第三曲 こさめ
昇降口を出たら小雨がぱらついていた。ひどい雨ではないが、駅まで距離があるので傘は差さないと濡れる。吹いた風で譜月の黒髪が揺れ、頬を撫でた。湿度の高い外気に触れた髪は、若干重みがあるように感じる。
梅雨だしね。
衣替えがすぎて、ライトブルーのシャツは半袖になった。梅雨が明ければ暑い夏がやってくる。夏休みはなにをしようかとわくわくする。その前に期末テストがあるけれど。
スクールバッグからネイビーの折りたたみ傘を出して広げる。地面は軽く濡れていて、湿った夏のにおいがする。帰るまでにひどくならないといいな、と歩き出した。
「譜月!」
校門に近くなったところで背後から名を呼ばれ、振り返る。同時に傘の中に飛び込む人影があった。ぶつかってくる勢いなので慌てて身体を引くが、人影は追いかけるように身を寄せてくる。
「拍翔?」
「入れて」
笑いながら、譜月から傘の持ち手を取りあげる。雨がかからないように傾けてくれて、狭い傘の中でふたり並んだ。整った顔立ちの友人は、わずかに濡れた茶色の髪をかきあげる。なるほど、水もしたたるいい男とはよく言ったものだ。感心するくらいに様になっている。昇降口からここまで走ってきたのだろうか、シャツの肩にも雨粒がのっているので払ってあげた。制服さえスタイリッシュに着こなすのだからすごい。
「拍翔なら、他に入れてくれる女子がいるんじゃないの」
朝昼放課後と、時間さえあれば告白される拍翔だ。女子は喜んで「いいよ」と言うだろう。なにも平凡な譜月の狭い傘に入ることはないし、きらきらとした可愛い女子の傘に入ったほうが楽しいのではないか。思ったままを言うと、拍翔は唇を尖らせた。少し幼い仕草に愛らしさもあるが、基本はイケメンだ。
「可愛くねえの」
譜月は男だから、別に可愛いなんて思われなくていい。でも可愛くないとはっきり言われると、それはそれで面白くない。今度は譜月が唇をむいと尖らせる。
「どうせ可愛くありませんよーだ」
「そんな可愛くない譜月の傘なら、気遣わなくていいじゃん」
「はいはい。ひどいことを平気で言う友を受け入れて差しあげましょう」
ふざけた言い方をすると、拍翔も倣って「ありがたき幸せ」なんて冗談めかして返してくる。ふたりでふっと噴き出して笑い、ゆっくりと歩きはじめた。
地面は先ほどより濡れていて、アスファルトの色が濃くなっている。緑の葉にもしずくがのっていて、きらりと光って見えた。
「でも本当に、俺の傘は折りたたみだから小さいよ」
「いいよ。濡れなきゃ問題なし」
傘を持つ拍翔のペースで歩く。脚の長い彼が、譜月に合わせてくれているのはすぐにわかる。いろいろ言っても、拍翔は本質が優しい。だから友だちでいられるのだ。
「腹減った。譜月、なんか持ってない?」
「急に言われてもなにも持ってないよ。それに、お昼すごい量食べてたじゃない」
「だって成長期だから」
拍翔の場合は真実味がある。高校入学時には譜月と同じくらいの身長だったのに、二年生の今は顔を見あげないといけない。高身長のイケメンは本当に存在するらしい。ちなみに譜月は去年から二センチしか背が伸びていなくて、差がありすぎて悔しいとも思えない。
「譜月は期末対策どんな感じ?」
「いつもどおり、苦手なところを重点的にやらないとなとは思ってる。中間でも、つまずくだろうなってところで、しっかりつまずいたし」
「見てやろうか?」
高身長のイケメンでさらに頭もいいなんて、いろいろ持ちすぎの気もする。それでも人懐こい笑顔と穏やかな性格が周囲を寄せつけるので、拍翔は友だちが多い。休み時間にはいつも男女問わず拍翔の席に生徒が集まり、談笑をしている。そんなときに譜月が入れなくてひとりでいると、拍翔は輪の中心から抜けて声をかけてくれるのだ。
「いいよ、拍翔は自分のやりなって」
「遠慮しなくていいの。人の勉強見るのは自分のためにもなるし」
だから明日放課後な、と約束を取りつけられ、悪いと思いながらも頷いた。「ありがとう」とつけ加えておく。
ふと右隣にいる拍翔を見たら、高い位置にある右肩が濡れている。譜月のほうに傘を傾けてくれているから、雨がかかっているのだ。
「拍翔、もうちょっと寄って。肩濡れてるよ」
「えー、どきどきしちゃう」
「馬鹿」
譜月相手にどきどきなんて、ありえない冗談を口にした拍翔は一歩近づいた。なるべく濡れないように、譜月も身を縮めて拍翔に寄る。
「いいこと思いついた。俺が譜月を抱っこすれば、ふたりとも濡れないかも」
「はあ? って、ちょ……」
本当に抱きあげようとするので、慌てて逃げた。勢いで傘から出た譜月に、拍翔は笑いながら傘を差しかける。それでも警戒心をむき出しにしていると、拍翔が少し眉をさげた。
「悪い悪い、冗談」
「悪いなんて思ってないでしょ」
「ばれたか」
いたずらっぽい笑顔を睨みつける譜月に、本当にもうなにもしないよ、と拍翔は手招いた。おそるおそるまた傘の中に戻り、抱きあげられないことを確認してから、先ほどの位置に立ってふたりで歩く。
距離が近くて身体が軽く触れる。雨は傘に落ちても音がしないくらいの小雨で、さらさらと舞うように空から降ってくる。大雨も嫌だけれど、こういう中途半端な降り方もなんとなくすっきりとしない。まとめてひと息に降ってからっと晴れてくれたらいいのに、なんて自分勝手なことを考えてしまう。天気にも天気の都合があるのだろうから、そんなに簡単にはいかないとわかっている。
話題がないわけではないが、拍翔とは無言でいても気まずくない。なんの会話もなく歩き、ただ前だけを見る。相手を気にしなくても空気が重苦しくならなくて、そばにいてとても楽なのだ。
雨はやみそうでやまない。強くもならない。
「てかさ」
拍翔が沈黙を破る。
「なに?」
顔を見あげると、拍翔はどこか決まり悪そうに、唇をへの字にして「うん」と言う。
「どうしたの?」
なにか相談ごとだろうかと緊張すると、拍翔が傘を軽く揺らした。ふたりの頭上でネイビーの傘がかくんと揺れ、譜月は首をかしげる。
「実は俺、傘持ってる」
「え?」
「ほら」
拍翔がスクールバッグから黒い折りたたみ傘を出し、こちらに見せてくる。朝の天気予報で午後からは雨具があったほうがいいと言っていたから、同じ番組でなくても、どこも似たようなことを言ったに違いない。譜月もそれで折りたたみ傘を持ってきたのだ。計画的な拍翔が傘を持っていないはずはないと、今さら気がつく。
「じゃあ、なんで自分の傘差さないの?」
なにも狭い傘にふたりで入る必要はないのに。
拍翔は折りたたみ傘をまたスクールバッグにしまい、斜め上を見てから譜月に視線を向けた。目が合い、相手は困ったように微笑む。なぜか胸がどきんと鳴って、自分で不思議に思った。
「譜月と同じ傘に入りたかったんだ」
「え?」
意味がわからず聞き返すと、拍翔は「わからないならいいよ」と先ほどのように眉をさげて笑んだ。
「また次の雨のときも、この傘に入れてよ」
まさか、もしかして、と思うと同時に、そんなことがあるはずない、と打ち消した。情けない表情を見せる拍翔に胸が疼く。心のくすぐったさをこらえ、目が合ったまま立ち止まると、拍翔も歩みを止めた。
「譜月?」
もういつもどおりの顔に戻った拍翔は、不思議そうに譜月を見る。今度は譜月のほうが落ちつかない。自分のうなじを手で軽く撫でてから整った顔を窺うが、やはりいつもどおりだ。
「ううん」
首を横に一往復振って、また歩き出す。拍翔も足を踏み出した。なんだかむずむずする。
「そのときは長傘かもよ」
ひどい雨だったり朝から降っていたりしたら、長傘の可能性のほうが高い。
「俺は折りたたみがいいな」
「なんで?」
長傘のほうが広くて濡れないのに。
「譜月とくっつけるから」
柔らかい笑顔を浮かべた拍翔は、傘から手のひらを出す。
「雨、やんできたかも」
「あ……」
たしかに空が明るくなっているし、先ほどまで舞っていた小さな雨粒が見えない。同じく駅に向かう周囲の生徒たちも、傘から手のひらを出して確認し、ひとり、またひとりと傘を閉じていく。色とりどりの傘の花が閉じていき、どこか物悲しさを感じた。
「いいじゃん、また降るかもしれないし」
傘の持ち手を奪い、高く掲げる。拍翔の頭が当たらないようにすると、腕をあげたままでいないといけない。腕をあげた状態で傘を差す譜月の手から、拍翔がまた持ち手を取りあげた。
「俺が差すよ。こういうのはでかいやつに任せとけ」
「でかすぎだよ。また背伸びたんじゃない?」
こうして並ぶと背の高さがはっきりとわかる。成長期にしても伸びすぎだ。
「俺が自分で伸ばしてるわけじゃないから」
「それはそうだね」
互いに苦笑して歩を進める。なんとはなしに隣を見ると目が合った。沈黙があり、なぜか居心地が悪い感じがする。拍翔といてこんな変な感覚になるのは、はじめてだ。
「雨っていいな」
ようやくというほどではないのに、沈黙を破ってくれた拍翔の呟きに心底ほっとした。雨はそんなに好きではないけれど、不思議と頷きたくなって首肯する。
歩いていたら、また小雨がぱらつきはじめた。
今度は先ほどよりもう半歩分、拍翔のそばに寄った。
(終)




