humanum
「おい、女。お前、何のために生きているのだ?」
年のころ十八、九といったところだろうか。まだ少年の面影を残した男が、畑仕事に精を出す女に聞いている。腰に履いている刀から、武士か何か……少なくとも農民でないことが伺える。
「何のために、と言われますと」
「聞いている通りよ。お前の生きる理由を知りたいのだ」
(変わった御人だなぁ)と女は思った。だが、男の身分を考えると、邪険には出来なかった。
「生きる理由、ですか。今までそういったものを考えたことがあまりありませぬ」
「何だと。ならばお前は、日々をどうやって過ごしているのだ。何の望み生きがいも無く生きていられるはずはあるまい」
からかわれていると思ったのだろうか、男の口調が荒くなる。しかし怒気を浴びせられても、女の涼やかな瞳は微動だにしなかった。少し考えるそぶりをみせてから、女はゆっくりと言葉を紡いだ。
「朝起きて、飯と汁を食い、畑を耕し、道具の手入れをして、飯と汁と菜を食い、夜寝ています」
「ばかな。そんな生活のどこに楽しみがあるというのだ。どんな希望があるというのだ。お前はそれで幸せだというのか」
「はい、幸せです。私には夫と子供がいます。それで十分です」
「子を産み、育てる。それは確かに尊い行為だろう。しかし、それでは犬畜生と変わらぬではないか。人間らしさが無いではないか」
「人間らしさ……お侍様、人間らしさとは、いったい、何でしょうか」
本当にわからない様子の女を見て、男は愕然とした表情を浮かべる。
「人間らしさとは幸せを求めることだ! 見ろ、我々の身体を。畜生共とは明らかに違う。人間は道具を使う。人間はこの頭で考える。それはなぜか? 自らの置かれた環境をより良くしようと願うからだ。より良い環境とは幸福のことだ。違うか!?」
「お侍様」
息せき切って言葉を続けようとする男を、一言で制する。小声であったが、そこには意志の力があった。
「幸せを求めることが人間らしさだというのであれば、私は既に幸せを手に入れています。それはつまり私が人間である証拠。違いますか?」
「幸せだと? この暮らしがか? 行灯の明るさも、寝具の暖かさも、氷水の涼やかさも、書物の高揚も、酒の酔いも、何も! 何も無いこの暮らしが、幸せだというのか!?」
「私はお侍様の言うものを何一つ知りませぬので、それらがどういったものか分かり兼ねます。知らないものは欲しようがありませぬ」
「……そうか。知らぬがゆえに、求めることもない、か。だがな。知ればお前も欲しがるだろう。この暮らしのみじめさにも気付くだろう。それを知らないお前は幸福であり、哀れだな」
「哀れ、ですか」
「そうだ。哀れだ。自らに嘘をついているお前がな。お前は凍える冬に、もっと暖かければいいと思ったことはないか? もっと飯を食いたいと思ったことは? 擦り切れた草鞋が心地いいとは言わせぬぞ。お前だって、求める望みはあるはずだ」
「いえ、私は自分に嘘など。それに、今で充分なのでございます」
充分。その言葉を聞いた瞬間、男が笑った。笑うと、適当に結った髷が前後に揺れる。
「はっは、聞いたぞ。『充分』とな。充分? それは何をもって充分なのだ? お前に対してこの惨めな環境がか? それとも、この環境に対してお前がちょうどいいほど惨めな人間なのか? っは、違うだろう。充分なはずなどない! お前はもっと価値のある人間だ!」
視線が交錯する。熱のこもった男の視線と、どこまでも涼しげな女の視線が。
「……俺と来い。お前はこんなところで惨めに朽ち果てるような女ではない。畜生の暮らしから俺が救ってやる」
いつの間にか男は女の手を握りしめていた。かたや稽古によって節くれだった指。かたや労働によってあかぎれた指。男はその傷だらけの手を押し抱く。
「お侍様。いけません」
「何が悪いものか。俺はな。お前の夫にも腹が立ってきたぞ。お前のような女の手をこんなにもぼろぼろにさせておいて、垢染みたボロを着させて平気な男など、俺は許さん」
「ですが、私はほんとうに今のままで充分なのです。哀れな畜生とお思いでしたら、どうか捨ておいて下さいますよう」
男の手を強引に振りほどく。その拍子に、女はバランスを崩して畑へと倒れこんでしまった。したたかに腰を打ったのだろうか、女は動けない。
「あっ! 痛、痛い……」
「っ、だ、大丈夫か!」
慌てて抱き起こそうとする男の視線の先には、はだけた着物から除く乳房があった。ごくりと息を呑むが、女がおびえた表情を浮かべていることに気づくと、慌てて自らの上着を脱ぎ、女に着せかけた。
「……そういう事はしない。俺は……畜生などではないからな……」
その言葉は、倒れこんだままの女に向けて言ったのか、自分に向けていったものだったのか……・
「その上着はくれてやる。綿で水鳥の羽根を包み込んだ逸品だぞ。暖かいだろう」
はっ、とした表情で女は男を見上げる。慌てて上着を脱ごうとするが、男は視線でそれを制す。
「いいから着ていろ。それは俺からお前に対する罰だ。お前はこれで『充分以上のもの』を手に入れた。だがな。その上着のようなものは決して珍しいものではない。望めば手に入れることが出来るようなものだ。お前はそれを放棄した。それを悔いながら老いて行け。それが俺の誘いを断ったお前に対する罰だ」
そう言うと男は背を向けて去っていった。後に残された女はしばらく呆然としていたが、暗くなってきたので家路に就くことにした。帰宅した女を、夫と子供が迎える。
「おう、遅かったな」
「母ちゃん、おかえり」
「おい、その上着、どうしたんだ? ずいぶん暖かそうだな」
「いいなー! 母ちゃん、俺もそういうの欲しいよぉ!」
「ええ、ちょっとお武家様にお恵みをもらったのよ……」
「……すまんな、お恵みをもらうような暮らしをさせて……」
「いいのよ、私は今のままで充分幸せですもの……」
充分。充分。自分に言い聞かせるようにゆっくりと言う。じゅうぶん、と。
それ以上は考えたくなかった。だが、男の残した上着は、家中の上着をかき集めるよりも、暖かかった。




