天使と悪魔
「しっかし、暇だねぇ」
とあるビルの屋上から下界を見下げながら、俺は言う。
コンクリートむき出しの床。その無機質な、殺風景さとは正反対に、晴れ渡り澄みきった天。
そんな空に、俺の言葉は独り、虚しく響く。そのあまりの寂しさに、俺は思わず苦笑した。否、もはや笑うしかなかった。
“ほら、今日のノルマはまだ残ってるんだよっ! 行くよ!”
誰かの声が、聞き慣れた台詞が、今にも聞こえそうな気がするのに。それでも、やっぱりこの屋上には、俺以外には誰もいない。誰も、いないのだ。ぶんぶん、と少し大袈裟に首を振って、感傷に浸ろうとする心を振り払う。
俺にそんな暇はない。
「……仕方ない、行くか」
ぽーん、と軽く床を蹴って空中へ。そのまま一気に加速して、下降する。漆黒の羽を広げ、標的という名の人間共の巣窟へ向かう。
「さぁて、今日も人を惑わせに行こうか」
俺は闇からの使者。人を狂わせ、堕とす者。
一般に、“悪魔 devil”と呼ばれる存在だ。
そもそも、“天使”と“悪魔”、“善”と“悪”なるモノを分けたのは何か、と言うと、それはある二人の神の対立に起因するものなのである。
ある時、その神々は考えた。
“人間を支配する事の出来るのは、善か、悪か”と。
一人は慈愛をもって、人々を導く事を選び、
一人は邪悪をもって、人々を陥れる事を選んだ。
こうして、二つの概念は対立した――。
そう言えば格好良いのだが、本当は酒の席での意地の張り合いで、
「ぼくにゃらちょちょいのちょーいで、人間にゃんて支配できりゅもんねー」
「にゃにょう!? わしにゃらそれよりみょ早く、支配してみしぇりゅもんねー」
『じゃあ、どっちが早く支配できりゅか、勝負らよ!?』
ってな感じで始まった、というのは口が裂けても言えない。
悪い冗談、いや、ただの噂であってほしい。マジで。
……話がそれた。まぁ、それはさておき。
俺に言わせれば、そもそもそんな議論は無意味だ。何故なら、そんなもの、悪が勝つに決まっているからだ。物欲、金欲、色欲……。そんなものに少し働きかけてやれば良い。奴等はすぐに堕ちる。
――嗚呼、人間とは、何と強欲、何と傲慢な生き物なんだ……。
そんな事を考えながら人を陥れていると、二時間ほどで残りあと一人、という所まできた。今日は少しペースが遅いな。最初にあいつの事を想っていたからだろうか。どうにかしなければいけない、そうは思うのだが、しかし……。
まぁいい。兎に角、あと一人だ。
――あっ、あいつにしよう。何か知らんが、ものすごく追いつめられた顔してる。あの様子なら、ちょっと背中を押してやれば、コンビニ強盗のひとつぐらい、犯してくれるだろう。
程なくして、本日最後の標的を見つけた俺は、そいつに近づこうとした。その時。ヒュッ。何かが割り込んできた。白い、誰かが。それは、言う。
「貴方、今この方を、だまくらかそうとなさいましたね?」
――やばい、見つかった。
反射的に逃げる。
「待たんかこらぁ」
などと、とても天使らしくない口ぶりで追いかけてくる彼女。これじゃ、どっちが悪魔だか分かんねえよ……。
数分後。何とか撒く事に成功。暗い路地裏で、一息入れる。ふぅ、危なかった。
実はここ最近、神の野郎(天使共のリーダーの方)がこのままじゃ俺達に勝てない事にようやく気がついたのか、臣下共に俺達を捕える命令を下したのである。おまけに、捕えられると浄化され、天使にされてしまうので、実に厄介なのだ。勿論、天使を悪魔にする事も可能なのだが、天界基本法により、天使を捕えると懲役百年、傷付けると弐五〇年、悪魔にすると死刑、なので、迂闊に手を出せない。
よって、悪魔は防戦一方。大分不利な戦いを強いられている。というか、こんなに天使側に有利な条件なのに、それでやっと対等な勝負が出来るって……。お前達にプライドはないのか? そこまでして勝ちたいのか? ……勝ちたいんだろうなぁ。
しかし実際、俺の仲間も、あいつも、捕まってしまっているので、他人事ではない。むしろ、さっきみたいな事がしょっちゅうあるので、仕事が滞って仕方が無い。俺はそんなに真面目な奴でもないので、そんなに不自由している訳でもないのだけれども。
でも、それでも、実に不愉快だ。
仲間が天使にされた事もそうだけど、それよりも何よりも、俺はこの世の中で最も――愚かで下等な人間よりも――天使が嫌なのだ。
俺は、天使にだけは、絶対になりたくない。
だって、折角天使が浄化してやっても、人間は悪魔の囁きには勝てないのだから。まぁ、それが未だに悪が優勢な理由だったりもするのだけれども。
人間はすぐに過ちを犯す。それが後々、どのような事になるのかも分からずに。
奴等は言う。“物を大切に”
奴等は言う。“人を大切に”
そのくせ、奴等は何かを壊さないと生きていけない。
そんな、犠牲の上にしか成り立たない奴等など、救う価値なんて、ない。無駄で、無意味な事だ。それなのに、どうして、天使の奴等は人を助け、導いてやるのだろうか?
解らないし、分かりたくもない。
ただ……。天使に捕まった仲間達は、どうなのだろう。捕まると、ほぼ百%天使にされると聞いている。が、それで良かった、と思っている奴は案外多いのではないだろうか? 特に、あいつなんかは。あいつは真面目で、いつも仕事を淡々とこなしていた。だが、時折、悲しそうに、あるいは虚しそうに、狂っていく人間を、その生き様を、見ている時があった。あいつは、本当はこんな事したくないんじゃないか、って思う時があったのである。だから――。いや、これ以上言うのは、失礼だな。仮にも一級悪魔だった、あいつには。
さて、あれから小一時間。そろそろ良いだろう。今日のノルマはあと一人。さっさと終わらせて、見つからないうちに帰ろう。
「行くか……」
そう呟いて、立ち上がり、飛び立とうとした、その瞬間――
カチャッ。
嫌な、音がした。
「動かないで下さい」
気が付くと、完全に後ろを取られていた。
「抵抗は無用、かつ無意味です」
この声……。さっきの奴か。しっかし、まさか後ろから忍び寄ってくるとは。忍者じゃないんだから。しかもこいつ、用意周到。結界まで張ってやがる。逃げ場もない、か。なら、最後に一つ、悪魔として、こいつに聞いてみようじゃないか。
「なぁ」
「なんでしょう」
「お前達は何故、人を助けるんだ?」
すると、天使は肩をすくめて、
「それが、我が主の望みだからよ」
と、微笑んで応えた。そして、“貴方だって、そうでしょう?”と逆に聞き返してきた。確かにそうだ、と俺は苦笑する。
――あー、時間稼ぎもここまでか……。まぁ、でもこのまま成り行きに任せるのも、面白いかもな。俺なら、問題無いし。それに、あいつも……。そうだ、あいつを探すチャンスじゃないのか?!
「では、参りましょうか」
よし、こいつは俺の事知らないみたいだ。上手くいけば……などと悪だくみをしていたら、ローワーと、上から声がした。え? 上から?
「な、何者!?」
トス、きゃっ、ドサ。
可哀相に。気の強い下級天使は、上から落ちてきた小さな黒い者に、あっという間にやられてしまった。
「ローワ、大丈夫?!」
ものの数秒で敵を倒したにもかかわらず、それは何事もなかったかのように、ぴょん、と俺に抱きついてきた。不謹慎にも程があるので、払いのけてから俺は言う。
「あぁ、問題無い。というより、お前がそいつのしちまった方が問題だ」
「え? まずかった?」
「ちょっち、な」
「ふーん。まぁいいや、とりあえず」
そう言うと、黒き小さな使者は、俺を一層強く抱きしめた。そして、
「こっから逃げるよ!」
その体に不釣り合いな、大きな翼を広げて、空中へ、大空へと羽ばたいていった。
このお話は天使と悪魔をモチーフにしております。
作者の価値観がそのまま出ているとか、口調などの軽いノリ、などの面から見れば、この作品は一番、縡月らしい小説です。
しかし、僕には珍しく戦闘シーンなんかを真面目に書いていたりする点においては、最も僕らしくない小説かもしれません。
なんにせよ、一生懸命頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。