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港にて  作者: 増瀬 司
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後編

 その日の放課後、小島は北原の家へと直接でかけることにした。メッセージを送ってみても、彼女からの返信がいっさいなかったからだ。


 以前、北原から彼女の家の大体の場所を聞いていたので、少年はそこを簡単に見つけ出すことができた。


 住宅街の一画にある、小綺麗な、二階建ての一軒家だった。


 インターホンを押した。


 しばらくして、「はい」と低い声が返ってきた。年配の男性の声だった。


 その玄関口から、白髪が半分ほど混じった男が現れた。黒縁のメガネをかけていて、年齢は50代の半ばほどだった。


 少年は、短く自己紹介をした。


 彼は、どこかホッとしたように、小さく吐息をつき、それから薄く微笑んだ。「君のことは、娘から聞いているよ……」




 少年は、居間に通された。


 居間には、仏壇があった。


 そこには、40代ほどの女性の遺影が置かれていた。細面で、どこか透明感があった。


 彼女は、北原にそっくりだった。


 「妻だよ」と北原の父親が、その写真を見つめる小島に対して言った。「十年前に、病いでね――」


 そういうことだったのか……と小島は思った。


 北原の父親は、二階の彼女の部屋へと上がっていった。しばらくして、一人で戻ってきた。「いまは、誰にも会いたくないそうだ」と彼は言った。


 ダイニング・キッチンのテーブルで、北原の父親と小島は、向かい合って座っていた。


 テーブルの上には、彼が入れてくれた紅茶が、ほのかに湯気を立てていた。


 彼は、例の事件について話してくれた。


 あの夜、北原は帰り道、人気のない通りを一人で歩いていた。


 そのとき、紺のミニバンが路肩に止まっているのが見えた。 


 北原がその横を通り過ぎようとしたとき、後部座席のドアが不意に開き、彼女は口許を押さえられ、そのなかへと引きずり込まれそうになった。


 辛くも彼女は、そこから逃げ出すことができた。


 その事件は「未遂」で済んだのだが、彼女は心理的なショックを受け、自室に籠もったまま、出てこなくなってしまったとのことだった。


 *


 自宅に戻った少年は、部屋でまた北原にメッセージを送ってみたが、やはり返信はなかった。


 スマートフォンを放り、ベッドの上に仰向けに寝そべった。


 その瞬間、小島の脳裏に、あのフラッシュバックがやってきた。


 彼は、そのとき逃げなかった。


 目を背けることをしなかった。


 それからその記憶に、真っ向から立ち向かおうとした。


 彼の頭のなかに、あの母親の姿が甦ってきた。


 それは強い苦痛を伴うイメージだった。


 しかし、そのとき、彼のなかにある氷の塊が、小さく音を立てた――


 彼の主観的な世界に立体感が戻ってきた。そして、その世界に重みが戻ってきた。


 そのとき少年が強く感じ入ったのは、深い無力感だった。


 小学生のあの日、何もできなかった自分自身の姿だった。


 そのころの自分の姿と、いまの自分の姿とが、彼のなかでオーバーラップしたのだ。


 「だけど、いまの俺なら……」と小島は思った。「何かできるんじゃないのか?」


 彼女が俺のそばにいてくれたことで、俺の心は救われたんだ。少なからず……


 少年は、ベッドから半身を起こした。


 それから、レースのカーテン越しに、暗い窓の外を見やった――


 *


 彼は、 例の犯人を見つけ出そうとしていた。


 その犯人を捕らえようとしたのだった。


 それくらいしか自分にできることはないと考えたからだ。


 北原の父親から、犯人の特徴は聞いていた。


 短い髪に縁のある眼鏡、黒い服という格好だった。歳は40代ほど――


 夜、暗くなると、小島は町中を歩いた。


 そして、例の特徴を持つ男と、その男の乗っていた紺のミニバンとを探した。


 その捜索は、時には隣町まで、そして深夜帯にまで及んだ。


 「俺はバカ野郎だな」と小島は思った。本物のバカだ――


 俺が何をしたところで、何が変わるというわけでもないだろう。焼け石に水だ……。素人がでしゃばらずに、警察に任せておけばいいんだ。


 それでも彼は夜の町を歩いた。


 常識もリクツも関係がなかった。そうしないわけにはいかなかったのだ。


 ある夜、町中を歩いていたとき、黒い服を着た中年男性を見かけた。


 髪は短髪で、眼鏡もかけているようにも見えた。


 少年はその男の後をついていった。


 そのような外見の中年男など、この町にはいくらでもいるだろうけれども、少年にはどこか気になるところがあったのだ。


 その男には、以前どこかで目にしたことがあった気がした。暗くて顔はよくわからなかったが、その背丈や体型、雰囲気などが、彼の記憶のなかの誰かと重なり合ったのだ。


 しかし、その男が角を曲がったところで、少年は彼を見失ってしまった。


 小島が、小走りでその角を曲がったとき、その男は姿を消していたのだ。


 奇妙な消え方だった。まるで尾行に気がついて、突然走り去ったかのような……


 しばらくして、小さな十字路を、紺色のミニバンが走り去っていくのを目にした――




 ある深夜、少年は海岸線を一人歩いていた。


 風のない、穏やかな夜だった。嵐の前の静けさのように。


 海岸沿いには、防風林が音もなく並んでいた。


 小島は真っ黒な海原を眺めていた。それは、巨大な闇だった。


 分厚い雲で夜空は覆われ、月の光は遮断されていた。


 北原が俺の隣にいてくれたことで、俺の心は救われたんだ。


 そして俺の魂は、救われたんだ――


 「だから……」と小島は思った。「今度は、俺の番なんだ」


 *


 犯人の捜索を始めてから、一ヶ月ほどが過ぎていた。


 少年は、夜の港にいた。


 時刻は夜の11時過ぎ――


 その日は、風が強かった。


 小島は、投げ釣りをしていた。


 根詰めてやっていても、仕方がないと考えたのだ。気分転換も必要だった。


 釣り竿を沖合いに向かって振るう。   


 仕掛けが宙を飛んでいき、放物線を描ききって、遠い闇のなかへと落ちる――




 どこかからか、短く悲鳴が聞こえた気がした。


 少年はその声を空耳だと思った。その悲鳴は風の音に混じっていたからだ。


 が、それほど間を置かずに、また悲鳴が聞こえてきた。 


 今度は、ハッキリと――


 若い女性の声だった。


 小島は後ろを振り返った。


 暗闇のなかに、赤い灯りが見えた。


 車のテール・ライトのようだった。


 少年は目を凝らした。


 その車の前に、二つの人影が見えた。


 一方がもう一方を、後部座席へと押し込めようとしていた。


 思考よりも先に、身体が動いていた。


 小島はその釣り竿を、その車のほうへと向かって、力強く振るった。


 仕掛けが勢いよく、宙を切ってゆく。


 それは、その二人とその車を飛び越え、その先にある倉庫の窓を貫いた。 


 二つの人影が、その倉庫のほうへと顔を向けた。


 小島は釣り竿を放って、その二つの人影のほうへと駆け出した。


 ほとんど、無心に近かった。


 途中で落ちていた鉄パイプを拾い上げる―― 


 小島が二つの人影まで迫ったとき、ようやくその一方が、彼の存在に気がついた。


 「なんだお前は?!」その人影が叫んだ。


 野太い男の声だった。


 男の片手には、光る何かがあった。


 それは、ナイフだった。


 小島は構わず、男の頭めがけて、鉄パイプを思いきり振り下ろした。


 *


 目が覚めると、見知らぬ天井が視界に入ってきた。


 「小島くん――」と隣から声がした。


 声のしたほうを見やると、そこには北原がいた。


 「北原――」少年は横たわった自分の身を起こそうとした。


 その瞬間、腹に激痛が走った。一瞬、ヒューズが飛んだかのように、目の前が暗転した。


 「まだ起きちゃダメ」と北原が身を乗り出して言った。「小島くん、刺されたんだよ」


 「えっ?」と彼は言った。刺された――?


 先生呼んでくるから、と北原は立ち上がり、その部屋から出ていった。


 彼は、彼女の姿が見えなくなると、ふたたび先ほどの天井へと目を向けた――



 あの夜、小島は、あの刃物を持った男と、刺し違えたのだった。


 男は鉄パイプで殴打され、少年は文字通り腹を刺された。


 そのあとで、その男に襲われていた女性が110番、119番通報をしたのだ。


 そして、やってきたパトカーに男は乗せられ、少年は救急車で病院へと送られた。


 その刺し傷はそれほど深くはなかった。あの男よりも、彼の手のほうが速かったからだ。


 小島は、病院の天井を見やりながら、あの男の姿を思い浮かべた。


 彼の顔には、見覚えがあった。


 あの男は、少年がいつもいた港で見かけていた、中年の釣り人たちの一人だった。


 *


 それから北原は、小島のもとへと毎日のように顔を出した。


 彼女は彼にリンゴを剥いたり、病室の花瓶の水を取り替えたりと、なにかと甲斐甲斐しく動いていた。


 その日も北原は、彼の病室へと現れた。


 彼女は丸椅子に座ったまま、うつむき加減に黙っていた。


 小島も小島で、適当な話題が思いつかず、ベッドから上半身を起こしたまま、窓の外へと目を向けていた。


 美しい秋晴れの空だった。


 空はどこまでも高く、そして透き通るように青かった。刷毛を引いたような雲がいくつか見えた。


 少しして、北原がうつむいたまま、小さく口を開いた。「ありがとう――」


 *


 それから半年後ほどが経った――


 二人は、付き合っていた。 


 小島から北原に告白をした。


 つまらない意地を張ることをやめたのだ。あるいは、ある種のナルシシズムの柵を乗り越えたのだ。


 それは少年の人生において、もっとも勇気のいる行為の一つだった。清水の舞台から飛び下りるイメージが彼の脳裏に何度も浮かんでは消えていった。


 四月の上旬だった。


 二人は肩を並べて、学校へと向かっていた。


 辺りを、桜吹雪が舞っていた。


 この先、小島にとって(あるいは、北原にとっても)、もう一つハードルがあることを、彼は知っていた。


 しかし、それを乗り越えれば、あの「イメージ」がやってくることはなくなるだろう、という予感があった。


 それはきっと、上書きされるはずなのだ。彼女との記憶によって――

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