の造り。
出入り口自体も広く、その大きさから風呂の大きさを察するに相当な大きさの風呂ではと、変な期待をしたものだが、よく考えたらそんなことはどうでもいいかと考え直し、要はまず服を脱ぎ始めた。
しかし、いざ脱ごうという段になって思い出すことになったが、胸ポケットの中で砕けたスマートフォンの液晶が、袖から手を抜く際にチャリチャリと音を立て、そこでまた要は自分の置かれた状況を思い返して溜め息をつく。
スマートフォンはこの土地では圏外だから必要性など無いが、そのスマートフォンの充電器を入れていたボストンバッグが、それを含めたすべての荷物と一緒に焼失したことを改めて思い知らされる。
まあ、着替えは栖が用意してくれると言っていたのでひとまず任せるとしても、これで本当に手許へ残ったのは着ていた衣服とキーホルダー、あとは財布だけ。
まさしく着の身、着のまま。
旅慣れているわけでもなく、しかも始めての土地でこの状態になっては溜め息のひとつも出るのが普通だろう。
大体、望んでこうなったわけではないのだから。
さりとて悲観に暮れていても始まらない。
思って要は手早く厚着した衣服を脱ぐと籠の中へ収めていった。
そして先に取り上げておいたタオルをその上へ載せると、靄だけでなく眠気にも霞む目をこすりながら風呂場があると思しき二枚の板戸を一方、右手で開く。
瞬間、ぶわっと中から煽り立つように湯気が吹き付けてくる。
湯で温められ立ち上った木の香に鼻がくすぐられた。
ヒノキの香り。それも真新しく強い香りではない。
もう設置から数年は経過しているだろう仄かに鼻をくすぐる香り。
ヒノキ風呂の寿命は手入れが良くても一般に十年前後と言われているので、これは年季が入っている。
けれど、仄かでも香りと熱気が向かってくる方向は鼻と肌が正確に感じ取ってくれた。
そのため、濃い湯気に阻まれた視界にも関わらず、要は迷い無く風呂の位置まで歩を進めることができ、妙に安心した。
いや、安心した理由はそれだけというわけでもないが。
厚着をしていたとはいえ寒風の吹きすさぶ外に一日中。
そうでなくても小柄で体温保持が難しい要の、冷え切った体には湯気が籠もった風呂場の暖かさが、何より身も心も安堵させてくれる。
それに、
思った通りの広々とした風呂場。
ここも脱衣所と同じく十畳以上。
ただし端から端までは湯気で見えないものの、風呂の幅から明らかに脱衣所よりも大きい。
そこを踏まえれば二十畳前後。
そのうち三分の一ほどが浴槽。
ひと目見て、反射的に泳ぎたくなる大きさが心を躍らせた。
が、さすがに今日は疲労が勝ち過ぎている。
また、もし疲れが無かったとしても始めて入る親戚の家の風呂。泳ぎたいとは思っても本当に泳ぐほど要の精神年齢は低くない。
それに栖から先ほど言われた通り、今日ばかりは早く湯に浸かって早く休むのが今は何よりだろうと要自身も考えていた。
とうに睡魔は要の中で隙を窺っている。少しでも気を抜けば下手をするとその場に倒れ伏して寝息を立てるのではと危惧すら抱くほどに。
正直を言えば湯に入るのすら怖い。
風呂場の温かさだけでも意識は恍惚として遠のきそうになっているというのに、これで湯になど浸かって体の芯まで温まったら、本当にそのまま眠り込んで湯船の底に沈むのではと考えてしまう。
だけに、まだ睡魔を抑え込める力があるうち、早々に湯浴みを済ませて部屋に戻らればと切実に願うのである。
と、要はどうにか欠片ほどに残った精神力を掻き集め、湯船に向かう。
周囲をそれなりに見渡したが、やはりというかなんというか、シャワーや蛇口の類はどこにも見当たらない。
湯船の横へ目立たず置かれた湯桶と、石鹸箱らしきものが目につくだけ。
となると、ここでの風呂の手順は見えてくる。
湯桶で湯船から直接、湯を汲んで体を湿し、石鹸で髪と体を洗ってからまた湯桶で汲んだ湯で泡を落として湯船に浸かる。こういう工程だろう。
固形石鹸では体を洗うのはいいとして、髪はキシキシしそうで多少の抵抗は感じたが、こうしたことも「郷に入っては郷に従え」だと呑み込み、要はまず湯を浴びるため桶を取ろうと腰を屈めようとした。
しかし、
浴室も床面がすべて板敷だったため足が滑ろうとは思いもよらず、油断したところを急の睡魔に不意打ちされ、ずれた重心が引き摺られるように左足の裏と一緒に後方へと持っていかれ、前のめりに倒れ込む。
咄嗟、遠のいた意識は凄まじい速さで舞い戻ってきたが時すでに遅し。
要は顔面から無防備に床へ叩きつけられる。
と思ったのだが、
「おっと」
刹那、
ほとんど宙に浮くかという転び方をした要の体を、誰かの手が力強く支え、起きるはずの惨事を回避させた。
「危ねぇなあ……いくら板敷っつったって、受け身も取らねえでまともに素っ転んだりしたらケガすんぞテメェ」
感触からして、自分の胴回りを右手一本でぐるりと掴み、抱え込むように支える人物の声が耳へと入ってくる。
半ば覚醒した意識へ、それが誰であるかを知らせるには十分な声量で。
ゆえに、要の意識はより覚醒した。
顔が紅潮するのが分かる。頭に血が上るのが分かる。体が小刻みに震えるのが分かる。
そう。今、自分を抱えているのは間違えようも無く、
「……なんだ? 震えてんのかテメェ。だったらさっさと……」
自分に声を掛けているのは間違えようも無く、
「風呂ん中に入りゃいいだろがっ!」
叫ぶように一声が響くと同時、ふわりと宙に浮いた要の体は、短い放物線を描いて湯船に叩き込まれた。
大きな水飛沫を上げ、一旦は底まで沈んだ体が急速に浮き上がる。
反射的に空気を求めて顔を上げると、要は素早く、大きく、深呼吸をした。
さりながら、意識は再び遠のいてゆく。それも急速に。
何故なら自分が転ぶところを助け、抱え、湯船に投げ込んだ相手をはっきりと目にし、
それがやはり間違えようも無く、
「ったくよお、寒いんならチンタラしてねぇですぐ湯に浸かってあったまってろよチビ」
一糸まとわず仁王立ちでこちらを見つめる巳咲だと知ったために。




