鏡の底の澱
仕事終わりの車内には、生温い湿気がまとわりついていた。
冷房は効いているはずなのに、誰かの汗の匂いと制汗剤の匂いが混ざり合って、鼻の奥にべったりと張り付いてくる。
窓に沿って伸びる横並びの座席は、ちょうど埋まりきる寸前だった。
俺の右にも左にも、知らない誰かの肩がある。
吊り革だけがぽつり、ぽつりと揺れて、車内はやけに静かだ。
誰もが俯いて、スマートフォンの青白い光に顔を洗われている。
俺も、その一人だった。
電車が駅に滑り込み、ドアが開く。
乗ってきたのは、一本の杖をついた小柄な老婆だった。
背は丸まっているが、足取りはしっかりしている。
杖の先に取り付けられた小さな鈴が、一歩ごとにちりん、と鳴った。
可愛らしいキャラクターのマスコットがついた、よくある土産物のような鈴だった。
孫にでももらったのだろう。
その音だけが、やけにはっきり耳に届いた。
座っている誰ひとり、スマホから目を上げない。
――俺も、上げなかった。
画面をなぞる指を止めないまま、視線だけをほんの少し動かす。
そのとき、ふと、老婆の目とかち合った。
特別な色をした目ではなかった。
ただ疲れて、少し充血した、どこにでもいる年寄りの目だ。
それなのに、視線がかち合った刹那、喉の奥がひやりとした。
理由なんてない。
すぐに俺は目を伏せ、視界の隅からその姿を追い出した。
(疲れてるんだ。今日くらい、別に俺が譲らなくても……)
胸の内で言い訳を早口に転がしながら、指はスクロールを続けた。
老婆はドア横の手すりに掴まり、それ以上のことは何も起きなかった。
電車はいつも通りの重さで揺れ、いつも通りの夜を運んでいく。
俺は、もう老婆のほうを見なかった。
◇
翌朝、まだ低い角度の陽が差し込む時間帯だった。
満員一歩手前の車両に、ベビーカーが押し込まれてくる。
車輪が軋んで、誰かのつま先を掠めたのだろう、小さな舌打ちが聞こえた。
母親は俺の斜め前で、何度も「すみません、すみません」と頭を下げている。
汗ばんだ前髪が額に張り付いていた。
子供は、眠ってはいなかった。
ぐったりと首を傾けているように見えて、目だけは開いていた。
ふと、視線がぶつかった。
赤ん坊の目が、こちらをまっすぐ見ていた。
黒目がちの、大きな目だった。
混み合う車内の澱んだ空気の中で、そこだけが場違いなくらい澄んでいる。
何の含みもなく、ただ珍しいものを見るように、じっと俺を映していた。
妙に、目が離せなかった。
理由は分からない。
ただ、綺麗だと思った。
それだけだった。
それなのに。
朝から、これか。
正直、思った。
声には出さない。
誰も出さない。
ただ空気だけが、じわりと固くなる。
隣のスーツの男が、聞こえよがしにため息をついた。
俺も似たようなものだ。
舌打ちこそしなかったが、心の中では「もう少し時間ずらせよ」くらいのことは思っていた。
別に、母親が悪いわけじゃない。
分かってる。
子供が泣いたわけでもないし、ベビーカーだって畳もうとしていた。
ただ、朝のこの時間、この空気の中で、ちょっとした「詰まり」が生まれるだけで、みんな苛立つ。
俺も含めて。
向かいの座席の上、窓越しに朝日が差し込んでいた。
ビルの隙間を縫うように、無遠慮に車内へ入り込んでくる。
誰の苛立ちにも、誰の詰まりにも興味がないという顔で、ただ白々と眩しい。
目を合わせないようにした。
それだけだ。
特別なことは、何もしていない。
電車が揺れて、母親がよろけた。
とっさに手すりを掴む腕が、少し震えていた気がしたが、確かめる気にはならなかった。
次の駅で、母親は逃げるように降りていった。
赤ん坊は、最後まで俺のほうを見ていた。
扉が閉まる直前まで、あの澄んだ目が、じっと。
車内の空気が、少しだけ緩む。
誰も、何も言わなかった。
◇
出社して午前の業務をこなしていると、自席に戻る途中、後輩の田中に呼び止められた。
「すみません、ちょっとこの資料見てもらえますか」
差し出されたA4の束は、隅が少し折れていた。
昨夜遅くまでやっていたのだろう、数字の桁がところどころ手書きで訂正されている。
ざっと目を通す。
粗はある。
だが、悪くない。
むしろ、この量を一晩で仕上げてきたことのほうに、少し驚いた。
「よく調べてあるじゃん」
軽く肩を叩く。
田中の顔が、分かりやすく緩んだ。
「ありがとうございます。これで、午後の会議で提案しようと思います」
嬉しそうに言う田中に、軽く頷き返す。
まだ、こういう言葉がすんなり出る。
まだ、余裕がある。
俺はコーヒーを一口飲んで、自分のデスクに戻った。
田中が礼を言いながら頭を下げるのが、視界の端で見えた。
悪い気分ではなかった。
こういう時間が、案外いちばん気楽でいい。
◇
昼休みになり、ランチのピークで店内は混んでいた。
相席は珍しくない。
俺の向かいに座ったのは、白髪の男だった。
定食が運ばれてくると、慣れた手つきで箸を割り、味噌汁に口をつける。
――と、その箸が、つるりと滑って床に落ちた。
カラン、と乾いた音。
男は「ああ」と小さく呟いて、腰を浮かせかける。
膝が悪いのか、動きがぎこちない。
店員を呼ぶでもなく、自分で拾おうとしている。
早く拾えよ。
思ってしまう。
声には出さない。
ただ、箸が落ちてから男の手がそれに届くまでの数秒が、やけに長く感じられた。
俺はスマホを取り出し、画面に目を落とす。
見なくていいニュースの見出しを、ただ目でなぞる。
視界の端で、男がようやく箸を拾い上げるのが見えた。
店員が新しい箸を持ってくる。
何事もなかったように、食事が再開される。
俺はといえば、スマホから目を上げないまま、味噌汁を啜った。
米粒だけが、やけに歯に固く当たった。
◇
昼休みが明け、午後の眠気が残る時間帯だった。
コピー機に向かう途中だった。
通路の脇で、同僚の宮本が印刷し終えた紙の束を抱えている。
何百枚あるのか、両手で挟むように持ったそれが、ふとした拍子にバランスを崩した。
パラパラ、パサ――。
白い紙が扇状に広がって、床に散らばる。
宮本が「あっ」と声を上げ、しゃがみ込む。
うわ、めんどくさ。
反射的に、そう思った。
手伝えば数分で終わる。
分かっている。
声をかけようとした足が、コンマ数秒だけ止まる。
その一瞬の逡巡が、なぜか決定的だった。
俺は、視線を逸らした。
散らばった紙の白さが、視界の端でやけに眩しかった。
足早に、通路を通り過ぎる。
背後で、宮本が一人で紙を拾い集める音だけが続いていた。
カサ、カサ、と紙同士が擦れる音。
誰も、手伝いに行かなかった。
自分のデスクに着いて、コーヒーを飲む。
味が、さっきよりわずかに薄く感じた。
気のせいだろう。
◇
日もすっかり落ちた頃、座席は、今日も埋まっていた。
俺は立ち乗りだった。
吊り革を握る手のすぐ隣に、知らない誰かの肩がある。
押されるたびに、ぶつかる。
ぶつかるたびに、小さく苛立つ。
ただそれだけのことだった。
昨日の老婆のことは、もう思い出しもしなかった。
車内アナウンスが、次の駅名を告げる。
誰も反応しない。
俺も、ただ揺れに身を任せていた。
一日分の疲労が、肩から背中にかけてじんわりと重い。
それだけのはずなのに、うなじのあたりだけが、なぜか妙に冷たかった。
理由を探すほどのことでもない。
窓に映る自分の顔が、いつもより少し疲れて見えた。
それだけだった。
◇
家の近くのコンビニに寄った。
夜のこの時間は、いつも静かだ。
飲み物だけ買って帰るつもりだった。
レジへ向かう途中、コピー機の前で高校生が困っている。
制服姿のまま、不慣れな手つきで操作パネルのボタンを一つずつ確かめるように押している。
初めて触る機種なのだろう、ふたを開けたり閉めたりを繰り返している。
部活の資料か何かだろうか。
その機種、見覚えがあった。
会社のコピー機と、操作パネルの配置がよく似ている。
おおかた、紙の向きが逆なんだろう。
あの位置のランプが点滅してるってことは、給紙トレイの角度がずれてる。
会社でも同じことが起きて、誰かに教えてもらった記憶がある。
――たぶん、これだ。
分かる。
分かるが、声をかけるほどのことでもない。
俺には関係のない機械だし、高校生も、そのうち自分で気づくだろう。
飲み物だけ持って、レジに並んだ。
背後で、紙が詰まる硬い音がもう一度した。
振り返らなかった。
会計を済せて店を出る。
自動ドアが開いた瞬間、生ぬるい夜風が顔に当たった。
その夜、布団に入ってから、ふと今日一日を振り返った。
特に何があったわけでもない。
ただの、いつもの一日だ。
――なのに。
胸の奥のどこかに、うっすらとした重みがあることに気づいた。
名前のつけようがない、モヤのようなもの。
形を掴もうとすると、指の間からすり抜けていく。
輪郭がない。
理由を探そうとしたが、何も見つからなかった。
それがまだそこにあるせいで、なかなか寝付けなかった。
何度も寝返りを打つ。
目を閉じても、瞼の裏がやけに明るく感じられる。
うとうとしかけては、ふと覚醒する、を繰り返した。
眠りに落ちる直前、それはまだそこにあった。
◇
翌朝、寝不足の重い頭のまま乗り込んだ電車で、家族らしき人に付き添われた老人が、ドアのすぐ内側に立った。
付き添いの女性が「大丈夫?」と小声で声をかけている。
老人は杖を持たず、ただ手すりに頼りきりで立っていた。
座席の端、俺の目の前だった。
譲るべきか。
一瞬、頭をよぎる。
だが、朝のラッシュでこの至近距離から立ち上がって声をかけるのは、なんだか大げさな気がした。
周りの視線も気になる。
結局、俺は俯いたまま、手元のスマホに視線を落とした。
付き添いの女性が、老人の体を支え直す気配が、すぐ近くで続いていた。
次の駅で、二人は降りていった。
俺はまだ座ったままだった。
ドアが閉まる直前、老人がちらりとこちらを振り返った。
一瞬だった。
だが、視線が合った。
責めるでもなく、ただ見ていた、というだけの一瞬。
それなのに、昨夜感じたあのうなじの冷たさが、今度ははっきりと分かる強さで戻ってきた。
心臓が、少し速い。
気のせいだ、と思おうとする。
だが「気のせいだ」と思う回数が、もう三度目だということに、ふと気づいてしまった。
◇
出社してしばらく経った頃、田中の声が、少し離れた席から聞こえてきた。
「すみません、すぐ直します」
上司が資料を片手に、立ったまま何か言っている。
声は抑えられているが、圧はある。
田中の背中が、心なしか小さく見えた。
昨日、俺が褒めた資料だ。
あの後、無事に会議で提案できたと言っていた。
それとは別件のミスらしいが、タイミングが悪い。
助け船を出すべきか。
チラリと視線をやった瞬間、田中と目が合った。
一瞬だった。
助けを求めている、というほど分かりやすくはない。
ただ、こっちを見た、その事実だけがはっきりと届いた。
俺は、パソコンの画面に向き直った。
とっさだった。
理由を考える前に、体が先に動いていた。
手元の資料を意味もなく並べ替える。
田中の声が、まだ続いている。
――なんで、目を逸らした。
一瞬、そう思ったが、答えはすぐに出た。
厄介事に巻き込まれたくない。
それだけだ。
理由は単純で、今更驚くようなことでもなかった。
それなのに、鳩尾のあたりが、ぎゅっと締まった。
昨日、肩を叩いてやった手のことを思い出す。
あの時の自分と、今の自分が、うまく繋がらない。
しばらくして、田中の席のほうが静かになった。
俺は、その静けさにだけ、ほっとした。
ふと、もう一度そちらを見た。
田中は、もう何事もなかったかのようにキーボードを叩いていた。
声のトーンも、いつも通りに戻っている。
――なら、いいか。
そう思おうとしたのに、耳の奥で、さっきの「すみません、すぐ直します」という声だけが、何度も繰り返し再生された。
止めようとしても、止まらなかった。
行動の理由は分かる。
それなのに、なぜこの声だけがいつまでも頭から離れないのか、見当もつかなかった。
◇
昼になり、定食屋のカウンター席に座ると、少しだけ肩の力が抜けた。
ここでは誰も、俺に何かを求めてこない。
味噌汁、白米、生姜焼き。
特に変わったところのない、いつもの店だ。
ふと、箸を止めた拍子に顔を上げた。
――視線を、感じた気がした。
隣の客か、それとも厨房の店員か。
振り返っても、誰もこちらを見てはいなかった。
カウンターの向こうで店主が黙々とフライパンを振り、隣の客はスマホを見ながら咀嚼している。
誰も、俺のことなど気にしていない。
分かっている。
それでも、背筋のあたりがすうっと冷えた。
理由のない寒気だった。
もう一度、箸を動かす。
生姜焼きの味は、いつも通りだった。
それなのに、口の中に残る味だけが、なぜかどこか遠かった。
◇
日が傾き始めた頃、コーヒーを淹れに、給湯室へ向かう途中だった。
廊下の向こうから、田中が歩いてくる。
すれ違いざま、軽く会釈でもするつもりだった。
「あ、お疲れ」
声をかける。
田中は、小さく頭を下げた。
「お疲れ様です」
それだけだった。
何のトラブルもない、廊下ですれ違っただけの一瞬。
――なのに。
すれ違う直前、田中と目が合った。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
笑ってはいた。
口角は、ちゃんと上がっていた。
声のトーンも、いつも通りだった。
それなのに、目だけが、その表情に追いついていなかった。
ワンテンポ遅れて笑みが浮かぶような、いや――そもそも笑っていない目に、口だけが勝手に笑みの形を取り繕っているような。
気のせいだ。
今朝、俺があいつを見捨てたようなものだから、後ろめたさが勝手に見せているだけだ。
そう自分に言い聞かせて、給湯室に入った。
備え付けのコーヒーマシンに、紙コップホルダーをセットし、抽出ボタンを押す。
――のはずが、紙コップ自体をホルダーに差し込み忘れていたことに、ノズルからコーヒーが流れ落ちる音で気づいた。
受け皿に広がる茶色い染みを見て、しばらく間抜けに突っ立っていた。
こんな失敗、いつぶりだろう。
紙コップを差し直し、もう一度抽出ボタンを押す。
手元が、微かに震えている気がした。
指先についた飛沫の生ぬるさだけが、妙にはっきりしていた。
その後も、何度か田中とすれ違った。
三時のミーティング。
廊下ですれ違ったとき。
エレベーター前で会釈したとき。
そのたびに、同じ引っかかりがあった。
回数を重ねるごとに、それは「気のせい」で片付けられる大きさではなくなっていった。
四度目に目が合ったとき、俺は思わず視線を逸らした。
逸らしてから、自分がそうしたことに気づいて愕然とした。
――俺は今、田中を避けた。
理由を、うまく説明できない。
ただ、あの目を、もう見たくなかった。
それだけだった。
定時が近づく頃には、田中の席のほうを見ること自体を、無意識に避けるようになっていた。
視界の端にあいつの姿が入るたび、心臓のどこかが、ぎゅっと縮こまる感覚があった。
◇
その日の帰り道、俺の目の前に何人か座っている。
いつもの光景のはずだった。
だが、ふと目を上げたとき、違和感があった。
一人じゃない。
左端の会社員も。
真ん中で舟を漕いでいる中年の男も。
スマホを見ているはずの女子高生さえ、画面を見ているようで、その目の焦点はどこにも合っていない気がした。
見間違いだろう。
そう思って、もう一度確かめる。
一人、また一人と、視線を這わせていく。
数えるつもりなどなかったのに、気づけば数えていた。
三人。
四人。
いや、もっといるかもしれない。
誰の目にも、感情の色がなかった。
呼吸が、浅くなっていく。
車両全体が、どこか生温い、わずかに粘度のある液体に満たされた巨大な水槽のように感じられた。
ガラス越しに、こちらを見ているのか見えていないのか分からない、無数の目。
俺だけが、こちら側で息をしている。
――さっきまでは、田中一人だった。
その考えが浮かんだ瞬間、心臓が跳ねた。
胸の奥、あのモヤのようなものが、今夜ははっきりと重みを持っていた。
ドロリとした、粘度のある何か。
喉元のすぐ手前まで、せり上がってくる。
呼吸が、うまくできない。
吸っても吸っても、肺の底まで届かないような感覚だった。
気づけば、足の感覚が薄れていた。
立っているのか、ただそこに固定されているだけなのか、自分でも分からなくなる。
電車が揺れるたび、周りの誰かの肩が触れる。
それだけのことに、全身が強張った。
次の駅まで、あと何分だろう。
数えることでしか、正気を保てなかった。
◇
この二晩、まともに眠れていなかった。
瞼の裏が熱い。
奥歯を噛みしめていないと、意識がふっと途切れそうになる。
周りの物音が、やけに遠くから聞こえる日があった。
今日は、それだった。
満員の車内。
押し合う体温と、湿った息の匂い。
いつもなら気にもならないそれが、今日は肌にべったりと張り付いてくる。
――ドアが開く。
流れ込んでくる駅のアナウンス。
人の波。
俺は吊り革を握り直し、目の前の乗降口をぼんやりと見ていた。
その中に、小さな影があった。
杖の先の鈴が、ちりん、と鳴った。
――知っている音だった。
顔を上げるより先に、体の芯が冷えた。
理由は分からない。
分からないまま、視線だけが勝手にそちらへ吸い寄せられていく。
老婆だった。
背格好も、丸まった背中も、杖に下がった小さな鈴も。
あの日の、あの老婆だ。
見間違えようがない。
何百人もの老人を見てきたわけではない。
それでも、間違えようがない。
体が、先に判断していた。
心臓が、どくん、と大きく跳ねる。
俺は目を伏せた。
今度こそ、逸らした。
ラッシュの喧騒に紛れ込むように、自分の存在を薄くしようとした。
息を殺す。
瞬きすら惜しい。
――大丈夫だ。
老婆が俺を覚えているわけがない。
あの日、一瞬目が合っただけだ。
三日前の、ただの通行人のひとりだ。
言い聞かせる声が、自分の中で妙に上ずっている。
老婆は、俺のすぐ近くの手すりに掴まったまま、動かなかった。
降りる素振りもない。
ただそこに立って、揺れに合わせて小さく体を傾けている。
近い。
物理的な距離としては、満員電車と大して変わらない。
それなのに、息が詰まるほど近く感じられた。
視界に入れないようにしているつもりでも、老婆の存在そのものが、皮膚を通して伝わってくるような気がした。
時折、杖の鈴が控えめに鳴った。
その小さな音が鳴るたび、心臓が締めつけられる。
このまま、次の駅まで。
あと少しだけ。
祈るような気持ちで、俺は自分の靴の先を見つめ続けた。
周りの乗客の誰かが動くたびに、びくりと体が反応した。
そのとき。
俺の斜め前、横並びの座席の中ほどから、突き抜けるように明るい声が上がった。
「おばあちゃん、どうぞ!」
小学生の女の子だった。
ランドセルを揺らして立ち上がり、席を譲る。
屈託のない、まっすぐな声。
助かった。
思わず、そう思った。
強張っていた肩から、力が抜けていく。
老婆の意識が、俺からあの子へと移る。
それだけのことが、ひどくありがたかった。
「あら、いいの?」
「はい! どうぞどうぞ!」
老婆の顔が、皺の中でくしゃりと緩んだ。
「ありがとうねぇ。優しいのねぇ」
穏やかな、拝みたくなるような笑み。
腰を下ろしながら、女の子の頭を軽く撫でる。
周りの空気が、ふっと緩む。
誰かが小さく笑った。
近くの主婦らしき二人組が、小声で「いい子ね」と囁き合っている。
ありふれた、美しい光景だった。
これでいい。
もう、終わった。
安堵が、体の奥からじんわりと広がっていく。
あとは、このまま何事もなく――
――その真横で。
老婆が、頭を撫でる手を止めないまま、視線だけをこちらへ滑らせた。
ゆっくりと。
笑みの形を、崩さないまま。
俯いていたはずの俺の目と、寸分の狂いもなく重なった。
心臓が、跳ねるのをやめた。
いや、跳ねすぎて、逆に止まったように感じた。
その目には――笑みが、なかった。
口元は確かに笑っている。
だが目だけが、そこから切り離されたように、何も映していなかった。
感情という感情が、根こそぎ抜け落ちた、底のない色。
ガラス玉を嵌め込んだような、平坦な、無機質な二つの穴。
(っ――)
声にならなかった。
知っている。
その目を、俺は知っている。
どこで見たのか、思い出せない。
思い出したくない、という感覚のほうが近い。
ただ、確信だけが、腹の底からせり上がってくる。
――これは、俺の目だ。
いつの、俺の目だ。
分からない。
分からないのに、否定できない。
電車がガタン、と重たい金属音を立てて揺れた。
その振動で、ようやく金縛りが解けたように、俺は視線を引き剥がした。
老婆は、もう何事もなかったかのように、女の子へ礼を言い続けている。
「えらいねぇ、優しいねぇ」と、皺だらけの手で女の子の頭を撫でている。
誰もが、その光景を微笑ましく見ている。
さっきの目のことなど、なかったかのように。
俺だけが、まだ息の仕方を思い出せずにいた。
背中を、冷たい汗が一筋伝う。
周りの音が、また遠くなる。
老婆の視線がもう一度こちらに来るのではないか、という予感だけが、鳩尾のあたりにべったりと張り付いて離れなかった。
次の駅で、老婆は女の子に見送られながら降りていった。
俺の視界から消えるまで、一度も、もう振り返らなかった。
それでも、俺の呼吸は整わなかった。
何かに、覗かれた。
見られたのではなく、覗かれた。
自分でも、まだそれが何なのか分からない。
分からないことだけが、確かだった。
――思い返せば、いくつも心当たりがある。
だが、どれが最初だったのか、もう分からない。
答えは、出ない。
出したくない、というほうが近いのかもしれない。
ただ、次の駅でドアが開いたとき、俺はほんの少しだけ、顔を上げていた。
それだけだった。
何かが変わったわけではない。
決意めいたものも、まだどこにもない。
ただ、胸の底に沈んだ澱が、今日はほんの少しだけ、ぬるく脈打っている気がした。




