第十曲 よあけ
まだ寒い春の夜明け空の下、幼馴染の詩風とそれぞれの自転車で高台に向かう。こんな時間だけれど、詩風がどうしてもと言うのでつき合っている。帰ったらまた寝よう、と思いながら苦しい坂道をのぼる。先を走る律弥のあとを、詩風が追ってくる。
きつい坂道で火照った頬を、ひんやりとした空気が冷ましてくれる。律弥の黒髪が風にのり、肌をくすぐるように揺れた。坂道が急になるとペダルが重くて、こぐたびに息もあがる。呼吸をいっぱいに弾ませ、坂をのぼっていく。
夜明けの空気は透きとおっていて新鮮なにおいがする。すうっと深く吸い込むと、体内を巡って全身が澄んでいくようにも感じた。
背後から詩風の自転車のタイヤがきゅっと鳴る音がした。体格がよくて体力のある詩風でも、のぼり坂続きはきつそうだ。詩風でそうなのだから、運動が苦手な律弥に振り向く余裕なんてない。ただ脚に力を込めてペダルをこぎ続ける。
合格発表もすみ、四月から律弥は志望していた大学の学生となる。一歳下の詩風が次は受験生で、すでに志望校も絞っているとは言っていたが、どことは教えてくれない。頭がいい詩風のことだから、レベルの高いところを目指すのだろう。
「詩風、ついてきてる?」
「……」
「詩風?」
「ついてってるよ」
投げやりな言葉が返ってきた。いつも軽快によくしゃべる詩風が、今日は口数が少ない。どうしたんだろうと先ほどからずっと気になっている。
急勾配の坂がもうひとつあり、それをのぼれば見晴らしのいい高台につく。
「ついたあ」
自転車から降り、肩で息をする律弥の隣に詩風の自転車も停まった。
「坂道、こんな多かったっけ。めっちゃきつい」
自転車スタンドに足を引っかけながら、詩風がぶつぶつと言う。自分から誘ったくせに、と思ったが口には出さなかった。詩風が自身のミルクティーのような色の髪をかきあげ、大きく深呼吸をしている。その姿を横目に見て、律弥も真似して深く呼吸をする。
「りっちゃん、元気すぎ」
「受験から解放されて、身体も軽くなったのかも」
「ふうん」
面白くなさそうだ。口数が少ないし、なにか言うと憎まれ口ばかり。今日の詩風はやはり変だ。いつもはあれこれと話題を振ってきては楽しそうにしているから、違和感がある。
「どうしたの? なにか僕に怒ってる?」
「怒ってない」
そのわりには目を合わせてくれない。なんとなく寂しい思いをいだきながら、眠りから覚める間近の町を見おろす。
緑が多い高台からは、詩風と律弥の住む町から隣町までが見渡せる。空が白みはじめ、世界がぼんやりと見えて幻想的だ。眺めているあいだにも家々の明かりがついていく。
「……大学、なんで家から通わないの?」
「遠いから。この会話、もう百回くらいしてない?」
合格発表のあとからずっと同じ会話を繰り返し、そのたびに詩風は唇を尖らせている。
「百回しても納得できない」
「そう言われても」
ふてくされる詩風には困ってしまう。昔から詩風が拗ねたりいじけたりしていると、妙に心が落ちつかなくなるのだ。だからといって、できないことは言えない。ひとり暮らしをするアパートへの引っ越しも来週に迫っている。
「休みには帰ってくるよ」
「それじゃ足りない」
また唇を尖らせる詩風は年下らしくて可愛いけれど、それを言ったらきっと怒る。いつも律弥に並ぼうと一生懸命に背伸びをしていた詩風は、いつの間にか律弥よりずっと背が高くなった。今では律弥が見あげる側だ。
「でも、ずっと一緒にはいられないよ。僕も詩風も大人になって、それぞれやりたいことに進んで――」
「やだよ!」
言葉を遮られ、行き場を失くした声が吐息となって漏れた。仄暗い中、今にも泣き出しそうな詩風の表情がぼんやりと見える。こんなに近い距離なのに、詩風の考えていることがわからない。
「やだよ……りっちゃんと違う未来なんていらない……」
絞り出すような声に、胸がぐっと苦しくなる。詩風は昔から律弥のあとをついてまわって、「りっちゃん、りっちゃん」といつも一緒にいた。ずっとそばにいた律弥と離れることが心細いのかもしれない。
「僕は、なんて言えば詩風を安心させられるかな」
突き放したわけではないけれど、そう聞こえたのかもしれない。詩風は眉をさげて、整った顔を歪めた。泣きそうな心情を満面に表した詩風を安心させるように、努めて優しい笑みを向ける。
「詩風が大事だよ。でも、大学に行くのをやめて一緒にいるわけにはいかないでしょ?」
「……」
こくん、と頷いてくれて、それはわかっているのだとほっとした。大学に行くのもやめてそばにいて、と言われたら困り果ててしまう。
それでも顔を歪めたままの詩風はきつく唇を引き結んでいて、胸がきゅっと痛んだ。詩風が笑っていないとつらくなる。
「詩風が安心できること、言いたい。なんて言ったらいいかな」
「……大人ぶって」
悔しげな声に、そんなつもりはないよ、と首を横に振る。本当にそんな気は毛頭ないのだ。ただ心の底から、詩風に安心をあげたい。詩風がこんなふうに、歳相応の姿を素直に見せてくれることが珍しいので、気がつかずにお兄さんぶったことを言ったかもしれない。それでも本当に詩風に安心してほしい。だって詩風には明るい笑顔が似合うから。
「……『待ってる』って言って」
「え?」
「『詩風のこと待ってる』って言って」
どういうことだろうと首をひねると、詩風は瞳を揺らしながら律弥をまっすぐに見つめた。
「俺、りっちゃんが好き」
「うん。僕も詩風が好きだよ」
「そうじゃない。俺のは、りっちゃんを抱きしめたいとか、りっちゃんにキスしたいって意味の好き」
思わず目をまたたく。
「詩風?」
「俺、小さいときからずっとずっとりっちゃんが好きなんだよ。今言わないと、りっちゃんがどこかに行っちゃって、俺のこと忘れちゃう」
震える声に胸が痛む。どこに行こうと詩風を忘れることなんてないのに。それほどに詩風は不安なのだと思うと、心臓が掴まれたように痛んでじくじくとする。
「僕は詩風を忘れたりしないよ」
できるだけ穏やかに優しく声をかけても、詩風は眉をひそめる。また大人ぶってしまっただろうか。
「それなら言って」
唇をへの字にして、じっと視線を向けてくる詩風の真剣さにどきりとする。
僕もちゃんと応えないと。
それだけ好きでいてくれて、その気持ちを隠して律弥の隣にいたのだ。きっとつらい思いもたくさんしただろう。それでも離れずに、ずっと隣で笑っていた詩風に返せるものがあるのなら、返したい。
「詩風のこと、待ってる」
どういう意味を持つ言葉かを、聞いてから言うべきだったかもしれない。でもつい、雰囲気に流されたわけでないが、するりと口から出た。
「うん、絶対追いかける。俺もりっちゃんと同じ大学受けるから」
「えっ」
「約束だよ。待ってて」
ようやく少し表情がほぐれた詩風は、強がるように口角をあげて見せてくる。
「そんな決め方――」
だめ、と言いそうになって口を噤んだ。詩風がそうしたいと考えていることを止めるのもおかしいし、律弥と同じ大学でやりたいことがあってのことかもしれない。詩風の意志を頭ごなしに否定してはいけない。
「なにかやりたいことがあるの?」
そっと、なるべく静かな声になるように気をつけて口を開くと、詩風ははっきりと頷いた。
「りっちゃんのそばにいる」
言いきられても、それはさすがに止めないといけない。そんな考えなどおかまいなしに、詩風は誇らしげに胸を張る。
「俺がやりたいことは、りっちゃんの隣でしか叶えられない」
断言する詩風に、ゆっくりとした口調で問う。
「それはなに?」
「ずっとずっと、りっちゃんのそばにいること」
どうしようかな、と頭を悩ませる。ある意味ではまっすぐな告白をされているのだろうが、話が飛躍しすぎている。そもそも、律弥の気持ちは置いてけぼりだ。
「僕の気持ちは?」
「……」
「僕が詩風をどんなふうに思ってるかは、どうでもいいの?」
「……さっき、『詩風が大事』って言った。『詩風が好きだよ』とも言った」
また唇を尖らせるので、おかしくなった。なにに対しても一直線の性格がこういうところでも出るのかと、可愛くも感じる。でもそれを言ったら間違いなく拗ねる。「子ども扱いしないで!」といつものように文句を言われるのを想像したら、微笑ましくなった。
「しょうがないな」
息を吐き出すと、詩風の肩がぴくんと跳ねた。端整な顔が少し引き攣っているから、緊張しているのかもしれない。
「りっちゃん?」
「待ってるよ。それまで返事は保留」
ぱあっと顔を明るくした詩風の表情が、本当に眩しい。律弥が眩しさに目を細めると、詩風も同じ動きをした。詩風の顔が横から明るく照らされ、綺麗な肌や細い髪が白く光って見える。
「あ……」
光のほうへ目を向けると、視線の先には輝く太陽がすでに顔を出している。日の出を見ようと夜明けの時間に家を出たのに、話に気を取られて見逃した。
「もう、なんのために高台まで来たの」
律弥が噴き出すと、詩風も目もとを緩めた。
「りっちゃんがぶつぶつ言うからじゃん」
「ぶつぶつなんて言ってないよ」
無性におかしくて、ふたりで笑う。
世界に光がのぼり、白く輝く太陽は大地を照らす。町も眠りから覚めるときだ。地平線の向こうからまばゆい光を放つ太陽を、詩風と並んで眺める。
「俺がりっちゃんと同じ大学行ったら、また近くに住んで、今度こそ一緒に日の出を見ようよ」
「また見逃すかも」
「そしたらその次の日に再チャレンジ」
先ほどまでのように拗ねていたりつらそうだったりしない、明るい笑顔を向けられる。世界を照らす太陽よりもずっと身近にあって、いつも律弥の隣で輝いているのが詩風の笑顔だ。
「律弥のこと、絶対追いかけるから」
聞き慣れた声の耳に馴染まない呼び方に、さっと頬に熱が集まった。一瞬にして詩風が大人になったように感じる。
「……うん」
明るい空に視線を向ける。
太陽がのぼる空は見逃したけれど、違う光がのぼるところを見られた朝だった。
(終)




