プロローグ (1)
「……てなわけで、ここらみたいに大きな神社を中心にして出来た町のことを昔から鳥居前町なんて呼んでたんだよ。とはいえ、今じゃあ町なんて呼べるほどの住人も活気も、残ってやしないんだけどねえ……」
「……はあ……」
狭い室内。響く老人の声。そこへ打たれる無気力な相槌。
そんなことがすでに何度も繰り返し、繰り返し、繰り返し……。
「何せ、元々から僻地も僻地だ。いや、仮にも自分が住んでる土地を悪く言うつもりは無いんだけどね。いかんせん道路事情がひどすぎるよ。これじゃあ寂れてくださいって言ってるようなもんだと常々、思っちゃあいたが、それが案の定でこの体たらくさ。まったく、税収が無いから道路が作れないなんて理屈をこねてるから、その不便が元で人が出ていっちまう。するとさらに税収は減る。完全な悪循環。大体、町議会の連中ももっと市のほうに働きかけりゃいいものを、ほんとに無能なやつばかりで……」
「……」
ついに相槌すら消える。
こうなると、もはや会話として成立していない。
俗に会話のことを言葉のキャッチボールなどと表現するが、例えるならこれはもう敬遠。
もしくは無人の打席に球を投げ込み続けるピッチングマシーンだろうか。
と、本質の説明を省いた現状の例え話はさておいて。
そこは本来、道を尋ねるためだけに寄ったはずの小さな駅に隣接する小さな駐在所。
用件はシンプル。目的地への道順を聞こうとしただけ。こじれる理由はこれっぱかりも無い。
だからまさか、ここまで無駄な時間を浪費することになろうとは、当事者にとってはまさしく思いもしない不幸であったと言えよう。
そう、きっかけは見た目だけならとうにを定年を迎えているような、好々爺という表現がしっくりとくる小柄な警察官がひとりきりの駐在所に首を突っ込んだこと。
それが起こり。
以降、ただ道を聞こうとしていただけのはずが、老警官の繰り出してくる見当違いな話題に、それでもまあ、ひとりきりで寂しそうな老人を無下に扱えるほど冷淡にもなれきれず、生返事と軽いうなずきで話に極力、付き合い続けているのは、これまた件の老警官よりさらに小柄な少年であった。
「それにしても、こんな何も無いところへ若い女の子が一人旅かい? 私も随分と長くここで務めてるが、旅行者なんかを見たのは始めてかもしれないよ」
「……えーと、あの……僕、男だってさっき言ったと思うんですけど……?」
「ん? ああ、こりゃ申し訳ない。いやいや、聞いた聞いた。聞いたんだが……はー、聞いて分かっていても、どうにも勘違いをしちまって……」
そう言って、自然に警帽を取るや自嘲気味に笑いつつ白髪頭を掻く老警官へ、少年のほうは先ほどからずっと浮かべ続けている困惑した表情をさらに歪め、澱んだ空気でも漏らすようにして音も無く、薄い溜め息を吐く。
こうしたやり取りが、もうなんだかんだで小一時間。
見知らぬ土地。見知らぬ町。見知らぬ駅。
負の三拍子が見事に揃ったこのやり取り。
少年の抱いた不本意の大きさたるや、無関係の第三者視点からしても察するに余りあるものがあっただろう。
無論、これもそこに第三者がいたなら、という仮定に過ぎない事実であることもまた言うまでもないことなのだが。
「……あー、すみませんが僕……そろそろ行かないと……」
ここで忍耐の限界。
少年の同情心が、自らの苛立ちに屈した。
すると、老警官はやにわに自分の頭を手でぽん、と叩くや、
「おっと、いかんいかん。また悪い癖だ。すぐ話が横に逸れちまって……八頼さんのお宅だったね。それならこの前の道を真っ直ぐ、道の先にある山に向かって進めば、女の子の足でも2時間くらいだ。途中の細かい道には入っちゃあいけないよ。とにかく真っ直ぐに、真っ直ぐに。そして山にぶつかると、山の上の八頼神社へ向かう山道が一本、通ってる。そこの境内に八頼さんのお宅もある。距離はあるが、普通に向かえば迷うようなことは無いから、日のあるうちには着けるはずだよ」
今までの無駄話は何だったのか。虚しさすら覚える流暢さで一気に本題の答えを言い終えた老警官は、何故だかどこか得意そうな顔をして少年を見たが、
「そう……ですか」
一言、少年はつぶやくように口を動かすと、(女の子の足でも)という部分についての反論も無く、ふいと小さく頭を下げると床へ置いていたボストンバッグを拾い上げ、礼の言葉も言わずにそそくさと駐在所を後にした。
振り返りもせず、ポケットからスマートフォンを取り出し、時間を確認しながら。
ほっとしたのと、疲れたのと、両方の意味を兼ねた再びの溜め息を吐き、また見知らぬ駅の前へと歩を進めて。
さて、
ここで遅ればせながら、この少年の氏素性などを少々、明らかにすることとしよう。
彼の名は水朱要。当年とって十五歳になる都内在住の中学三年生である。
第二次性徴を何故にかしくじり、主に身体面での男性的特徴を発現させることが出来なかったのへ加え、成長期に驚くほど成長しなかったゆえの低身長と華奢な体格。
中性的を通り越し、もはや同年代の女子たちとも見間違われるその外見。
丸く小さく、形の良い輪郭へ綺麗に収まった大きな両の眼。小ぶりな鼻。やや肉感的な桜色の唇。髪こそそれなりに短くしてはいるが、これも他の要素と総合すれば単に(ボーイッシュな雰囲気の女の子)という印象を与える程度であり、実際に今までも何度となく女子と間違われる経験を積み重ねてきた。
小学校へ上がった時、自己紹介で担任を含むクラスメイト全員からその性別を完全に誤解されてしまい、当たり前のように席を女子の順に組み込まれてしまったり、中学校に上がってからは制服姿のおかげで基本、間違われることは無くなったものの、代わりに私服姿で満員の電車へ乗った際、痴漢被害に遭うという冗談にもならない体験を、しかも一度や二度でなく、現在までで軽く二桁を超えるほど味わっている点からいうと、経験の性質自体はむしろ小学生時代より悪化していたりと、なんとも不必要に濃密な人生経験をしていたりする。
ともあれ、そうしたこれまでの地元における日常はさておいて、要は再度、駅前へ出ると辺りをキョロキョロと見渡し、老警官が説明していた広く長い道の先にある山を見遣るや、今度はまた手に取ったスマートフォンへと目を向け、
「……にしても、すごいなあ。予想はしてたけど、ほんとに圏外だ……」
液晶に小さく表示された(圏外)の二文字を見つめて、思わず頭で考えたことをそのまま声に出す。
最近ではどれほどひどい過疎地でも基地局のひとつふたつは設置されていようものだか、事前に仕入れていたこの土地の情報から、ここはそうした条件からも除外されかねない場所だと、要は半ば確信に近い推察をしていたのである。
では、そこはどこか。
今どき携帯電話の基地局すら無い土地とは?
そこは、住み慣れた我が家のある東京を出発し、乗り継ぎの面倒を繰り返すこと四回。電車に揺られていた時間よりも、それ以外でかかった時間のほうが長かったのではと錯覚する旅の末に辿り着いた先。
地図で探すにもルーペを必要とする矮小さ。カーナビでその場所を特定することは可能だが、ルート検索をしても道そのものが見つからないという筋金入りの田舎町。
八握火市 八頼町。
周辺を大小の山々に囲まれ、風光明媚なこの土地は、もっとも近い都市へ向かうにもまともな連絡道路が近隣には存在せず、唯一の交通手段である八頼駅から出る一日わずか二本の電車を使う以外に他は無いという、まさに陸の孤島。
そしてその八頼駅の前に今、要は立っていた。
横を見れば駅に隣接した駐在所がひとつ。そこが先ほどまで不本意な長居をしていた場所。
さらに申し訳程度の郵便局が隣にひとつ。駅前に限れば、他は清々しいほど何も無し。
そこから駅の正面にそびえる山へと通じる目抜き通り……というより、他に道らしき道が無いだけのことなのだが……に沿って、点々と民家が立ち並んでいる。
そういった具合で、ひとまず向かう先が確認できたことで気分も落ち着いたか、要はわずかな着替えなどの手荷物を入れた軽いボストンバッグを持ち直すと、ゆっくりした足取りで老警官に指示された目抜き通りを歩き始めた。
何にしても、目的地に辿り着かなければ話が始まらない。
それだけはここへ来た経緯からはっきりしていたため、少々の疑問や不便は無視し、かといって決して乗り気とは言えない足を進めてゆく。
ただし、
多少では済まない疑問や不便、そういったものから来る不安が無いわけではない。
見渡した限り、自動販売機ひとつ見当たらないこの長い道を進みつつ、
「でも……」
また無意識に声を漏らし、
「……GPSの機能まで使えなくなってるのは、何でだろ……?」
言って、要は不思議そうに手の中のスマートフォンを覗いた。
GPSのアプリケーションで現在地を検索したところ、結果は滅茶苦茶な地図と地名の表示。
衛星の位置によってはこういう不具合は起こり得ないことではないものの、見知らぬ土地でのこうした重なる不便は大きく人に不安を抱かせるものだ。
で、あるが、
やるべきことは決まっている。行くべき場所は決まっている。
その点に関して、要は往生際の良い性格をしていた。
疑問もあれば不安もあるが、自分がやれと言われたことはとりあえずこなす。
物分かりが良いのか、もしくは多分に楽観的な性格ゆえか。
そこもまた理由は様々であろうが、何にしても結果は同じ。
動き出した物事は結果に至るまで止まることは無い。
かくして、
この時点ではまだ自分がさほど変わった立場にあるとは思っていない要が、これから体験することとなる奇怪なお話は、まさしく今、始まったばかりである。