第1章 5節 「一国正教主義」
「ベルカっ。速く」
サルナは沿ヴォルガに帰って休む間もなくモスクワへ飛び出した。マフラーはなく、ポンチョが主人に掴まって小銃を背負いながら浮いてしまう。
今回は個人的な呼び出しだ。集会で司会だった彼が手紙をくれたが、招待されるまでもない。
モスクワで反乱が起きた。イワンは失脚し、辛うじて貴族に保護されたが新しい君主の過熱ぶりは病的である。
「か弱く生意気な聖職者どもめ」
都を傀儡とした彼らは、自由奔放で非現実的な布告を発表した。
・イワンは人間性に甚大な問題を抱えている
・正教会を信じる全ての農民は貴族から保護され、そのため教会の代官を派遣する
・しかし他国の文化精神は歴史を重ねるうちに腐敗したため、彼らの正教徒を保護するのは容易ではない
・よって第3のローマたるロシアに完璧な正教主義を建設する
・ロシアは如何なる国にも正教会を布教しない
サルナは舌打ちを繰り返し、鞭を打って加速した。
「イワンもイワンだ。日頃から怒鳴り散らすからこうなるのだ。誰から帝王学を授かったのか」
スピードを保ったまま近道の森に入る。
雪を被った草は走りにくいが、勢い衰えず、跡には雪や花びらを散らした。ギアを上げてなお小回りを利かせて樹木を過ぎる。
サルナは立ち乗りになった。景色を記憶し、操縦しながら後ろを向く。
木々を見通すと、影が迫っていた。
ベルカが跳ぶ。
サルナは驚いたが、小動物を避けたらしい。ウサギの群れが興味津々に並走している。
「ありがとう」
ベルカに顔をつけ、剣を抜いた。右へ急旋回する。
すぐに左へ曲がると最大速度に達した。
前方の1騎の農民がこちらに気付く。
「覚悟!」
時すでに遅く、サルナに斬り落とされてしまった。馬も剣の柄で頭部を叩き、気絶させる。
森を抜けると広い畑だ。小麦たちが雪に恵まれ成長期に栄えている。
それを踏んでまで、両翼に騎馬の農民がついてきた。振り返っても1騎現れて立て続けに登場し、2騎、5騎、2騎という配置でサルナを追う。剣や槍、弓を携えていた。
弦の震動を捉える。
剣で滑らかに払ってしまった。矢は回りに回って滞空し、落ちるとサルナに注目が集まる。
「おい。私が貴族であると知っての無礼か」
弓を持つ者が一斉に構えた。
「俺たちは貴族などいなくても生きられるんだぞ」
「正教会万歳!」
しかし、どれも届くことなく足元に刺さった。サルナは加速している。
「追えっ」
最初に弓を射た彼が指示すると農民たちは鞭を打った。両翼も閉じるように迫ってくる。
「私は急いでいる。邪魔をするな」
右翼の1騎が十字架を見せつけた。
「神が仰るのだ。俺たちの村に入った貴族は殺してしまえと」
その数秒でサルナは小銃を構えた。頭を撃ち飛ばす。もう1騎が槍を突くがそのまま小銃で跳ね除けると、恐れを成した農民は離散してしまった。
最後の矢からも逃げ切り、叫ぶ。
「このウサギは返したいところだが、私のことが気に入ったらしくてな」
ポンチョの後ろ姿が新たな仲間と共に去っていった。
モスクワに入り、しかしサルナはまだ早足で馬を進める。4匹のウサギがぐんぐんと行ってしまうのもあった。
橋を渡り、広場のサルナは眉をひそめる。
「聖堂が」
前に見た景色が信じられないほど焼け落ちていた。壁は黒く廃れて骨組みを晒し、サルナがはっきりと覚えていたはずの姿を忘れさせる。
悲しみと怒りで目を閉じ、馬を降りる。ウサギたちが昇ってきた。1番乗りを抱きかかえてやり、3匹は頭と肩といういつものポジションに止まる。
「モンゴルに一度消された我が国。それが立ち上がって栄えるに至った歴史を象徴するはずだったのに」
子孫に見せてやれない悔しさがウサギたちにも伝わる。もはや聖堂の方など向いていない。
これこそ反乱のきっかけだった。聖職者たちは、精神的に狂ったイワンが放火したのだと宣伝し、イングランドやオスマントルコの情勢と結び付け、正教会のアイデンティティと救済を訴える。市民はまんまと感化されて暴動を起こし、むしろ消火を遅らせてしまった。
「始めからそのつもりだったんだ。自作自演の大火事」
ウサギを片手でもふもふし、もう片方でベルカを柵に繋ぐ。4匹もここに置いていこうと考えたが無理そうだった。
「ごめんね。1人にしちゃって」
ベルカの鼻を撫で、集会所に入る。
招待者は苦笑した。
「驚いたな。そいつらは何だ」
「道中で農民に襲われてな。かっぱらった」
彼は声を出して笑う。
「恐ろしい娘め。改めて自己紹介しよう。メニコフだ」
「サルナ」
2人は握手を交わした。
「さて。ここに呼んだ理由だが、他でもない。雷帝を沿ヴォルガに匿ってほしい」
サルナは分かり切ったように見詰める。
「お前らの農民は優秀で礼儀正しいときく。反乱から最も遠い領地だ。我々の兵団で中央権力を取り返すから、それまでの間。頼めるか」
サルナは、首を横に振った。
「私は雷帝を預かるためにここへ来たのではない。火事の当時の情報を知らないか。証拠を集めて、聖職者どもを糾弾する」
メニコフは腕を組む。
「そうすれば簡単なのは私だって承知だ。力で取り返せば市民はまたイワンを恐れるだけだろう。しかし、実行犯は行方不明なのだ」
サルナは動じない。
「ここで妥協してはならない。農民を正教会から覚めさせる最高の機会だ」
ウサギを撫でる。
「金を出してくれないか。広場の周辺住宅を手当たり次第ノックして、証言を釣り上げる。多少の嘘も買って構わないくらいの額が欲しい」
メニコフもウサギを触り、頷いた。




