ヤライトサバキ (5)
驚きが強すぎると人間というのは思ったことをついつい口から漏らしてしまうものである。
当人は意識せずとも。自然と、熱された貝が開くようにして。
「……子供……?」
それが、要がようやく姿を直に見た千華代に対する印象であり、言葉だった。
が、次の瞬間、
「慮外者!」
薄闇を切り裂くような大喝が室内へ響く。
声の主は言わずもがな、栖である。そして言われたのは要。さらに、栖の叱責はそれだけでは収まらなかった。
「貴方という人は……千華代様への無礼な言動や振る舞いは厳に慎みなさいと、あれほど言って聞かせておいたというのに……!」
この様子と言葉で、要は矢継ぎ早に二度の驚愕を体験することになったが、どちらのショックがより強かったかは、これまた言うまでもないだろう。
確かに強烈な叱責と、それに見合う恐ろしい形相をした栖にも肝は冷やしたが、まさかこれまで栖に聞かされてきた千華代の人物像からは、よもやこの姿は予想できなかったため、驚きの度合いがまるで違った。
八頼の歴史をもっとも古くから知る人物。八頼の関係者の中でもっとも高位にある人物。
そんな相手が……子供?
思ったことをつい漏らしてしまった要の非は置いておいて、その心中は察して余りある。
しかしそうした要の思いとは関係無く、話は進行していった。
「いいですか、繰り返しますがこのお方は八頼守護の三家筆頭、火伏家の当主であられる火伏千華代様です! 本来ならば私や貴方の如き身分の者が直接にそのお姿を見るなど許されない立場のお方であって……」
今まで無感情なほど冷静に見えていた栖が、怒りで顔を紅潮させてなお叫ぶ。
ところが、その激昂に満ちた台詞も半ばで、
「……栖よ……」
また静かな、落ち着いた声が制止する。栖を制止できる人物の声が。つまりは千華代の声。
「そう責めるものではない。要はまだ若輩。しかも何ひとつ事情を知らぬ身ぞ。この程度のことも宥恕できぬでは、逆に目上としての器量が問われるとは思わぬか?」
「……いえ、しかしそれは……ですが……」
「それにの……栖、そなたは大切なことを忘れておる」
「……は?」
「要が八頼の血統を復活させれば、要は名実ともに八頼本家の当主となる。その時、首を垂れるのはむしろ吾のほうであろう」
「……」
こう千華代が話したのを聞き、栖は押し黙ってしまった。
姿こそ年端もいかぬ少女にしか見えないが、身に纏う空気と、言の重さに圧倒され、言い返しようも無いといった風である。
「ともかく、要には吾が直にすべてを話す。そなたは大人しく、そこで控えておれ」
「……承知を……いたしました……」
明らかに不満を噛み殺すように、栖は答えた。そして、
「では、改めて話をするとしようかの。要、少々長い話じゃ。そう……そなたの生い立ちよりなお昔……気の遠くなる昔話。心して聞くがよい」
そう前置きし、千華代のまさしく長い、長い昔語りは始まった。
「そなたもまだ若いとはいえ、神道についての知識はそれなりに持ち合わせておろう?」
「あ……え、まあ、日本史の授業は受けてるので、古事記や日本書紀に載っている程度のことならそこそこには……」
「それでよい。あまり書物に頼った知識が多すぎても、それはそれで真実を知る妨げになろうからな」
「……真実?」
「過去を知るに、書物はまったく重宝ではあるが、問題も多い。書き手の主観が入ってしまうからのう。ゆえに必ずしも書かれているものが真実とは限らん。そういう意味でも、先入観に囚われぬ程度の知識に抑えておるがよいのじゃ」
「そういう……ものですか……」
「ところでそなた、古事記や日本書紀程度になら目を通しておるとなれば、神道における天地開闢についてくらいは知っておろうな?」
「え、えーと……確か始めに神々の生まれる場所である高天原があって、そこからいろいろな神様が生まれてとか……」
「天地の始まりじゃな。まあその辺りの細かいことは気にせんでもよい。大切なのはこの時、膨大な数の神……よく八百万の神などと言うが、実際に八百万もの神が生まれたとして、その名がすべて後世に語り継がれておると思うかえ?」
「い……や、さあ……?」
「無論、本当に八百万もの神がいたかどうかは疑わしい。元々、八百万という言葉そのものが単に『数えきれないほどの数』を表していただけのことを考えれば、数の正確さは特別に問題ではない。大切なのは、数えきれないほどの数の神がいたとしたなら、後世まで語り継がれること無く忘れ去られた神がいてもおかしくはない。吾の申したいことはそういうことじゃ」
「はあ……」
「そこで、出てくるのが二柱の神の名じゃ。恐らく栖のこと、この辺りのことはすでにある程度は話しておろうが、古代の神を知るに必要な書物は古事記か日本書紀のふたつにほぼ限られる。じゃがその双方が中国より漢字が伝来して後のもの。例えばこれらを書き記した者たちが知らぬ、または忘れ去ってしまった神々はどうなると思う?」
「は?」
「考えるまでもなかろう。消え去るのみじゃ。人々の記憶からな。じゃが記憶が消えたとて、神が消え去るわけではない。だからこそ、サバキは今も存在し続けておるのじゃよ……」
「……サバキ……」
またしてもこの名が語られる。要に不思議な既視感を感じさせながら。
「しかし……忘れ去られたという言い方が正しいかは少しばかり疑わしいやもしれぬ。何せ、サバキは吾らが主家、八頼が……いや、八頼の家が連綿と引き継いできた神の力……ヤライの力をもって戦い続けてきた怨敵じゃ。少なくとも八頼に所縁の者なら知らぬということはあるまいて。まったく……この辺りは今となってはどちらが後やら先やら分からぬがな……」
言って千華代は苦笑したが、もはやそんな時間すら惜しいと、要は耐えきれずに声を上げた。
ヤライとサバキ。何のことなのか。話の流れからすれば古い神の名であろうことまでは察せたが、そこまでが限界。これより先はもう直接に聞くより他は無い。それゆえの発作的な質問。
「あ、あの!」
「なんじゃ?」
「……こっちに来てから、ずっと疑問だったんです……なんか、自分は神様の親戚だとか、しかも他の変な神様と敵対してるとか……話が突飛すぎて、訳が分からなくて……」
「そなたが八頼で、サバキは敵……と?」
「そうです。ただ漠然とそうだって言われただけで……僕、何が何やら……」
言い切らぬうち、というよりどう言い終えれば良いかが分からず要はうつむいて沈黙する。
と、千華代はそんな要を見て再び語り出した。ひどく突然に、何やら思い出話でもするかのようにして。
「……その昔、ヤライという山の神がおわした。古来からの言い伝え通り、山の神であるヤライは女の神じゃった。ゆえに信仰の対象となった山には女子が入ることは固く禁じられ、樵や狩人の守り神として長く畏れ敬われていた。しかし……」
「……?」
「ある時、ひとりの狩人が焚火を消し忘れて山火事を起こしかけるということがあった。これにヤライは烈火の如く怒り、近隣の人間たちをすべて焼き殺そうとしたが、人間たちは先手を打ってこの怒りを鎮めることに成功した。何とも人間らしい知恵でな……」
「鎮めたって……怒りを、どうやって……?」
「古来から神の怒りを鎮めるにもっとも多く使われてきた手じゃよ。はっきり言ってしまえば贄。それも生きたな。つまりは生贄じゃ」
「……!」
「そう驚くことではない。神の力を借りたり、怒りを鎮めたりするのにこれほどよく使われた手は無い。珍しくもない話よ」
「で、でも……生贄ってことは、その……捧げられた人って……」
「本来ならば殺す。神への捧げものとして。しかしこの土地の人間たちは存外の知恵者でな。より良い方法でヤライの機嫌を取りおった」
「より……良い?」
「言った通り、ヤライは山の神。山の神は女だと昔から決まっておる。そこで用意した生贄というのが、近隣でも評判の見場良い男子でな。当世風の言い回しなら紅顔の美少年とでも言うべき……そう、ちょうどそなたのような男子であったらしい。常ならば祭事をおこない、その後に生贄は刃にかけられるものであるのじゃが、あえてそうはせなんだ。何故だか分かるかの?」
「……さあ……」
「察しておるのに言わぬのか、それとも本当に察しておらぬのか分からぬな……まあよい。ともかく生贄とされた男子は殺されるでもなく、ただ山深くへと取り残された。その後に何があったのかを知るのはヤライとその男子のみ。まあ、一年して山から帰ってきた男子は何があったか頑なに言わなんだそうじゃから、もはやヤライしか真実を知らぬことになるがのう」
「えっ、その男の子って戻ってきたんですか!」
「ああ、無事にな。いや、無事というわけではないか……何せその男子、帰ってきた時にはすっかり以前とは人が変わっていたらしいからの」
「変わってって……どういう風に……?」
「そこは話の順を考えてこの後に話そう。ともかく、帰ってきた男子は山の近隣に住む者たちすべてから『生き神』として祀り上げられたことは確かじゃ。その証拠に、この土地には八頼の家が今も残っておる」
「……え?」
「分からぬか? つまりその時、生贄としてヤライに捧げられた男子が今の八頼家を起こした初代なんじゃよ」
こう答えられて思わず要は、ああ、と感嘆にも似た声を出して納得した。八頼という家の成り立ちについて。
ただし、その感嘆も次の瞬間に継がれた千華代の言葉で吹き飛ぶこととなったが。
「といっても、八頼という家名となったのはそれから随分と後じゃ。ヤライに捧げられ、無事に山から一年して戻ってきた男子はそれからすぐに子を産んだ。言い伝えからすれば、正しくは八頼の起こりはその男子が産んだ赤子じゃ」
「……は?」
「土地の人間たちはこぞって、その赤子をヤライの申し子と祀り上げ、かくしてこの赤子からの血筋はすべてヤライと呼ばれるようになった……」
「あ、や、いやいやいや、ちょっと待って! 途中で何か話がおかしくなってますよ!」
「……何がじゃ?」
「何がも何も……その、捧げられて帰ってきたのって男の子だったんでしょ? なんで子供を産んだなんて話になるんですか。どこかで登場人物が混ざっちゃってませんか?」
「いや、何も間違ってはおらん。赤子を生んだのは男子じゃ。ゆえにこそ『生き神』と崇められたんじゃろうよ。そなたの言う通り、男子が子を産むなど有り得ぬ。が、そのあり得ぬことが起きたからこそ人々は畏怖し、同時に敬ったのじゃろう。ヤライと、その寵愛を受けた男子をな。その証拠に人々は自分たちが住む土地の名にすらヤライの名を当てた。絶対的な信仰と服従の意を示した格好と言えなくもないのう」
この話を聞き、要は先ほど感じた納得もどこへやら、一気に頭の中が疑念に埋まった。
やはり民間伝承などこの程度かと。所詮は昔話。歴史というより寓話として聞くのが正しい姿勢かもと、変に冷静な気分になる。
だが、そんな要の心境変化など気にも留めず、千華代の語りは続く。
「付け加えると……というより、ここがもっとも重要な部分でもあるのじゃが、ヤライと呼ばれ奉られた赤子は女子じゃった。そしてそれ以後も、ヤライと呼ばれる一族からは女子しか生まれることはなかった。今に至るまで、な」
「え……ひ、ひとりも……ですか?」
「まさしく。それゆえ八頼の家も、その分家に当たる吾の火伏家、それに犬神家、狗牙家もまた女子しか生まれたことはない。女系家族などという生易しいものではない。八頼の血を継ぐ者からは決して男子は生まれぬのじゃ」
「それはまた……分家も含めてってなると、すごい確率ですね……」
正直、すでに実感や思考を伴わない反射的な回答しか要はできなくなっていた。
真面目に取り合うべきなのか、距離を置いて関わるべきなのか、どうにも分からなくなってきていたからである。
さりながら、こんな荒唐無稽な昔話を聞かされつつも要は、何か奇妙な実感をも心のどこかで感じていた。
信じ難い話。有り得ない話。そんな話の中に。
そして、それを知ってか知らずか、どこか呆けた様の要を見つめながら微笑を浮かべ、千華代はさらに口を開く。
「さて……では八頼に関する話はここでひとまず置き、そろそろサバキについて語るとしようかの。八頼を語るに当たり、サバキのことは避けて通れぬことゆえな……」
 




