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港にて  作者: 増瀬 司
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前編

 帰りのホームルームの時間。担任の教師がある注意喚起をした。


 その高校のある町で強姦事件が多発している、女子はなるべく一人きりで夜道を出歩かないこと、という内容だった。


 いちばん後ろの席で、その少年は、その話を耳にしていた。


 少年の頭のなかに、「あの日」の光景が甦ってきた。フラッシュ・バックだった。


 彼はいつものように、その記憶を、自分自身の心から切り離した。


 その少年にとってその行為は、すでに慣れっことなっていた。


 *


 その日の放課後。その少年は自宅の近くの港にいた。


 彼は、投げ釣りをしていた。


 沖合いへ向かって、釣り竿を勢いよく振るう。


 糸の先端についた仕掛けが、風を切りながら宙を飛んでいく。


 そして、放物線を描き切って、遠くの海面へと落ちる。


 彼はよくここに来て、釣りをしていた。


 釣りをしながら遠い海原を眺めているあいだは、余計なことをいっさい考えずに済んだからだ。


 その一時だけは、あらゆる柵しがらみから解放されたような心持ちがした。 


 現在からも未来からも、それから過去からも――




 やがて、日没の時刻がやってきた。


 茜空が拡がっている。


 港も海も、オレンジ色に染まり上がっていた。


 海原は、夕陽の光を受けて、キラキラと輝いていた。


 釣り具をケースのなかにしまっていると、少年は背中から声をかけられた。「小島くん――」


 「小島」と呼ばれた少年は、後ろを振り返った。


 少年のいるところから、少し離れたところに、少女が立っていた。傍らには、自転車があった。


 「北原」と少年は、その少女に対して言った。


 「何をしているの?」北原と呼ばれた少女は、自転車を押しながら、少年のいるほうへと近づいていった。


 少女は白いブラウスに、青のロング・スカートという服装だった。


 「何って――」小島と呼ばれた少年はぶっきらぼうに答えた。「釣りだよ。見てわかるだろ?」


 「北原は?」と少年は彼女にたずねた。


 「塾の帰り」と彼女は、風で乱れる長い髪を、片手で押さえた。倉庫街のほうへと目を向けていた。「来年はもう、受験だし……」


 少年はどこかで反感を覚えていた。他方で、釣りをして遊んでいる自分に対する、当てこすりのようにも思えたのだ。


 「勉強だけが全てじゃないだろ」そんな言葉が、少年の口を突いて出た。


 「期末の順位、教えて」不意に少女が言った。


 「えっ?」


 「今回の期末試験の学年の順位、教えて」


 少年は渋々ながらも、その数字を口にした。下から数えたほうが圧倒的に早かった。


 「さっきの台詞ね。勉強のできる人が言わないと、説得力ゼロだよ?」と少女は言った。 「それから、君のは『逃げ』のようにしか聞こえない」


 少年は思わず言葉に詰まった。 


 少女がそこから立ち去ると、少年はケースのなかの竿を取り出して、ふたたび釣りを再開した。余計な考えを、頭から締め出したかったのだ。


 しかし、次から次へと嫌な思いが、少年の脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。さっきの北原の言葉が図星だったのかもしれない、と少年は思った。あまり認めたくはなかったのだが――


 ちなみに彼女の学年の順位は、上位五位以内だった。


 *


 夏休みが始まっても、小島は毎日のように、港に釣りへとでかけていた。 


 海へと向かって、竿を全力で振るう。


 仕掛けが飛んでいき、放物線を描き切って沖合いへと落ちる。


 少年のほかにも釣り人は二、三人ほど見えた。が、若者は小島以外にはいなかった。彼らは少し遠くの突堤のほうにいた。


 太陽が容赦なく、小島の頭上を照りつけていた。額から大粒の汗が流れ落ち、その度に手の甲でぬぐった。


 やがて夕暮れがやってきた。


 茜空が拡がっている。


 釣り道具を片しているとき、背後から「小島くん」と声が聞こえた。


 振り返ると、北原が少し離れたところに立っていた。やはり、彼女の傍らには自転車があった。


 彼女は、水色の半袖とロングスカートのワンピースを着ていた。夏場だというのに、彼女はどこか涼しげに見えた。


 「また釣り?」北原は少年のほうへと、自転車を押して近づいていった。


 「また、釣りだよ」小島はやはり、ぶっきらぼうな調子で答えた。


 「少しは勉強もしないと駄目だよ?」と彼女は彼に微笑みかけた。


 少年は顔をしかめて、海原のほうへとまた向き直った。


 「冗談だよ」少女はまたからかうように笑った。




 「お母さん、いないんだってね」と不意に彼女が言った。


 「えっ?」と小島は、北原のほうを振り返った。


 お母さん、と彼女は繰り返した。


 「どうしてそれを……」彼はそのことを、誰にも話してなどいなかった。同情されてしまうことが心底から嫌だったのだ。


 何よりもそれは、「あの記憶」について彼自身が触れることでもあったからだ。


 「小耳に挟んだ」と北原は答えた。


 しばらく間が続いた。波が港のヘリに当たる音だけが、辺りに響いていた。


 「寂しかったりする?」と彼女は尋ねてきた。


 「そりゃあ……」少年はそう言葉を濁した。


 彼は、少なからず驚いてもいた。そんな質問をしてくる人間は、これまでに一人だっていなかったからだ。


 「あのさ――」そう北原は何か言いかけたが、そのまま口をつぐんだ。彼女は両手を後ろで結んでいた。


 「なんだよ?」そう小島は尋ねた。


 ううん、と彼女は答えた。「なんでもない――」


 *


 小島の母親が死んだのは、彼が小学五年生のときだった。


 すっかり草臥れたランドセルを背負った小さな彼が、自宅のチャイムを鳴らした。いつも通り、彼の母親が、ドアを開けて、彼を出迎えてくれるはずだった――


 しかし、彼の母親が玄関に現れる気配は一向になかった。


 彼はドアノブに手をかけ、それを回して、ドアを引いた。


 ドアは抵抗なく開いた。ドア・チェーンもかかっていなかった。


 普段はキッチリと揃えられている靴が、その日はなぜか乱れていた。


 彼は軋む廊下を、ランドセルを背負ったまま歩いていった。


 嫌な予感がしていた。




 リビングに入った彼の目に飛び込んできたものは、彼の母親の変わり果てた姿だった。


 リビングのフローリングの上に、彼女は仰向けに倒れていた。


 下半身には何も身につけていなかった。ハイネックとTシャツとが、露わになった胸の上まで、たくし上げられていた。下着とジーンズとは、彼女の周囲に荒っぽく投げ捨てられていた。


 彼女は身じろぎ一つしなかった。


 少年自身も凍りついたまま、茫然自失の状態となっていた。


 頭のなかが真っ白になっていた。いったい何がいま起きているのか……そのときの彼には理解ができなかった。


 そのとき、少年のいたところからは見えなかったが、彼女の首には、ベルトでキツく絞められたような跡があった。


 *


 それから少しして、少年は心に不調を来した。


 彼は父親に連れられて、となり町の心療内科を訪れた。


 しばらくのあいだ、精神安定剤を呑んだ。それは脳のセロトニンを増やす薬で、頭がぼんやりとして、余計なことを考えずには済んだ。それは夏の強い陽射しの下で、頭がぼんやりとする感覚にかなり近かった。




 彼は半年ほどで、薬を呑まなくて済むようにはなった。


 しかしその薬は、彼の心の傷までもは、癒すことができなかった――


 「あとは時間が解決してくれるのを待つしかないでしょう」と主治医が小島の父親に話すのを、彼はそのとなりで聞いていた。


 それから彼は、よく近くの港に釣りにでかけるようになった。


 釣り具は、彼の伯父のお下がりだったが、それは問題なく、使うことができた。


 港でのおだやかな時間と、どこまでも広がる太平洋は、彼の心を少しずつではあったが、静かに癒してくれていった。


 *


 それからも、港で釣りをする小島の許に、北原はよく顔を見せた。


 彼女が現れるのは、いつも夕方ごろだったが、たまに日中にやって来ることもあった。そういう日は塾が休みの日だったのだろう。


 小島が竿を振るい、仕掛けを飛ばすのを、彼女は少し離れたところから見ていた。


 「釣れないね」と北原は、人ひとり座れるサイズの石に腰かけていた。


 その日彼女は、日中に現れた。眩しいくらいに真っ白なTシャツに、藍色のロング・スカートという服装だった。


 両膝の上に乗せた両腕で、小さな卵型の顎を、支えるようにしている。


 「今日は調子が悪いんだ」と小島は、遠くの海平線を眺めながら答えた。


 「今日っていうか、ずっとだよね」北原は、空っぽのクーラー・ボックスに目を向けながら言った。


 小島は黙り込んでしまった。彼女の言う通りだったのだ。


 アハハと彼女は声を上げて笑った。そして、「冗談だよ」と続けた。


 何が冗談だ、と彼は思った。ただの事実の指摘じゃないか、と……


 彼女はよく、彼をからかっては笑っていた。


 しかしその笑い方には、何か邪よこしまなものは一切感じられなかった。いい意味で、ドライというか……。あっけらかんとしているというか……


 彼女にからかわれるとき、彼のなかで悪い感じはしなかった。


 「俺はきっと、尻に敷かれるタイプなんだな……」少年は太平洋を眺めながら、ぼんやりとそう思った。


 えっ?と彼はふと我に返った。いったい誰から……


 恐ろしく何も釣れない日、小島は暇そうにしている北原に、釣りのレクチャーをしたりもした。実際に彼女は、その釣り竿をおそるおそる振るって、仕掛けを遠くの海原へと飛ばしてみせたりもした。




 ある日、彼女がふと口笛を吹いた。


 それは音楽に疎い小島でも知っている、ある有名な曲のサビの一節だった。 


 小島は、午後の太陽の光を受けて、キラキラと輝いている海原を眺めながら、そのメロディーを聞くともなしに聞いていた。


 その口笛は、秋の予感を感じさせる、薄い切れぎれの雲の散らばる空へと、遠く澄み渡っていった。


 そのとき小島は、北原のその口笛が、自身の胸のなかへ染み込んでいくのが感じられた。


 乾き切った砂漠に、思いがけない雨が降り注いだかのように。


 そのとき彼は、自分の心がどれほど渇き切っていたのかを知った。


 それが当たり前過ぎて、その状態に慣れてしまい過ぎて、そのことに気づくことができなかったのだ。


 「俺が今まで探し求めていたものは、きっとこれだったんだ」と小島は思った。


 この柔らかい感じ、暖かい感じ、それからやさしい感じ……まるで包み込まれるような。


 言葉ではとらえられない……そうするとどこか嘘っぽくなってしまいそうな何かだ。


 *


 夏休みの終わりごろ――


 その日も、小島と北原は港にいた。


 夏も終わりに近づき、陽が落ちるのが早くなっていた。 


 二人の周囲は、すでに真っ暗になっていた。


 その深い暗闇のなかからは、夏の虫の鳴き声が聞こえてくる。


 「そろそろ帰るね」と北原は、小島の折り畳み式のイスから立ち上がった。


 「送っていこうか?」と小島は北原のほうへ振り返って尋ねた。


 「いいよ」と彼女は、ロング・スカートについた埃を両手で払った。「まだ釣り、していくんでしょ?」


 そう言うと北原は、小島に手を振り、深い闇のなかへと、姿を消していった。


 ややあって、小島は不意に「嫌な感覚」を覚えた。それは宙そらから降ってきたのだ――


 それから、後悔の念に襲われた。


 俺は「送っていこうか?」ではなく、「送っていく」と言うべきだったんだ、と……


 彼の脳裏に、あの日の光景がまたフラッシュ・バックした。


 彼はそれを、やはり自分自身から切り離した――




 翌日、北原は小島のもとに――港に現れなかった。


 その翌日も現れなかった。


 その日、小島は港で、北原にメッセージを送ってみたが、返信はなかった。


 嫌な予感が、現実に形となって現れるような予感がした。


 二学期が始まっても、北原は学校に姿を見せなかった。


 朝のホームルームの時間、担任の教師が、「北原が事件に遭った」と話したのを、小島は聞いた。

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