第1章 26節 「軍拡競争」
宿はプラハの中ではかなり簡素だった。部屋は床とベッドと椅子だけで、その寝床も布で覆っただけで枕はない。馬を繋ぐ空間があったのでここにした。
開かれた脚の間に天井の残骸が落ちた。顔を見せていたエレータは引っ込むと足を見せ、飛び降りてくる。
マラトは膝を立てて両手に抱えた。
「エレータさんが弁償してよ、これ。嫌だよ他人のせいでお金払わされるなんて」
「金は払うからお前が謝ってくれ、頼む」
差し出された銀貨を受け取り、顔を背けてから舌打ちした。ポケットにしまう。
「で、何の用」
「他でもないサルナちゃんについてだよ」
窓の扉を開けて景色を見詰める。
「明日から会えなくなっちゃうよ、いいのかい」
「いざとなればロシアまで行けばいい」
エレータは、思わぬ返事にこちらを見て固まった。マラトもそれに気付いて頬を赤らめる。
「素敵だ」
「別に」
扉を閉める。
「でも簡単に言うけどね。そうこうしてるうちに恋に落ちちゃったら、どうする。貴族の女の子なんてすぐ結婚しちゃう」
「じゃあ何? 明日プロポーズしろっての」
「そんなに急ぐ必要はない」
エレータは一枚の紙を取り出した。マラトに渡す。
「フランスの、正確にはイングランドのカレーで新しい大砲のお披露目会をやるらしい。そのあとブレスト、ボルドーにも行く。わざわざ大陸でやるってことはそういうこと。これぐらいしか思いつかなくて悪いけど、この間に季節の挨拶と礼儀作法を教わりなさい」
「でもどうやって」
「頑張れ」
そう言うと穴に跳んでしまった。最後に手だけ振って去っていく。
マラトはまた大の字になった。
「サルナ」
翌朝、保安官は緑の制服をきっちりと着こなし、外に出る。サラセタに牧草を食わせ、朝食を探しに歩き出した。
広場に愛馬を待たせると飲食店に入った。スープとパンを頂き、最後の一切れをサラセタに渡す。
遠くでポンチョの少女が腕を組んでいた。
「サルナっ」
思わず大声で歩み寄ってしまう。向こうは苦笑してきた。
「またお前か」
「ウサギがいて目立つから」
そう言って腕に抱かれた子の頭を撫でてみる。肩と頭からも前のめってきた。
「やれ」
言われた通りにもふもふしてやる。
マラトは腕を引いた。
「お迎えを待ってるのかい」
「それが」
幅の広い通りを見詰める。プラハ城が建っていた。
「その迎えが盗賊に襲われてしまったらしい。ボヘミアの保安官が死体を発見した。1人だけで帰ってやろうか」
「それは危ないでしょ」
サルナは反抗するように首を向けてきた。
「道の分からん者を連れても荷物だ」
「じゃあ」
すとんと指を立てる。
「新しいお迎えが来るまで暇潰ししよう。カレーでイングランドが大砲のお披露目会をするらしい」
全く大胆な話にサルナは顔を押された。まばたきする。
「何だ、それ」
「敵国の戦力を調査する絶好の機会かなと」
「一応ロシアにとっては敵ではないのだが」
だがサルナはプラハ城を見上げた。あそこにエリザベスがいる。
「まあ帰っても暇だ。行ってみよう」
2人は馬に乗って歩き出した。
プラハの町を出ると脇腹を蹴って駆ける。ウサギたちがそれに合わせて走った。
小麦を待つ畑を流れ、森や牛の点在するドイツの平野が続く。同じく暖かい雲が青空を彩った。
「なあ」
保安官はサルナの方を見る。
「次の町に着くまで競争しないか。お前の戦力もしっかと分析しておきたい」
マラトは笑いながら首を傾げた。だが頷く。
「楽しそうだし。あの木を過ぎたらスタートしよう」
両者は減速し、精密に足を揃える。
声も揃った。
「よーい」
合図と共に飛び出す。譲らない展開のまま山地に突入した。
森を刺すように通り、木漏れ日の累計に乗じて加速する。草花が散った。
山頂を越える。
「サラセタっ」
マラトは木に跳んだ。そのまま幹を蹴り、高度を上げていく。2本飛ばしに達した。
だが方向感覚を失ったか、右に逸れていく。サルナは一瞬だけそれを見ると更に速く草花を殺した。
サラセタが枝に乗る。
樹冠をくぐるように突き抜けた。落ちたり跳んだりするが音速で幹を交差して強行する。
最も短い本質の道から、宙に飛び出した。
川に着水する。中程度のそれからすぐに跳び上がった。
踏み鳴らされた道に戻ると、背後からサルナが出てきた。
一瞬だけ腕を振って猛追から顔を背ける。
そのまま通りに入って急停止し、今度は勝利を収めた。




