第四話
平和ボケ、なんていう言葉がある。
いつまでも、いや、長らく平和な日常生活に浸っている私。
学生という身分の時は散々な目にも合い、身も心も劇的に変わる事になった高校生活。
それでも懐かしいと感じる学生時代を思い出しながら、今日も私はせっせと夕食の支度をする。
主婦になって早十年近く。
家事に終われる日々が続き、ご近所付き合いや子供の世話にも慣れてきたと思うと、学生時代が懐かしく感じてしまうのだった。
どちらも多忙であったが、多忙でも忙しさのレベルが違う。
しかし今は夕食作りに集中するとしよう。
大根の短冊切り。
「マぁマぁ〜」
とたとた。
とたとたとたと、幼い体躯を力一杯最大限に使って、私に駆け寄ってくる私の娘。
名前は白崎庵理。今年から小学校に入学した私の娘である。
今日は自分の入学祝いに買ってあげたピンク色の玉が二つ付いている至ってシンプルなヘアゴムを横にくくって、サイドポニーテールにしている庵理。
どうしたの?と、包丁をまな板に置き、膝を抱えて庵理に目線を合わせる。
目線を合わせると、彼女はニッコリと笑顔になって「お手紙きてたよー。はい、あげるう」
庵理の手には収まりきらない程の封筒を一通受け取る。
茶色で簡素な封筒、宛名は私。と、庵理と閃理。
差出人は不明。
私にだけならともかく、宛名には加えて庵理と閃理の名前も。
「ご飯の後で読むことにするから、テレビの前の机の上に置いておいてちょうだい。配達ご苦労様です、ありがとう庵理」
庵理の頭を撫でて、大きく晒したおでこにキスをする。
娘は恥ずかしがりながらも「とーぜんの義務ですっ」と、私に向かって敬礼する。
一体どこでそんな事を覚えたのだろうか…。
少なくともこの町の郵便屋さんは配達時に敬礼はしない。
再び包丁を握って調理再開。
今日は大根の味噌汁と白身魚の揚げ物。
「ただいまあああぁぁぁ…」
鬱々とした呻き声のような――それでいてこちらにも、どっと疲れの伝わるような声の主がリビングに力なく入ってきた。
ダークグレーのスーツをきっちりと着こなしているが、頭は下に俯き、両腕をだらんと下げている所為でせっかくのスーツ姿が台無しになっている彼女。
「おかえり、志葉」
キッチンから漂う匂いを感じ取った志葉は、手に掛けていたハンドバッグをソファに投げて私の下に駆け寄ってくる。
「やったー!今日はハンバーガーだーい!」
「断じて違う!」
まな板には大根の短冊切り。隣のボウルには溶き卵と、バットには小麦粉。
ガスコンロの近くには合わせ味噌のパック。どこをどうしたらハンバーガーが出て来るのだ。
「あっちゃー。ハンバーガーは今あたしが食べたいものであって。今日の晩御飯は…………御味噌汁と天ぷらだね!」
天ぷらとは違うのだがなぁ…
惜しいように思えるが、本日はフライにすることにしたのでノーコメント。
「今日もお仕事お疲れ様。もう少しで夕ご飯だから…あ、そうだ。閃理にも伝えておいてくれない」
ごっはん〜ごっはん〜♪と上機嫌な足取りでキッチンを去っていく志葉。人の話を聞いていたのだろうかと疑うが、リビングからも去って行ったので、よしとする。
現在白崎家は四人と一匹暮らしである。
一人はこの私、白崎咲桜。専業主婦。
今年で高校生となった息子の閃理と、先程郵便を配達してくれた娘の庵理。
そしてもう一人の白崎志葉。彼女は私の家族、白崎の遠い親戚で、現在我が家に居候中の社会人で、年は二十代前半。
一匹は雌猫のアイネス。種類はアメリカンショートヘアー。
1日の大半を寝て過ごしている我が家の飼い猫である。
それに、よく脱走する。
築何年かは忘れたが、二階建ての6LDKの自宅。割と住み心地は良い。
おっと、魚が焦げそうじゃないか。
「ママぁ〜。ご飯の準備できたよ〜う」
「ありがと〜う」
キッチンのカウンター越しから見えるテーブルの上には、人数分のコップと個人別に専用のお茶碗と箸が用意されている。
我が家の娘は良く出来る子ね。
そしてちょこんと自分の席に着いて花柄の自分専用のお茶碗と、同じ花柄のコップを見ながら待機している庵理。
「んでさあぁ!アタシぁこう言った訳よ!」
「へー、うん。何を?」
和気あいあいと喋りながら食卓に着く志葉と閃理。
まぁ、和気あいあいと接しようとしているのは志葉だけなのだが。
閃理は相変わらずのマイペースで志葉の話を聞き流しているように見える。
「二人共夕食の用意を手伝いなさい」
こうして私は1日の主婦としての仕事を一区切り終わらせた。
「はい。頂きます」
「いっただっきまぁぁぁす♪」
「いただきまぁす」
「頂きます」
四人で食卓を囲む日々。基本的に食事は家族全員で食べることがうちのルール。
「そうだせっちゃん。せっちゃん盟凰に入学したんだって?おめでとぉぉう!さっきまであたし知らなかったよ〜。せっちゃんの部屋に盟凰の制服が掛けてあったからさぁ」
志葉と閃理の席は隣同士で、向かい側には私と庵理。
がつがつと飯をかき込みながら喋る志葉と、それを注意しながらも返事をする閃理。
「言ってなかったっけ、俺」
もともと口数の少ない閃理と、マシンガントークと言える程よく喋る志葉。食卓では見慣れた光景だ。
学生時代は私も閃理のように口数は少なかったからか、閃理は私に似たのかなぁと自問自答。
父親は志葉と同じくらいよく喋るし。
食卓が賑やかになるのは結構なことだが、庵理もそれに乗って騒がしくなってしまうのは考え物だ。
賑やかと騒がしいの違いを教えなければ、と今後の育児教育の方針を決める。
「あたしってば高校なんて途中でやめちゃったからさぁ。心境の変化ってやつ?まぁ、その時通ってた学校は女子高でね、右も左も女女女。男の子のせっちゃんなら嬉しいかも知れないけど、女同士の付き合いって疲れるんだよね。安っぽい友情。妬み、僻み、嫉妬。あーやだねやだね。」
珍しく自分の過去を津々浦々と語る志葉に、こいつ、高校中退してたのか…。と初耳の私。
「別に嬉しくなんかないよ。ていうか、女子高に男子は入学できないし」
「それはそうかもね。じゃあ楽しい楽しい充実した高校生活にしたいと思うなら、あたしじゃなくて咲桜さんに聞けば良いと思うよん」
「思うよん」と、志葉と一緒になって庵理も。
こらこら庵理、人にお箸を向けてはいけません。
「あたしは咲桜さんがどんな高校生だったのか知りたいな〜。咲桜さんが高校生だった時は、あたしって庵理ちゃんよりも小さかったしね」
「母さんが高校生…。なんか想像できないな…」
ちらりと私の顔を見て考える仕草をとる閃理。
「無愛想な高校生だったよ、私は」
白崎咲桜の高校時代。
様々な出来事や事件に巻き込まれた高校時代。
でも高校生って聞かれたのなら話は別物。
友達も多い方ではなかったし、部活も所属しておらず、社交性など皆無だった花の女子高生時代。
「でも咲桜さん、なんでそんなに嬉しそうに話すの?顔、すっごい緩んでる」
気付けば閃理は黙々と夕食を食べているし、志葉は私の方を見ながらニヤニヤしている。
「ママ可愛い〜」
はい、ありがとう庵理。こんな母親でも可愛いって言ってくれて。
その後は志葉の職場の愚痴を延々と聞かされて、最初に庵理、次に閃理が食卓から離脱して行った。
時は過ぎて夜の10時。
洗濯物と夕食の片付けを済ませて一段落着いた時、一通の封筒が目に入る。
夕方に庵理が配達してくれた物で、宛先は私と庵理と閃理。