魔族の姫君
問題児の兄と、しっかり者の妹。世の中にありふれた、兄妹のカタチ。
だが、俺達の場合は、少し事情が違っていた。いや、もう少し事情が深かった、と言うべきか。
ミイネは、俺がもう既に物心つき、徐々に悪魔としての仕事もこなし始めた頃に生まれた。魔族の、 しかも統率者の娘である。ミイネは幼い頃から沢山の家庭教師と世話役に囲まれ、自由など無かった。彼女は籠の中の鳥。兄の俺ですら、自由に会う事は許されなかった。
そんな妹を、独り占めしたかったからかもしれない。
おまけに、ミイネは優秀で、周りの期待と注目を、一身に浴びていたからかもしれない。
だからだろうか? 俺は、非行に走った。天使に捕まえられそうになった事も、一度や二度ではない。俺は、悪い子になったのだ。
元々、悪戯が好きだった俺だ。奴等は特に不思議がる事無く、俺を厄介者扱いし、まずクリムを俺のパートナーとして選んだ。そして、クリムが捕まって罰せられてからは(それは俺をかばっての事だったし、結局無実の罪だったのだが、実際の所クリムの方が問題児だったので、あまり意味はなかった)、公正公明、その上、その年のトップの成績を収めたミイネが、俺のパートナーとなった。俺はその時、まるで宝物を手に入れたような気分になった事を、今でもよく覚えている。だって、長年の夢が叶ったのだから。
それからは、ミイネの言う事だけはよく聞き、決して、俺の元から離れさせないようにした。彼女も、知ってか知らずか、そんな俺の我がままによく付き合ってくれている。
でも……ミイネにとっては、俺の元にいる時でも、親父の手の中にいる時でも、同じだったんじゃないだろうか? 変わらなかったんじゃないだろうか? だって、結局、彼女が自分の意志で行動する事は、出来なかったのだから。自由は、なかったのだから。
だから、今更だけど、こんな時だからこそ、彼女に選ばせてやりたいのだ。だから……
「ミイネ、どこにいるんだ……?」
お前の心は、どこにある?
*
ジャラン、ジャラン。
不気味な金属音で目が覚めると、そこは目を開けていられないぐらい、まぶしくて、真っ白な部屋だった。
「ここは……」
すると、今まで気が付かなかったのがおかしいぐらいの、悲鳴や泣き声、怒号が耳に届いてくる。
――嗚呼、そうか、ここは……
「私の、心の中、か」
しかも、最深部。“滅神”で連れてきた精神の、墓場。そして、私の罪、そのもの。
――あぁ、今は聞きたくないな。
耳をふさごうとして、手足の自由が無い事に気付く。
ジャラン。
――え? ……成程。それで、金属音、か。
私の手足、及び胴体には、重りのついた白い鎖が巻きついていて、体はそれで壁に固定されていた。
――そうだった。私、天使に捕まったんだった。
遡る事、数日前。
私はいつものように、お兄ちゃんと一緒に、仕事をしていた。いつものようにお兄ちゃんを起こし、いつものように連れだって下界に行き、いつものように、人々を悪行の道へ、誘っていた。本当に、いつも通りだった。いつも通り、だったのに。
それは、突然現れた。白い、天使だった。
一旦は逃げ切ったものの、再び、追いつかれてしまった。そして、あろう事か、お兄ちゃんが捕まりかけた。
その事は、魔族の負けを意味した。だって、お兄ちゃんは次期魔族の帝王になる人、なんだから。もっとも、上の方の偉い人達は、それを認めてはいなかったみたい。
まぁ、向こうは気がついてなかったみたいだし、お兄ちゃんは縄抜けのプロだから、捕まっても問題はなかったんだろうけど。
でも、私は初めてだったから。天使に遭うのも、追いかけられるのも、お兄ちゃんが捕まりかけたのを見たのも、初めて、だったから。純粋に、初めて見る敵が、怖かった。恐ろしかった。それと同時に、何とかしてお兄ちゃんを守らなければいけない、そう思ったのである。
だから私は、滅神を掲げ、名乗りを上げた。そして、私の身と引き換えに、お兄ちゃんを解放してもらった。
この事は、一応、お兄ちゃんは知らない。私が、気絶させておいたから。まぁ、お兄ちゃんの事だから、今頃、多分気付いてはいるんだろうけど。
――お兄ちゃん、どうしたんだろう? あの後、ちゃんと逃げ切れたかな?
「お兄ちゃん……」
会いたい。本当に、心から、逢いたい。
*
――ミイネ、どこにいるんだ? クリムの呼びかけも、上手くいってないみたいだし。
暗闇の中を、手探りで進む。必ず、どこかに彼女がいると信じて。時折、どこからともなく怒号や悲鳴が聞こえるのは、おそらく滅神の犠牲となった者達の魂だろう。ミイネが昔言っていた。滅神は魂を完全に消し去るのではなく、入れ物を移し替えるだけなのだ、と。だから今も、自分が倒した敵の魂は自分の元にあるのだ、と。
自分の罪と向き合い、共に生きている彼女。その強靭な精神ならば、きっとまだここにあるはずだ。
すると、“お、にぃ、ちゃん……”。声が聞こえた。
「ミイネ!」
*
“ミイネ!”
私が目を覚ましてから、どれほどの時が経っただろうか。実際には、ほんのわずかな間だったのかもしれない。けれど、私には永遠とも思えるような長い長い時間の後、ここには不似合いな、聞き慣れた温かい声がした。
「お兄ちゃん……。どうして……?」
――こんなところまで、来ちゃ駄目だよ……。
でも、久々に聞いたお兄ちゃんの声に安心して、言葉が詰まる。
“お前に、聞きたい事がある”
その声は今までに聞いたどの声よりも、真剣で、重い響きがあった。
*
声のする方へ、もはや光も届かない、闇の奥へ奥へと向かうと、突然、大きな白い扉が現れた。
――そうか、もうここまで浄化が進んで……
いや、感傷に浸っている暇はない。俺は意を決して、扉を叩いた。
「ミイネ! ここか!」
俺の叩いた所から、黒い光が波紋のように広がり、扉の端の方から黒く染まっていく。その意味する所は分かってはいるのだが、構わず続ける。
「ミイネ!」
“お兄ちゃん、どうして……?”
「お前に聞きたい事がある。それで、ここに来た」
“だ、駄目だよ! これ以上いたら、お兄ちゃんまで、消えちゃう……”
――こんな時でも、他人の心配かよ。ったく、俺の妹は。
思わず、笑みがこぼれる。
「俺は、大丈夫だから」
そんな愛しい妹に、俺は極力、柔らかい声で言う。
「それより、答えてくれ。天使になった気分は、どうだ?」
*
「天使になった、気分?」
“そうだ”
「……分からない」
――本当に、分からない。
そんな事言われても、本当に実感は無かった。むしろ、お兄ちゃんにそう教えられた事で、自分が初めて天使になってしまった事が分かったぐらいだ。
“そうか。じゃあ、これからどうする?”
「これから?」
――ああ、なんだ。そんな事か。それを心配して、わざわざ……。
心配性で過保護なお兄ちゃん。でも、それが良い所でもあった。彼にこれ以上迷惑をかける訳にはいかない。
“天使として生きるか、それとも”
「私ね、そんな事、どうだって良いの」
私は初めて、強い意志を持って、言った。私の心は、もう決まっている。
“私、お兄ちゃんと、クリムさんと、……お父さんと、一緒にいたい”
生まれた時から、それだけがただ私の願いで、それだけが救い、だったのだから。
ガッシャーンッ。カラン、カラン。
派手な音を立てて、鎖が外れた。
*
優柔不断で、人の言う事に従ってばかりいた彼女が、初めて俺の言葉を遮り、初めて確固たる意志を持って、言葉を発したのだ。これは、聞き届けてやらねばなるまい。彼女の、兄として。
「んじゃあ、やりますか。ミイネ!」
“はい!”
『共命!』
バンッ、と扉が開いて、中から光が溢れだした。