第1章 34節 「遠洋航海」
ヨーロッパに新たな不完全燃焼の火種がちらつき、夏。小麦の収穫が始まって農業も商業も潤い、冷たい戦争にひと時の癒しが訪れる。風は過ごしやすい。
マラトはブルゴスに戻っていた。故郷の交番から見回りに出かけ、すっかり復興してしまった町に似合う。緑の制服が微笑みをもたらしていった。
「おお、マラトじゃないか」
戦争時代から付き合いのある退役兵が広場にたむろしている。マラトはゆっくりそこに入った。
「実は2,3ヶ月前に戻ってたんだけどね。結局ポーランドから戻った以来」
「そうか。ピレネーからカディスから、ヴェネツィアだって? 偉くなっちまって寂しいぜ」
「世界が広がってるなあ」
1人が青年に握手を要求した。
マラトはそれに応える。他の老人ともしっかり手を繋いだ。
「思えば初めて会ったときから、マラトなら何とかしてくれるんじゃないかと、そんな気がしてたんじゃ。見事に成長したな」
「そう言ってもらえて嬉しいよ」
保安官の飾緒が揺れる。
「次はどこに行くんだ?」
老人たちの視線にマラトは苦笑した。
「決まってない。でも確かにまたどこかへ飛ばされる気はする」
「頑張れよ。俺たちも死なないから」
その場に笑いが起こり、マラトは歩き出した。手を振る。
「またな」
「また」
見回りを続ける。
そうして交番に戻ると、中で同僚がざわめいていた。声をかけてみる。
「何々どうしたの」
「マラトさんっ」
彼の登場に全員が振り向き、最も近い1人が紙を見せる。
「すごいですよ。次の任務は地球一周ですって」
「はっ?」
マラトは紙を二度見した。
「地球って、地球?」
「地球」
「一周?」
「一周」
「あのマゼラン艦隊がやり遂げた?」
「地球一周」
「わーお」
マラトは思わず上を向いた。西インドや明国の景色を思い浮かべてみる」
「イングランドへの対抗だそうだな。東インドにもちょっかいを出すらしい」
「出航は12月23日。きっちり準備してくださいね」
「うん」
保安官は足首を回した。
季節は流れ、秋。
マラトの家に配達が届いた。
出航の前にもう一度会おうと、サルナに手紙を出していたのだ。早速読んでみる。
豊かな実りを譲り、また育まんとしてくださる大地よ、親愛なるマラトと私の手紙を守りたまえ。大いなる森に光を与える風よ、この手紙を開きたまえ。
さて、地球一周とはたいそうなことだな、おめでとう。
一方でしばらくヨーロッパを離れるというのが寂しいのも理解できる。
だが、今冬はモスクワよりイワン陛下を始めとする高官を集めた演劇会を企画しており、主催者たる私が現場を離れる訳にはいかない。
お前ならサラセタさえいれば船すらいなくとも地球を渡れるさ。
これを機に、私との手紙も断って、新たな世界に生きろ。
活躍を祈る。
マラトは、少し笑った。
「よし」
早くも荷物をまとめてしまう。
12月23日、マラトを主役とする3隻の船がカディスの港を発とうとしていた。
まずはフロリダへ行き、一部の兵を入植させてイングランドのデラウェア・メリーランド植民地を牽制するのだ。
「みんな、忘れ物はないね」
実務ではなく気分で問いかけてみた。問題はない。
150人の船乗りが西を目指す。




