第二曲 つじつまあわせ
今日も時間どおりに起床、いつもどおりの朝食を食べて制服を着て、いつもと同じ時間に家を出る。いつもどおりができることは、里音にとって重要だ。不測の出来事は回避したい。予定どおりにいかないことが怖い。
「おはよ、里音」
駅に向かっていると、幼馴染の風雅が背後から声をかけてくる。風雅も時間どおりの行動だ。おはよう、と挨拶を返しながらほっとする。幼馴染は今朝も変わらず高身長で恰好いいし、里音も変わらず平凡だ。すべてがいつもどおりで、想定外のことはない。
風雅のさらりとした黒髪を見るたびに羨ましく思う。里音は自分の栗色のくせ毛が好きではない。雨の日の跳ね方なんて手に負えない。幼い頃には、髪を交換してほしくて泣いたほどだ。
一日は予定どおりにはじまったのに、学校についてから予定外のことばかりだった。いつも声をかけてくるわけではないクラスメイトが挨拶をしてくれたり、今日は授業で当たる日ではないのに予定外に当たってしまったり、購買で予定どおりのパンが買えなかったり。里音がおかしいのかもしれないけれど、予定と違うことが起こるとその都度ひどく動揺する。
学校帰りに、高校生のカップルが手をつないで歩いているのを見かけた。これも予定外だ。でも、なんとなくふたりをじっと見てしまった。
いいなあ。
里音は恋なんてできない。恋は不測の連続だ。
なぜこんなにも予定どおりがいいのか、考えてみたことがある。これというはっきりとした理由はないのだが、里音は幼い頃から計画が苦手だった。次の日に着る服を出しておかなくて当日焦ったこともあるし、翌日使う教科書などをきちんと用意しなかったことで困ったこともある。出かけるときには、電車の時間どころか家を出る時間さえ考えないという無謀ぶり。
それが関係しているのではと思う。あまりに計画が苦手だから、先にすべての予定を立ててそのとおりにすることで、自分が受けるダメージを回避しているのではないだろうか。たぶんそうだ。用意すべきものを用意していないことで何度困ったか。思い出しても寒気がする。
今日は学校帰りにコンビニに寄ろうと思っていたので、そのとおりにした。でも買う予定だったものが売り切れで、なんとか予定に近づけようと思い、リング綴りの小さいノートを買った。
『コンビニで買いものをする』という予定のとおりにはなったが、なにに使うかが決まらない。こういうことも苦手だ。なにも買わないほうが予定に近かったかも、と後悔しながら、机に置いたノートを眺める。
なにに使おう。
せめて学校で使うノートと同じサイズにすればよかった。手のひらサイズでは、どう使ったらいいかわからない。
「はあ……」
予定どおりにしようとしてもうまくいかない。思い返すと、うまくいかなかったことばかりだ。でも自分の行動の予定を作っておくのは、悪いことではないと思う。
「そうだ」
悩んでいたらふと頭によぎった考えにひらめく。未来手帳をつけよう。今みたいに一、二日先の予定ではなく、もっと先の未来までの予定だ。
ノートの表紙に大きく『未来手帳』とタイトルを書いた。
未来を書きはじめたら止まらなかった。まだはじまったばかりの高校生活。今後を想像すると、とても楽しい。二年半後に高校を卒業して、大学に入学してキャンパスライフを楽しんで。次々未来を想像する。
「……」
手が止まり、なんとなく今日からちょうど一週間後に『素敵な人と出会う』と書いてみた。恋に落ちる予定日だ。それから告白してオーケーをもらい、つき合ってデートをする。デートの行き先は――。
書き綴った未来を読み返し、この手帳のとおりになるようにしよう、と決める。そうすれば恋もできる。自分で予定を立てた恋なら怖くない。
うまくいくだろうと思ったけれど、現実は予定どおりにいかないことばかりだと、里音はよく知っているはずだった。それなのに、予定を立てたからそのとおりにしたい。
素敵な人と出会うって、誰と……?
恋に落ちる予定日になっても、一向に出会いの気配がない。そもそも、そんな出会いがあったとしたら、それ自体が不測の出来事だ。
「おはよ」
「おはよう」
いつもどおりに声をかけてくれた風雅に挨拶を返し、またもひらめく。風雅を好きになろう。知らない誰かと出会うより、もともと幼馴染として好意を持っている風雅が相手ならば好きになれるし、不測の出会いでおびえることもない。いろいろな点で里音にぴったりのいい相手だ。
「また考えごとか。くだらないこと考えてんじゃないだろうな」
「くだらなくなんてないよ」
里音の未来を左右する、重要なことだ。
好きになるんだ。こういうちょっと意地悪なところもいいなって思って。
風雅はもてるから、よく告白されている。理由は知らないが告白をすべて断っている彼でも、里音が頼み込めばきっとつき合ってくれる。いろいろと言いながらも、風雅は昔から里音のお願いを無視したことがない。幼馴染のよしみという風雅に甘えきった考えだけれど、どうしても予定どおりの未来がほしかった。
「風雅、僕とつき合ってください」
「は?」
「僕、風雅が好きなんだ」
「……」
突然の告白に、風雅は固まった。一瞬困ったような顔をしたが、それでも「いいよ。つき合おう」とオーケーをくれて、幸先のいいスタートを切った。
恋に落ちる予定日に風雅を好きになると決め、告白をしてオーケーをもらった。だからそこはクリアしている。でもその先が難しかった。一生懸命好きになろうとするのに、幼馴染への『好き』と恋愛の『好き』の違いもわからなくて、徐々に焦りが起こりはじめた。
ちゃんと風雅を好きにならないと。恋人なんだから……好きにならないと。
そうしないと、予定どおりの未来が崩れるかもしれない。考え込む里音に、風雅は心配そうに眉を寄せた。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
「なにか心配なことがあるなら相談しろよ。聞くくらいなら俺にもできるから」
幼馴染として一緒にいたときよりずっと優しい風雅は、いつも里音を気遣ってくれる。彼の優しさに触れるたびに、つじつま合わせをしている自分が嫌になってくる。唇を噛んだ里音に、風雅はいっそう心配げな顔をする。
「里音は馬鹿なこと考えるときがあるからな」
「……ごめん」
そのとおりだ。今気がついた。里音が恋を予定どおりにすることで、風雅の本当の出会いが妨げられているかもしれないのだ。それは風雅の未来を狂わせていることになる。
どうしたらいいのだろう。考えれば考えるほどに自分が嫌になっていく。こんなふうになりたかったわけではない。
予定どおりに恋人ができて、予定どおりのことができている。それがどんどん怖くなっていく。自分が作り出した予定を強行することは、風雅だけではなく、他の誰かの未来をも歪める行為なのかもしれない。
机の引き出しから未来手帳を出す。ぱらぱらとページをめくり、書き込まれた文字に眉をひそめる。こうやって作った未来が本当にいいものなのか――いだいた疑念を決意にして、未来手帳をごみ箱に入れた。
やめよう。
「里音、風雅くんが来てるわよー」
階下から母の声がして、はっとする。風雅に本当のことを言わないといけない。
「うん。今行く」
母に返答し、胸に手を当てて決意を再確認する。風雅に本当のことを話して、許してもらえなくても謝って別れよう。二度と笑いかけてくれないかもしれない。もう顔も見たくないと言われる可能性もある。それでも悪いのは里音なのだから受け入れる。風雅をこれ以上巻き込みたくない。
二度と――想像したら、つきんと胸が痛んだ。痛みは全身に広がり、引き絞られるように心も身体も痛んで苦しくなる。
「どうした?」
おりていく里音を待てなかったのか、開けたままの部屋のドアを風雅がノックした。慌てて振り向き、首を横に振る。
「なんでもないよ」
風雅の顔を見たら心がふわりと軽くなり、温かくなる。微笑みを向けてもらうと、陽だまりにいるような優しい気持ちに包まれた。
もしかして……これが好きってことなのかな。
予定どおりにいくなんてあるはずがない。恋は不測の連続だ。いつの間にか風雅を本当に好きになっていたことに、今さら気がついた。
結局その日は別れを切り出せず、夜はいつまでも眠れなかった。明日こそは、と真実を伝えることへの緊張と自分のしたことに対する後悔、今さらの恋情に押し潰されそうだった。
翌日学校から帰ったらすぐに隣の家に向かった。予定外の訪問でも風雅は部屋にいたけれど、今は留守にしていてほしかったなんて、どこまでも自分勝手だ。
「どうした? 珍しいな、突然来るの」
「うん……」
風雅を解放しないといけない。本当に好きになっていたとしても、きちんと話して別れるのだ。それが風雅のためで、里音に唯一できることだ。
「僕たち、別れよう」
風雅はなにも答えない。ただ真剣な瞳を向けてくる。気まずい沈黙の中で、真実を告げるために口を開く。
「僕、予定どおりにしたくて風雅に告白した。恋に落ちる予定日までに相手が見つからなくて、風雅なら幼馴染として好きだからって思って。……全部予定どおりにしたかった。でも」
今はそれがとても怖い。好き勝手に作った未来がこなかったことに、ほっとしている。だって、そんなのは間違っているから。
どう伝えたらいいかわからず言葉を続けられない里音に、向かい合う風雅がじっと視線を注いでいるのがわかる。緊張から一度唾を飲み、なんとか言葉を絞り出す。
本当は、こんな自分であることを説明することが怖い。風雅に嫌われるなんて、想像もしたことがない。いつでもそばにいて、笑いかけてくれる存在。その優しさに甘えてこんなことをしたけれど、風雅に迷惑をかけたかったわけではない。ただ恋がしたかった。
「そんなの違うってわかったんだ。恋や未来を予定どおりにするなんて、間違ってる。だから……別れたいんだ」
「予定どおりにしないなんて、里音らしくないな」
「え?」
風雅はゆったりと動き、自身の机の引き出しから、里音が捨てたはずの未来手帳を取り出した。似たノートかと思ったが、表紙に『未来手帳』と書かれている。たしかに里音が捨てたものだ。
ぱらぱらとページをめくった風雅は、未来手帳から里音へ視線を移した。
「別れるなんて書いてない。ずっと仲良く、幸せに一緒にいる未来だけだ」
「それは……違うんだ。そんなふうになっちゃいけない」
そんなふうにしてはいけないのだ。だってそれは里音が作った未来で、正しいものではない。正しい未来では、きっと風雅は正しい相手と出会って、きちんと恋をして幸せになる。考えただけで胸が痛いけれど、この痛みは自分が生んだものだ。手のひらに爪を立て、胸の痛みをごまかす。風雅はそんな里音に、ただ優しい視線を送ってくれる。
「最初から知ってたよ。里音になにか目的があって、俺を選んだこと」
「え……?」
「まさか、恋に落ちる予定日なんて作ってるとは思わなかったけど」
きゅっと唇を噛む。そんなことを考える時点で間違っているのは、今ならわかる。
「里音のことだから、予定どおりにならないことが嫌なんだろうってのはわかった。それがなにかはわからなくても、里音には計画があるんだろうって」
「なんでそんなことまでわかったの?」
里音のこれまでの言動から読み取ったにしては、わかりすぎている。まるで心の中を知っていたかのような言葉に、疑問をいだく。
「それくらい、ずっと里音を見てたから」
なにを言われているかわからなくて、たぶん相当間抜けな顔をしていると思う。それでも風雅は笑ったりしなかった。
「俺は里音に選んでもらえたことが嬉しくて、自分からはなにも言わなかった。里音が立てた予定はたぶん幸せだらけだろうから、その予定どおりにいけば、里音とずっと一緒にいられると思ったんだ」
自身の気持ちをまっすぐ正直に話してくれる風雅に、こんなときなのに胸がきゅんと疼き、鼓動が高鳴った。頬が熱を持ち、視線が勝手に泳ぐ。嬉しい言葉だけれど、でもだめだ。それはいけない。
「僕は風雅にひどいことをしたんだよ」
「だから?」
「え?」
「俺も里音の目的を利用したんだし、お互いさま」
なんでもないことのように言って微笑む風雅に唖然とする。いいはずがない。お互いさまなんて言葉ですませてもらえることではない。それなのに、風雅は心底幸せそうに目を細める。
「本当のことを話してくれたのは、どうして?」
「……それは」
「自惚れ覚悟で聞くなら、俺を好きになったからじゃない?」
「……っ」
かあっとさらに頬が熱くなった里音に、風雅は「やっぱり」と楽しそうに笑った。両手で頬を押さえると、手にも熱が伝わるくらいに顔が火照っている。
「俺は、危なっかしくて放っておけない里音がずっと好きだったんだ。だからいいんだよ」
「でも」
それでいいのだろうか。風雅に甘えてしまうだけではないか。これまで、幼馴染としても、『予定どおりの恋愛』でも迷惑をかけてきた。これ以上彼に負担をかけるのはよくない。そう思うのに、風雅を拒む言葉は口から出せない。
「気持ちがすっきりしないなら、もっと俺を好きになってよ。この結果を選んでよかったって思えるくらい、めちゃくちゃ好きになって」
手を取られ、ぴくんと指先が震える。こんなふうに触られたのは幼い頃以来だ。手も頬も熱くて風雅を見られない。風雅は少し笑って、握った手を軽く持ちあげた。
「今度はふたりで未来の予定を作ろう?」
それで、と風雅は里音の手をぎゅっと握る。どきどきが止まらなくて、ぼうっと風雅の顔を見あげる。視線が交わって、いっそう優しく目を細められた。
「予定どおりにいかなかったら、ふたりで悔しがって反省して、最後は笑おう?」
提案に首を横に振る。それはだめだ。
「……もう予定どおりじゃなくていいよ。未来はわからなくていい。怖くてもそれでいいんだ」
わからないから毎日は素晴らしいのだ。新しい一日になにが起こるのかを期待して目覚め、たくさんの経験に刺激を受ける。そうして日々をすごしていくのが正しく、また楽しいことだ。
「じゃあ、わからない未来を手さぐりで進んでいこう。ふたり一緒なら怖くないだろ? 俺、里音のそばにいたい」
すでにわからない未来がはじまっていることに、風雅は気がついているだろうか。だって、里音はここに別れ話をしに来たのだ。もう風雅を解放して、里音は自分のしたことを後悔しながら自宅に戻るはずだった。それがこんな結果になるなんて、絶対に想像できない。
「うん。風雅と一緒にいる」
わからないことは怖くない。不測のことだって、風雅と一緒なら楽しめる。どんな未来もわくわくの連続でしかない。
つじつま合わせではじめた恋は、予定外の展開になった。
(終)




