ヤライトサバキ (8)
「今日は色々と大変でしたね。いえ、災難と言うべきでしょうか……ですが貴方の災難はとうの昔に始まっているのですから、今さら災難だと表現するのも適切さを欠くかも……」
ひとりで話して、ひとりで考え込んでいる栖を尻目に、要のほうは通された部屋の中をキョロキョロと見渡していた。
先ほど参道で目撃した信じ難い出来事から間もなく、手荷物ほぼすべてを一瞬で失ったショックがトドメとなり、呆然と立ち尽くしていたところへ栖が何やら話しかけてきて、半ば強引に手を引かれてここまで来たのまでは漠然と把握している。
ここ。どうやら母屋の一室らしき場所。ぼんやりはしていたが、自分が歩み進んでいる方向の感覚くらいはかろうじて把握していたため、ある程度の察しはついた。
恐らく栖が自分に語りかけてきた内容も、「用も済んだし母屋に行きましょう」とかそういう類の言葉だったのだろう。まあ、あくまで推測でしかないが。
部屋は広さ六畳ほど。と言っても板間なので正確なところは分からない。
家具と呼べるものは何も無く、ただ天井からひとつ裸電球がぶら下がっているのみ。
他に置いてあるものといえば、部屋の隅へ小さく畳まれた布団が一組。それに要と栖が座っている座布団が二枚と、同じく部屋の隅に積まれた在庫の座布団があと四枚。これきりである。
ここもやはり本殿の千華代がいた部屋と同じく、出入り口以外には窓すら無い。
どうにも生活感以前の問題として、居住空間としての快適さを求めようという姿勢が完全に欠落したその造りに、要はつくづく自分が都会での生活に適応している事実を思い、軽い溜め息を吐いた。
と、その瞬間、
「聞いているんですか要さん!」
明らかに意図して発したのが分かる栖の大声に、要は座ったまま小さく体を跳ね、すぐさま栖のほうへ視線を向ける。
「あ、ご……ごめんなさい。よく聞いてませんでした……」
素直にそう言ったものだが、栖は普通にしている時でさえ冷たい印象の表情をさらに強めて、まるで凍死でもさせるつもりかと思うような極寒の双眸で要を睨み据えた。
当然、要は体感温度がマイナス10度以下まで低下したが、こうした手合いの寒さは逆に汗をかかせるのだから不思議なものだ。
もちろん、それは冷や汗であるが。
「……いいですか? 先ほどの参道での出来事でもうお分かりとは思いますが、すでにサバキはこの土地にまで来ています。もっとも、参道に現れたのは単に奴の手先でしかありませんでしたが、少なくとも本殿から貴方が出てきたのは確認したはず。とすれば、サバキは貴方の存在を知ったものと考えるべきでしょう。ここまではひとまず予測の範囲ですが、とはいえ貴方がそうも無警戒では守るこちらも気が気ではありません。それなりの自覚をもって、気を引き締めていただかないと困ります」
「……でも……僕が気をつけたからって、どうにかなることなんですか……?」
おずおずと自信無く要は反論したが、実際これは正論。
本殿を出たら炎の巨人がいました。気をつけて下さい。
それでどうなると?
気の持ちようでどうにかなる範囲のことではどう考えても無い。
対策の立てられないことに注意したところで何がどうなるというのか。
しかし、
「そういう弱気さが何より問題なんです。繰り言のようですが、貴方は腐っても八頼。気持ちで負けていては勝てるものでも勝てなくなりますよ」
「……」
理屈は無視され、さらに怒られる。
見た目の印象や口調などからは、もっと知性的なタイプに見えたのだが、やはり栖も雰囲気が違うだけで本質は巳咲とさほど変わらないらしい。
思うと自然、落胆も手伝ってまた溜め息が漏れた。
「……ですが」
とはいえ、
「貴方も今日は疲労が大きいでしょうから、仕方がない部分もあると認めましょう。連絡してからこちらへ来るまでの時間を考えるに、まず一睡もしていないうえ、急に知らなかった自身の身の上話を聞かされたわけですからね。肉体的にも精神的にも相当に参っているというのは察します……」
それでもまったく無理解だったわけではなかったらしく、栖も一応の気遣いを見せてくれた。
「まあ、ここは八頼の土地。如何にサバキでもそう好き勝手は出来ません。とりあえず貴方は今日のところはゆっくり休み、落ち着いたところで今後の話をすることにしましょう」
「あ……じゃあ、もう今日は……」
「休んでいただいて結構ですよ」
言われて、要は危うくそのまま床へ倒れ込みそうになる。
気が抜けたせいで蓄積していた疲労が、どっと押し寄せ、あわや気を失うかと思った。
「想像以上にふらふらのようですね……」
「……す、すみません……」
同情は期待していなかったが、あからさまな呆れ声でこう言われたもので、抜けかけていた気が悪い意味で少し戻ってくる。
いっそ本当に気絶していたほうが楽だったのではないかと思い、要は三度、溜め息をつく。
「それじゃ……失礼して今日は……眠らせていただきます……」
力無く言いつつ、要は這いずるようにして部屋の隅に置かれた布団へと向かった。
ところが、
「何をしているんですか? 要さん」
「……は?」
急に呼ばれ、ぼんやりしながら振り返る。
見ると、何故だか栖が不思議そうな顔をして自分を見ていたが、要からすれば自分こそ不思議な顔をしたいと思った。
さあ、これから寝ようというので布団を敷こうとしただけなのに、どうしてこんな顔をされるのやらと。
だが、続いて同じく不思議そうな顔を浮かべようとした要に、栖は言葉を継ぐ。
「まさかとは思いますが要さん、貴方このまま寝るおつもりだったんですか?」
「えっ、な……何か僕、変なことしました……?」
「変と言いますか……常識に欠けると言うべきでしょうか」
「え、え……?」
「少し考えてみてください。貴方は今日、一日がかりでこちらまでいらしたわけです。ということはその体は旅の垢と埃で汚れきっている。そんな状態で布団に入ったら布団が汚れるのではくらいのことは頭に浮かびませんでしたか?」
言っていることは道理なのだが、むしろ要はそんな道理を今さら言ってくる栖の非常識に眉をひそめた。
理屈が通らないと思えば理屈を説き、話はするが話は聞かない。
この時系列のおかしさと、会話の絶望的なズレは、栖の思考に異常があるのか、それとも疲労のために夢と現実の境界が曖昧になっているのか、もはや要は考える力も残っていなかった。
それでも唯一の救いは、
「さ、布団くらい私が整えておきます。貴方は湯殿で垢と埃を落としてきてください」
「は? 湯……湯殿……?」
「部屋を出て廊下を右。突き当りが湯殿です。今日はこの寒さ。板戸の隙間から湯気が漏れているでしょうから、すぐ分かりますよ」
「や……で、でも僕、さっきの騒ぎで荷物と一緒に着替えも……」
要がそこまで言うと、栖は黙って押さえるように手を突き出し、口を止めさせてからゆっくりとうなずいて、
「その点、ご懸念は無用です。着替えはこちらで用意しておきます。とにかく、貴方は旅の垢を落とすことだけお考えなさい」
有無を言わさない……というよりも、取り付く島も無い栖の言葉と動き。
ただでさえ気力の萎えた要はついに精根が尽き果てたか、半ば夢遊病者のように立ち上がり、聞かされたままに部屋を出た。
「布団の用意を終えたら着替えを見繕ってゆきます。急かすわけではありませんが、もう夜も遅いこと。早く湯に浸かって、早く休まれることをお勧めしますよ」
「……はい……」
気も無く、何を言われたのかを考えるにも頭は動かず、ただ脊髄反射的に返事をすると、要は背を丸め、がっくりと肩を落とし、廊下を進む。
暗く、長い廊下をふらふらと歩きつつ、要はこのとてつもない疲れが一晩の睡眠で癒されるとは到底思えず、
(下手をするとお風呂に浸かりながら寝ちゃうかも……)と感じ、遠のく意識に抗えず、湯船に沈んで溺れかける自分の姿を想像していた。
 




