三人の知らない本のこと
一瞬の静寂が訪れた図書室で、立ち上がっていた玄吾は落ち着きを取り戻し、周囲の状況を確認すると、顔を赤くして静かに座った。
そして、乃木斗が差し出しているノートの、指さしている部分を注目した。
「えっと……、あれ、何でこんなこと書いてるんだろう。書いている間は何も不思議に思わなかったな」
「自分で書いてておかしいと思わなかったのかよ」
「なんか、ごく自然に思ったことを書いてたから、そんなことまで考えてなかったな」
「いやいや、ごく自然には思いつかないから。話自体は想像ついても、書き方なんて読んだことない人のことが分かるわけないじゃないか」
「たしかにそうなんだけど……」
うーむ、と玄吾は自分の感想文をもう一度読み返す。書いた後に考えれば、何故こんなことが書けたのだろうと不思議に思うばかりだ。
乃木斗も同じく考え込んでいたが、夢月が身を乗り出して声を挙げた。
「ねえ、これって、玉口君だけにしかできないのかな」
「え、どういうこと?」
夢月の言ったことの意図が分からず、乃木斗は思わず夢月に尋ねた。
「私も王里君も、読書感想文って結構すらすら書けてたよね。もしかしたら、私と王里君も、玉口君みたいに読んだことがない本の感想文が書けるんじゃない?」
「いやいや、さすがに無理だろう。単にゲンゴにそういう才能があるってだけかもしれないだろ? いろいろ不審な点はあるけど」
「じゃあ、同じように試してみようよ。三人が読んだことがない本を探して、中身を見ないで読書感想文を書くの」
「いやいや、いくらなんでもそれは……」
乃木斗が言いかけた時、玄吾が落とした本を手に取ってページをめくりながら言葉をはさんだ。
「面白いね。これで全員読書感想文が書けたら、別に僕だけ変じゃないってことだから」
「いやいや、変なのはさすがに解決しようよ」
「それはともかく、一度やってみようよ」
「いや……まあ、いいや」
「よし、じゃあ本を探しに行こうか」
玄吾が立ち上がって本棚に向かうと、夢月と乃木斗も後に続いた。
三人は先ほどと同じく、小説の本棚から適当そうな本を探す。別に伝記やエッセイなどでもよさそうなのだが、何故か小説にこだわっていた。
「えっと、玉口君は恋愛小説をあんまり読まないんだよね。王里君は?」
「俺は、特に苦手ジャンルは無いかな。推理物とか純文学とかはあんまり好きじゃないけど」
「純文学、か。玉口君は、純文学はどう?」
夢月は、隣の本棚を探している玄吾に言った。
「純文学ねえ。いくつかは読んだことあるけど、図書室にあるのは一つも読んだことはないかな」
「そう? だったら」
そう言うと、夢月は一冊の本を取り出した。
「これなんてどう? 『泉の宝石箱』。一度読んでみたかったんだ」
「ん、どれどれ。面白そうだけど、読んでみたかったってことは、ある程度話を知ってるってことじゃない?」
「あ、そうか。どうしよう」
「よくよく考えたら、僕たちの中の一人が決めたら、選んだ人が本当に読んだことが無いかわからないよね」
「ということは、他の人に決めてもらわないといけないってこと?」
「そういうことになるかな」
玄吾と夢月は本棚から本を探すのをやめ、誰か適当な人がいないかとあたりをきょろきょろと見回した。
「だったら、司書の先生に聞いたらいいんじゃない? あまり知られてないけどおすすめの本とか」
後ろで本を探していた乃木斗が立ち上がり、きょろきょろしている玄吾たちに言った。
「あ、そうね。司書の先生なら、いろいろ本を知ってるはずだし」
「じゃあ、さっそく聞いてみよう」
そういうと、乃木斗はすぐに貸し出しカウンターに向かった。
「すみません、ちょっと聞きたいんですけど」
後ろでごそごそと書籍の整理をしていた司書の先生に乃木斗が声をかけると、「はい?」と先生はこちらに振り向いた。
四十代であまり美人とは言えないが、落ち着いた雰囲気のある優しい女の先生だ。
「あまり知られていないけど、おすすめの小説ってありませんか?」
「あまり知られてない……ねえ。有名なのは大体貸し出し中のはずだし……。あ、そうだ」
司書の先生は何かを思い出したように手を叩くと、カウンターの下から一冊の本を取り出した。
「この本なんてどうかな。『ひとつかみの世界』っていう本なんだけど」
司書の先生が取り出した本を受け取ると、乃木斗は表紙と背表紙、そして裏表紙を見回した。
二百ページ程度の薄い文庫本で、学生が読む分にはちょうどいいサイズだ。
「ふうん、『ひとつかみの世界』ねえ。玉口君は知ってる?」
「いや、全然。聞いたこともない」
本の近くまで顔を近づけて夢月が言うと、玄吾は首を振って答えた。
「じゃあ、これにしようか。ちょうど誰も知らないみたいだし」
乃木斗がそう言うと、
「これ、少し借りたいんですけどいいですか?」
と司書の先生に尋ねた。
「ええ、いいわよ。是非感想を聞かせてね」
「ありがとうございます。多分、すぐ持ってくると思いますので」
「すぐ……?」
「あ、いえ、何でもないです」
そう言って立ち去ろうとすると、後ろから「あ、それともう一つ」と声が聞こえた。
「図書室内では静かにね。みんなびっくりするから」
「あ、ごめんなさい」
三人はぺこりと一礼し、元の机に戻って行った。