第1章 2節 「裏庭」
季節はまた秋から冬に移る。
マラトはスペイン王都トレドに入った。戦争の被害は受けておらず、荘厳な建築が無敵の如く構えている。保安官と馬が並んで連れられるのに市民たちは執拗な横目を向けた。
「顔を上げろ」
気付くとマラトは王宮の前に立っていた。
「馬はここに繋いでおく。お前は国王陛下から直々に裁判を受けるのだ」
無言で頷き、サラセタにウインクを見せてやる。その後ろ姿からは、仮面のように何も見えなかった。
豪華な廊下を歩き、いよいよ王の仕事場に持ち込まれる。衛兵たちはマラトに正座するよう指示し、有事に際してもすぐ殺せるよう両側から剣を差し向けた。
無限の太陽を戴く王、フェリペが玉座から影を与える。
「ブルゴスの青年マラトよ。何たる悪魔がそなたを操ったことか。例のイングランド人どもを取り逃がし、ひいては下劣な女王エリザベスに歩を譲った」
額を引き立て、足を組む。
「よいか。ブルゴスの戦場を見たそなたは英雄のように思っているのかもしれぬが、イングランドは文字通りの火事場泥棒だったのだ。西インドの我らが領地に散々の海賊を送った挙句、戦利品を掠め、新たな巨悪として君臨を目論んでいる。その奴らを叩く機運をよくも投げてくれたな」
「フェリペや。フェリペや」
老人の呼び声にマラトは後ろを向いた。
数え切れないほどの女中に囲まれ、前国王が杖をついている。
「父なるカルロスよ。今は裁判を執り行っている故、退出をお願いせざるを得ません」
「断る。むしろお前こそ裁判に掛けてもよいくらいだ、国王。何たる過ちを犯しくれたのだ。その少年、覚えているとも。平和の象徴だからな。マラトが溢れんばかりの勇気を使いこなしていなければ大戦争が起きたところだぞ」
カルロスは衛兵を退け、杖を置き、マラトの肩を頼った。どうしていいか分からないが、取り敢えず真摯にフェリペと向き合う。
「国王陛下。イングランドと共に歩むことはできないのですか」
フェリペは右の拳で額を支えた。
「神の創造にも関わらず人は愚かなもの。古来から幾重の忘却を渡ってきた我々は特にな。領を膨らませ、富を我が手にと求めるうちに拳をぶつけてしてしまう」
「あるいは」
カルロスと目が合った。笑顔がフェリペの方を向いていく。
「互いを知りつつも関わることを避け、つまり人の手で世界を作れば争わずに住むかもしれぬ」
フェリペはゆっくりまばたきをした。口が先に開く。
「しかし我々にできるのは、壁を立てて再現するのみ。戦争は無駄な行動が引き起こすが、身を守る準備も怠ってはならない。壁を越えたら最後、多大な損害を被るのだとしっかと知らしめねばならない」
立ち上がり、見事な右腕を振るう。二人の間近まで歩いた。
「父上。スペインはこれから、フランスのブルゴーニュに属国を立てるつもりです。ネーデルラントとの連絡を強く、また食料を得るため。先の司令の誤りを認め、この保安官を抜擢しましょう。役人と軍の移送を指揮させます」
「それがいいだろう」
少年が無表情を作ると、髪型の影からも男前な姿が分かった。
生きていることに喜び、カルロスに感謝する。
「歩きの人は沢を登ろうか」
そう言うとマラトはサラセタを降り、指を鳴らして先導を任せる。自分は脇道から急流を目指した。後続も指示通り動く。
ほんの小部隊とは言えブルゴーニュは遠い。トレドを発って三週間でリヨンに至ると、それより北は視界が狭かった。整った道では速く、荷の大量性もある馬、複雑な行動のできる徒歩の部隊を使い分け、完璧な速度で進路をクリアしていく。
マラトは制服の腹部にしぶきを感じながら急流を這い登る。高いベルトが冷たく滴り、それは喉仏も同じだった。指は青く痺れる。
「あと少しだ。頑張れ」
試しに下を見てみると、無人の空間があり、それから歩兵たちが連なっていた。
マラトは吐息をつく。沢を下りはじめた。
足取りは登りより険しい。しぶきは跳ねるどころか被さってくる。分厚い髪が冷え込み、肩に冷気を落とされた。
「いや」
マラトはあまりの仕打ちに背後を見渡した。
「雨だ」
葉が着くのを待っている森。その消失点が見えることなく霞み、おびただしい雨を受けている。
マラトは歩兵たちを見詰めた。
「みんな。滅茶苦茶大きい音が鳴るかもしれないけど、気にせず登れよ」
言うが早いか上を向き、遠慮なく頂上を目指す。
マラトは僅かな足場を踏み切った。急勾配に前のめると腕力を披露し、美しい曲線を描いて岩に立つ。次の絶壁は蹴り上げる覚悟で走り、頭が反って下になってしまうが剣を刺した。崖に密着し、剣を踏んで岩の突出部に立つ。残りをよじ登れば頂上だ。
そこには巨木の森が広がっていた。マラトは川沿いの一本に寄りかかり、小銃を抱える。濡れぬようしまっていた布巾できっちり拭いた。弾を装填し、火薬を入れ、素早く振り向く。
盛大な音。巨木を切らんばかりの傷がついた。マラトは小銃を背負い、とどめを刺しにかかる。強い足で蹴り込んだ。
また轟音が響き、巨木が川の筋を斜めに侵す。水勢は広く氾濫して森に吸い取られていった。マラトはそれを横目に、崖へ向かう。
「驚いたかい。お前らはゆっくりでいいからな。あと、道中に剣を見つけたら回収してほしい」
歩兵たちの速度はむしろ上がったようにさえ感じられた。最後の兵が頂きを踏み、森から本道を目指す。先程より幅のある道に出ると、馬乗りたちもやってきた。
「すごいぜ指揮官殿。このレースは俺たちの勝ちだな」
「やったー、ということにしておこう」
マラトはサラセタを撫でてやった。またがると雨も弱くなり、全員で北に向かう。
晴れた頃、ブルゴーニュの南端で酒と穀物の集積地、シャロンに辿り着いた。一部の部隊はここに駐留し、また日も傾いていたので全体としても一睡することにした。
マラトは町で最大の宿に入ったが、ここで数日前の時事を知る。
「カルロス陛下が、崩御なされました」
宿の主人からきかされる。周りの兵士も落胆したが、最高司令官でないだけショックも小さい。
だが少年に苦しみは纏わりつく。
脊椎の最深部が揺れ、一方の体は固まった。
スペインの暦ではあと一週間で新年となる。
今日建国されたブルゴーニュ伯国もそれに合わせた。駐留部隊は都となるモンバールに入り、スペイン出身の貴族を守る。
広場のマラトは、おもむろにサラセタに乗り込んだ。歩いていくと一人の兵士がついてくる。
「指揮官殿、どこへ行かれるのです」
「もう指揮官は交代した。任務は終わり。この子とサラゴサに戻るよ」
「左様でございますか」
すると、通り右手の食堂がとんでもない騒ぎになっていることに気付いた。
「確認しにいこう」
「私も」
マラトはサラセタを降り、待てを命じた。中へ入っていく。
「ちょっと。どうしたんだい」
保安官の制服が視線を集めると、一人の男が前に出てきた。
「結婚したんだよ。イングランドのエリザベスとトルコのスレイマンが」
「はっ?」




