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humanum

作者: 森谷 楓
掲載日:2012/12/11

「おい、女。お前、何のために生きているのだ?」

 年のころ十八、九といったところだろうか。まだ少年の面影を残した男が、畑仕事に精を出す女に聞いている。腰に履いている刀から、武士か何か……少なくとも農民でないことが伺える。

「何のために、と言われますと」

「聞いている通りよ。お前の生きる理由を知りたいのだ」

(変わった御人だなぁ)と女は思った。だが、男の身分を考えると、邪険には出来なかった。

「生きる理由、ですか。今までそういったものを考えたことがあまりありませぬ」

「何だと。ならばお前は、日々をどうやって過ごしているのだ。何の望み生きがいも無く生きていられるはずはあるまい」

 からかわれていると思ったのだろうか、男の口調が荒くなる。しかし怒気を浴びせられても、女の涼やかな瞳は微動だにしなかった。少し考えるそぶりをみせてから、女はゆっくりと言葉を紡いだ。

「朝起きて、飯と汁を食い、畑を耕し、道具の手入れをして、飯と汁と菜を食い、夜寝ています」

「ばかな。そんな生活のどこに楽しみがあるというのだ。どんな希望があるというのだ。お前はそれで幸せだというのか」

「はい、幸せです。私には夫と子供がいます。それで十分です」

「子を産み、育てる。それは確かに尊い行為だろう。しかし、それでは犬畜生と変わらぬではないか。人間らしさが無いではないか」

「人間らしさ……お侍様、人間らしさとは、いったい、何でしょうか」

 本当にわからない様子の女を見て、男は愕然とした表情を浮かべる。

「人間らしさとは幸せを求めることだ! 見ろ、我々の身体を。畜生共とは明らかに違う。人間は道具を使う。人間はこの頭で考える。それはなぜか? 自らの置かれた環境をより良くしようと願うからだ。より良い環境とは幸福のことだ。違うか!?」

「お侍様」

 息せき切って言葉を続けようとする男を、一言で制する。小声であったが、そこには意志の力があった。

「幸せを求めることが人間らしさだというのであれば、私は既に幸せを手に入れています。それはつまり私が人間である証拠。違いますか?」

「幸せだと? この暮らしがか? 行灯の明るさも、寝具の暖かさも、氷水の涼やかさも、書物の高揚も、酒の酔いも、何も! 何も無いこの暮らしが、幸せだというのか!?」

「私はお侍様の言うものを何一つ知りませぬので、それらがどういったものか分かり兼ねます。知らないものは欲しようがありませぬ」

「……そうか。知らぬがゆえに、求めることもない、か。だがな。知ればお前も欲しがるだろう。この暮らしのみじめさにも気付くだろう。それを知らないお前は幸福であり、哀れだな」

「哀れ、ですか」

「そうだ。哀れだ。自らに嘘をついているお前がな。お前は凍える冬に、もっと暖かければいいと思ったことはないか? もっと飯を食いたいと思ったことは? 擦り切れた草鞋が心地いいとは言わせぬぞ。お前だって、求める望みはあるはずだ」

「いえ、私は自分に嘘など。それに、今で充分なのでございます」

 充分。その言葉を聞いた瞬間、男が笑った。笑うと、適当に結った髷が前後に揺れる。

「はっは、聞いたぞ。『充分』とな。充分? それは何をもって充分なのだ? お前に対してこの惨めな環境がか? それとも、この環境に対してお前がちょうどいいほど惨めな人間なのか? っは、違うだろう。充分なはずなどない! お前はもっと価値のある人間だ!」

 視線が交錯する。熱のこもった男の視線と、どこまでも涼しげな女の視線が。

「……俺と来い。お前はこんなところで惨めに朽ち果てるような女ではない。畜生の暮らしから俺が救ってやる」

 いつの間にか男は女の手を握りしめていた。かたや稽古によって節くれだった指。かたや労働によってあかぎれた指。男はその傷だらけの手を押し抱く。

「お侍様。いけません」

「何が悪いものか。俺はな。お前の夫にも腹が立ってきたぞ。お前のような女の手をこんなにもぼろぼろにさせておいて、垢染みたボロを着させて平気な男など、俺は許さん」

「ですが、私はほんとうに今のままで充分なのです。哀れな畜生とお思いでしたら、どうか捨ておいて下さいますよう」

 男の手を強引に振りほどく。その拍子に、女はバランスを崩して畑へと倒れこんでしまった。したたかに腰を打ったのだろうか、女は動けない。

「あっ! 痛、痛い……」

「っ、だ、大丈夫か!」

 慌てて抱き起こそうとする男の視線の先には、はだけた着物から除く乳房があった。ごくりと息を呑むが、女がおびえた表情を浮かべていることに気づくと、慌てて自らの上着を脱ぎ、女に着せかけた。

「……そういう事はしない。俺は……畜生などではないからな……」

 その言葉は、倒れこんだままの女に向けて言ったのか、自分に向けていったものだったのか……・

「その上着はくれてやる。綿で水鳥の羽根を包み込んだ逸品だぞ。暖かいだろう」

 はっ、とした表情で女は男を見上げる。慌てて上着を脱ごうとするが、男は視線でそれを制す。

「いいから着ていろ。それは俺からお前に対する罰だ。お前はこれで『充分以上のもの』を手に入れた。だがな。その上着のようなものは決して珍しいものではない。望めば手に入れることが出来るようなものだ。お前はそれを放棄した。それを悔いながら老いて行け。それが俺の誘いを断ったお前に対する罰だ」

 そう言うと男は背を向けて去っていった。後に残された女はしばらく呆然としていたが、暗くなってきたので家路に就くことにした。帰宅した女を、夫と子供が迎える。

「おう、遅かったな」

「母ちゃん、おかえり」

「おい、その上着、どうしたんだ? ずいぶん暖かそうだな」

「いいなー! 母ちゃん、俺もそういうの欲しいよぉ!」

「ええ、ちょっとお武家様にお恵みをもらったのよ……」

「……すまんな、お恵みをもらうような暮らしをさせて……」

「いいのよ、私は今のままで充分幸せですもの……」

 充分。充分。自分に言い聞かせるようにゆっくりと言う。じゅうぶん、と。

 それ以上は考えたくなかった。だが、男の残した上着は、家中の上着をかき集めるよりも、暖かかった。



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