秀才②
「わっ、わ!!」
ほぼ同時に、どすんと大きな音がした。投げつけられた教科書をキャッチしようとして、アルヴィンが転んだらしい。
「大丈夫ですか?」
「い、てて……、大丈夫です」
運動神経がゼロのアルヴィンは、転んだ拍子に眼鏡まで落としたようで、わたしは駆け寄るついでにその眼鏡を拾った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
アルヴィンは受け取った眼鏡をかけたものの、フレームが歪んでしまったのか少し見え辛そうに目をしばたたかせた。
「ええと……、ベアトリーチェ・サヴィーニ様」
「はい」
「お話するのは初めて……ですよね。助けてくださってありがとうございます。しかしあの、どうして……」
「ただ許せなかっただけですわ」
いじめ(中でも髪を切るなどという最低の行為)が。みなまで言わなかったけれど、微笑みを向ければアルヴィンはいくらか安心したように息を吐いた。彼は少し人見知りのきらいがあるので、突然割って入ったわたしにも緊張していたのだろう。
「助かりました。今までも多少嫌がらせをされるようなことはあったのですが、その、こんなふうに直接呼び出されたのは初めてで……。情けないところをお見せしました」
「そんな……、むしろもっと早く助けられなくてごめんなさい」
これは紛れもない本心だ。本当なら、今日よりもっと前に……それこそ教科書が汚されたりする前に阻止できればよかった。けれどわたしはアルヴィンとはクラスが違うし、ゲーム上でヒロインがいじめを知るのもこのタイミングなのでそれ以前の情報がほとんどなく、どうにもいじめっ子の尻尾が掴めなかった。アルヴィンがつらい思いをしていると思うと心苦しかったけれど、この断髪イベントだけは唯一「二回目の小テスト結果が張り出された翌日」だと決まっていたため、結局この日を待つことにしたのだ。
アルヴィンは緩く首を振る。
「あなたが謝ることはありません。本当に……僕は自分で言い返すこともできなくて。彼らが言ったように、勉強以外にも学ぶことがあるのかもしれませんね。度胸とか」
ひょろりと長い背を丸めて自嘲する。そんなアルヴィンの両肩を、わたしはがしっと掴んだ。
「なにをおっしゃいますか! アルヴィン様には充分度胸があります!」
「え?」
きょとんとした顔を見返して、思いっきり笑ってみせる。
「わたくしが教室に入ってきたとき、アルヴィン様は教科書を取り戻そうと飛び出してらっしゃいましたよね?」
「は、はい、まあ……」
「たしかにアルヴィン様は、彼らに言い返すことはできなかったのかもしれません。けれど、大切なもののためなら飛び出すことができました。それはちゃんと、度胸があるってことだと思います!」
アルヴィンの目が数度ぱちぱち瞬いて、歪んだ瓶底眼鏡の向こうで少し滲む。誤魔化すように俯いてしまったので、わたしは手を離した。
「あ、あの……ええと、その、必死だったので……あまり、自分ではそう、思わないのですが」
震えた声で話すアルヴィンの言葉の続きを黙って待っていると、彼は再び顔を上げ、眉を下げてへらっと笑った。
「でも、ありがとうございます」
「事実を述べたまでですわ」
うーん、可愛い。でかくて気の弱い男の困った笑顔、百点満点中の百二十点です。わたしがそんなことを考えているとは露知らず、アルヴィンはぽそぽそ話し続ける。
「ぼ、僕は、その……父の役に、立ちたいんです。僕は父をとても尊敬していて……だから、たくさん勉強して、多くのことを学んで、父の助けになりたい」
「きっとなれます」
「っはい!」
アルヴィンは気が弱いけれど、家族思いのとってもいいこだ。彼(とその髪)を守れたならよかった。いじめっ子たちの顔はしっかり覚えたので、次になにかしようものなら今度は事前に防げるとも思う。
「あの、サヴィーニ様」
「ベアトリーチェで構いません」
「では、ベアトリーチェ様……なにかお礼をしたいのですが、ええと、あの、あまりお金は……」
「それでしたら!」
申し訳なさそうなアルヴィンの前で、わたしはポンと両手を叩く。
「わたくしの勉強を見ていただきたいのです! というより、元からそのお願いをしたくて」
「え? あ、あれは僕を助けるための嘘では……」
「いいえ、本当に聞きたいことがありましたの」
だからお願いしますと笑ってみせると、釣られるようにアルヴィンも笑った。
「はい、もちろん。僕でお役に立てるなら喜んで」
◇
翌日の昼休み。時間を取ってくれるというアルヴィンを待っていると、教室内が一気にざわめいた。
「ベアトリーチェ様」
「アルヴィン様! まあ、随分と雰囲気が変わりましたね!」
「は、はい……。あの、変ではない、ですか? なんだか朝から注目されている気がして……」
「とっても素敵です!」
「そ、そうですか? よかった」
はにかんだアルヴィンは、丸い瓶底眼鏡ではなくなっていた。スクエア型のリムレスの眼鏡は以前よりもかなり度が低いようで、レンズを挟んでも大きな瞳がほぼそのままの大きさに見えている。顔を隠すように下ろしていた髪も低めの位置でひとつにまとめているので、なおさら彼の整った顔立ちがよくわかった。
根暗キャラあるあるの、「イメチェンしたらイケメンすぎて周囲がビビり散らかす」イベントである。ゲーム上では切られた髪を整え眼鏡を外していたので、断髪イベントを回避したらどうなるのだろうとは思っていたけれど、この仕上がりには拍手喝采せざるを得ない。個人的に眼鏡の有無はそんなに気にならないものの、この新しい眼鏡は素直に似合っていると思う。イメチェンで眼鏡を外す展開、眼鏡キャラ好きの人にはわたしにとっての断髪くらい許せないイベントだっただろうと思うので、そんなメガネ萌えの人たちもこれにはにっこりに違いない。
「眼鏡、新しくされたんですね」
「はい。昨日フレームが少し歪んでしまったのを、父に気付かれて。もう視力回復魔法を受けさせてやるくらいの金はあるんだって、神殿に連れていかれました」
「まあ。ではその眼鏡に度は入っていないんですか?」
「ええ。曽祖父が『知的そうに見えるから』という理由だけでかけていたらしい、お洒落用の伊達眼鏡です。引っ張り出してきました」
どうしてわざわざと首を傾げると、アルヴィンは気恥ずかしそうに「かけてないと落ち着かない気がして」と答えた。
「そうなのですか?」
「はい。……あなたが眩しいだろうから」
「……わたし?」
金髪だからか? ますます首を傾げたわたしの前で、アルヴィンが「ああいえ、なんでも!」と手を振る。
「と、とにかく、勉強をしましょう! 昼休みが終わってしまいます」
「そうでした!」
「ベアトリーチェ様がお尋ねになりたいのは、魔法薬学でしたよね。教科書や辞書は一応持ってきたんですが……」
「ありがとうございます!」
そうして、クラスメートの注目を集めつつ勉強会が始まった。アルヴィンの教え方は丁寧でわかりやすく、時間はあっという間に過ぎていく。
「とってもわかりやすかったです! アルヴィン様は教えるのが上手ですね」
「そ、そうですか? お役に立てたならよかった。またいつでも呼んでください。誰かに教えることは、自分の理解の確認にもなるので」
「よいのですか? わたくし、本当に頼ってしまいますよ」
「いくらでもどうぞ」
照れくさそうに、でも嬉しそうに微笑むアルヴィンは、誰かの役に立つことを喜びとする人だ。ゲームをプレイしているときもそんな健気なところが好きだったなと思いつつ、わたしは彼の言葉に甘えることにしたのだった。