第1章 32節 「ヴェネツィアの陣営追放」
ヨーロッパの緊張が一段と締まり、祝うに祝う気となれない1563年の正月。船が灯台に照らされて波を立て、寒い陸風に抗う。不沈の情熱で進んでいた。
「サラセタ、寒いね」
マラトは隣の愛馬の首を抱いた。互いに胴より腕が温まる。
フランスの戦乱が泥沼化し、イングランドの西インド植民地は少しずつ移住者を増やしていると考えられる。それによる生産活動の拡大は、海賊の寝床を上質に整える。スペインは艦隊を出撃して商船を保護していた。
その監督を務めるマラトは船が着いたのを確認し、歩いていく。船長が降りてきた。
「寒い中ご苦労様、海はどうだった」
「商船を保護しているうちは何もなかった。俺たち単騎になると待ってましたと言わんばかりに攻めてきてな。ドーンと沈めてやったわ。報告書はあとで詳しいのを渡す」
「大変だ」
船長は足はよく温めているが、半袖だ。
「まさか。俺たちにとっては陸にいる方がごめんだね」
世界最強の海軍の誇りに腕を組み、保安官もサラセタに乗った。
「じゃあ後はよろしく。ペンを走らせて待ってる」
「おうよ」
脇腹を蹴り、管制館に小走りを始めた。
書類をまとめて明日の準備のため計算する。今夜も十分な仕事を終えた。寝室に移動する。
「マラト殿」
部下が話しかけてきた。
「国王陛下からお呼び出しです。1週間以内にマドリードへ来いと」
マラトは口角で苦笑いして固まった。
「自分の仕事は、誰が引き継ぐの」
「既に代わりの者をよこしているそうです」
「急だなぁ」
文句を言いつつもまずは睡魔を追い払うことにした。
スペイン宮廷は2年前にマドリードへ移動していた。美しい角形の国土を持つスペインの全く中央に位置し、完璧な後方基地として川や海の艦船を統べる。
マラトは5日で王都に来てしまった。国王フェリペのお目にかかる。
「新年あけましておめでとう」
「おめでとうございます」
フェリペは足を組んだ。
「唐突で悪いが、また頼みたいことができてしまった」
「陛下の仰せであられましたら何なりと」
21歳の保安官は気品をわきまえているが、若さも捨てていない。
「厄介なことが起こった。イタリアより東方の商業国ヴェネツィアが、トルコとの海戦を企てている。スペインが西地中海や西インドに集中しているので注目してほしいというのもあるだろう。だが我々としては東地中海の戦いには参加できないし、教皇も同意見であると確認した。これからバルセロナへ行き、ローヌ川を上ってスペイン使節として遣わされてもらいたい。もしそれでも戦争するというなら、陣営追放という手札を切ってもいい。君に一任する。そのくらい、マラト、君は偉大なカトリック教徒になったのだ」
保安官は表情を崩さない。
「ありがたきお言葉。末代誇らせて頂きます」
フェリペは穏やかに笑った。
「頑張ってくれ」
マラトは礼をし、部屋を退出した。
ヴェネツィアへの道は険しい。ローヌ川に入ると両岸の少し先は戦乱の国だ。とは言え主戦場は西部であり、マラトは素早くサラセタを飛ばして争いなく上っていった。
だがアルプスを越えなければならない。
氷結した川を更に上って大サンベルナール峠を目指す。寒いのは言うまでもないが雪で視界も悪く、風が体温と冷静さを奪っていった。
マラトはそれでも鞭を打つ。
「走れっ。体を冷やすな」
叫びが風の轟音を押して馬の周囲に響く。強い顔は霜のように侵されていた。
その瞳で鋭い坂を捉える。
「サラセタっ」
本道を外れてそちらに飛び出す。乗り上げて加速度的に体が天を向いていった。岩を見極めて踏ませ、崖と化した道を真っ直ぐ駆ける。風を防げるだけでなく下から集まって押してくれた。
頂きに至ることなく坂を回って反対に出る。サラセタを滑らせた。
「今だっ」
突き出る岩々を踏み切って峠を越える。下りでも足場を厳選した。前脚で着地して方向を固めると後脚の威力で飛び降りる。二段飛ばしを覚えて麓を目指した。
なだらかな斜面に至り、そのまま吹雪を駆けていく。
「太陽だ」
ヴェネツィアに着いたとき、1月の25日だった。雲が分裂して冬の青空にかすむ。都心の美しい建築には運河が入り交じり、軽快な船と秀麗な橋の数々が構えていた。
「ジェノヴァとどっちが綺麗かな」
サラセタから降りてやると、首を傾げられた。水泳の思い出の方がが強いらしい。
都市国家らしい知的な通りを歩き、選挙を勝ち抜いた共和国指導者の元へ伺う。
海沿いの宮殿で使節は丁重にもてなされた。サラセタを預けて応接室まで案内してもらい、水の都の代表者に礼をした。
「ようこそ。お話はきいています。どうぞお座りください」
アジアから輸入したと思われる低い椅子に腰掛け、低い机をまたいで向き合う。
マラトは鋭く真摯な目を見せた。
「正直に申し上げます。スペイン宮廷のヴェネツィアへの感情は芳しくありません。もしトルコと戦争するなら、カトリック陣営を追放しなければなりません」
指導者の顔も曲がらない。
「誠に残念でございます。ですが、それでも我々は突き進みたい。このままではヴェネツィアの影響力はムスリムに食い潰されてしまいます」
「焦らないでください。何しろ我々は本気です。支援を出すことはできません」
「承知です」
マラトは、控えめに吐息をついた。
「困った国ですね」
立ち上がる。
「後ほど教皇から正式に関係の破棄を通達されるでしょう。損害が小さくなるようには祈っておきましょう」
ヨーロッパの風は更に混乱した。




