第1章 1節 「終わるティーパーティー」
マラトは目を覚ました。
真夜中まで光っていた瞳は健かに朝日を吸い込むが、広背から脚にかけて疲労の悪魔が嚙みついている。
伸びをしてそれを振り払った。緑の制服をベルトで着こなし、右襟に飾緒を一本止める。麗しい横顔が光を受けて窯へ火を吹き込むと、曲げられた脚が長い靴によく似合っていた。
豆のスープを一口に飲み干すがパンは端くれのみをかじる。片手で剣を携え、食べながらに仕事場の交番へ繰り出していった。
1558年。16歳のマラトはブルゴスでは有名な保安官となっていた。昨日の夜警も鋭く、物乞いから服を剝ごうとする盗賊をほとんど一瞬で縄にかけた。町の復興をまさしく水面下から支えている。
交番に着き、愛馬のサラセタに最後の一切れを食わせてやる。鼻息で寝癖っぽい髪がなびいた。2回整える。
中に入ると、年上の男たちがペンを走らせ、うちの一人が手を挙げた。
「マラト。おはよう」
「おはようございます」
欠伸をしながら返すと彼は前に出てくる。マラトに紙を手渡した。
「読み上げてみろ」
エリザベス女王のカトリック教会違法化に伴う勅令
「どういうことですかっ」
マラトは二度見もせず真っ直ぐに先輩を見詰める。
平和の願いを叶えてくれたイングランドが神の愛を捨てるなど、あり得ない。
「どうやらスペインに喧嘩を売るつもりらしい。イングランドの教会財産は全て国王のものになってしまった。我らのフェリペ陛下もご立腹で、国内のイングランド人を全員逮捕するよう命じられた」
「そんな」
マラトは声を縮めた。戦争の記憶が薄く圧をかけてくる。
後ろの保安官も立ち上がって机に手をついた。
「こんなことになるとはなぁ。もう少しメアリが長生きしてくれれば、カトリックも定着したろうに」
少年は、大切な何かが失われていくのを感じた。あるいは見えなくなるだけかもしれない。飛んで火に入る夏の虫のような、情熱の戯れ。
しかしマラトは首を振った。
「こうしちゃいられない」
紙を机に置き、壁から小銃を取って背負う。左腕にのみ鉄の防具を通した。
「どこへ行くつもりだ」
同僚全員がマラトの後を追う。彼は馬を柵から外し、乗り込んだ。
「戦争のときイングランドから物資を受け取っていたサンタンデルの港です。今も多くのイングランド商人が住んでいるはず」
「国に帰してやるつもりか? 無茶だ。勅令に反するぞ」
同僚はマラトを思って視線を込めるが、彼には覚悟がある。
「命令より平和を守るのが保安官の仕事です」
言うが早いか馬の脇腹を蹴り、北へ走り出してしまった。
ブルゴスからサンタンデルは今日中に辿り着く距離だが、カンタブリカの強靭な山を越える必要がある。なだらかな入口もやがて傾斜を極め、風雨に溶かされた大地は枝のように分かれだした。足場の岩道は鋭く谷を見下ろし、向こうの幾多の脈は、信じられないほどの巨木が山に倒れ掛かっているようにも見える。
しかしマラトは脇腹を蹴った。小さく飛び出た岩を順に踏破させ、登るうちに二段飛ばしさえ習得してテンポを上げる。
遠く右隣に絶壁の岩が孤立するのを見た。
「サラセタ、あれを見晴台にしよう。ちょっと待ってろよ」
マラトは左脚を上げ、その膝と両手でバランスを保つ。
勢いよく剣を抜いた。
見事なタイミングで岩に移ってぶら下がった。サラセタも慣性が静まれば戻ってくるだろう。剣を踏み、あとは高速の腕力で絶壁の果てを目指す。
頂上からは、走っていた道が小柄らしく、その峠を見ることができた。マラトは大量の導線から本質を見極め、何度かルートをなぞって覚える。最後に麓の森を睨んだ。
岩を跳ねて降り、剣を抜く。ちょうどサラセタに乗ることができた。
「もうすぐ下りだからね。行くよ」
騎兵は一段一段で勢いをつけると速度を上げた。
峠を越え、最良の道を下っていく。スムーズに森に突入し、平野に飛び出し、いよいよ畑と家々が散見されるに至った。
「もうすぐだ」
伸びをしてそのまま畑を見回すと、影は大して長くなかった。
舗装された道に入り、馬を降りる。サンタンデルもまた復興の目覚ましい都市だ。住民は金属の扱いに明るく、マラトと年の近い男女はほとんど鉄を打ち、西インドの広大な土地を拓くための礎となっている。
広場に着くと目の前が港だった。人々が集まり、海を見ている。
「サラセタ、ここで待っとけ」
注意深くてのひらを見せ、群衆を分け入っていく。
背伸びしながら前進すると、マラトの顔が引きつった。
一隻の商船が海上にあり、数十人が縄で縛られている。船員が一人選んで連れ出すと、後頭部を抑えて海に直面させた。
「やめろー!」
マラトは剣を抜いて群衆を退かせた。銃を構える。船員も連なって対抗するが、船長らしき男が前に出てきて制止した。大声を張る。
「おい。その制服は保安官だろう。安心しろ。こいつらはイングレス人だ」
「ふざけているのか? そいつらを落とせば、戦争になるんだぞ」
マラトは銃を向けて問い掛けた。しかし肝は据わっている。
「諦めろ。終戦のときから英西関係は悪化の一途。メアリのときからポルトガルの海運事業を支援し、代わりにカトリックの布教を禁じていた。イングランドはそういう国なのだ」
マラトの背中に保安官が近づく。
それをかわして腕を掴んだ。群衆に向けて抑え込み、銃を掲げる。
「みんな。この恐ろしい武器のことを忘れてはならない。もはや、誰でも簡単に人を殺せる時代になったんだぞ。町は燃え、恐怖と本能が鋭く感染する。誰がこの戦争の勝者となれるのか」
しばらくの沈黙。女の声がそれを破った。
「戦争ー、反対!」
一つあればすぐに本音は解き放たれる。
「そいつらを帰してやれ」
「前の戦争で父さんが死んだんだ」
「サンタンデルと平和が好きだ」
群衆が詰め寄ると、船長は腰に手を当てた。下を向く。
歩き回り、かと思えば縄をほどいた。
「分かった。こいつらは俺たちが送ってやろう。戦争にならないよう女王に掛け合ってみる」
「ありがとうございますっ」
中心のマラトが頭を下げ、全員で彼らを見送る。
保安官が自分の服を払った。
「いやぁ青年よ。君の考えには賛成なんだけど、これは勅令違反だ。君を王都まで連行しなきゃならない」
群衆は心配な顔をするが、マラトは爽やかに見回してやる。
「大丈夫。そうなる覚悟でやったから。行こう」
手首を出し、簡潔に縛ってもらう。
「向こうに馬がいる。それでここまで来たんだ。そいつも運んでやってくれないかな」
カンタブリカを遥か遠回りの道も寂しくはないだろう。




