五木田ブリ蔵の冒険
五木田ブリ蔵の冒険
安江 俊明
太平洋に浮かぶ小島に繁茂する熱帯雨林。強烈な太陽光線が植物の肌を突き刺し、傘のように広がった葉は生い茂って植物の根元には赤土が広がっている。
熱帯の巨大な蟻の群が何か黒いものを巣へと運んでいる。よく見れば瀕死のゴキブリだ。そう、この小島にはゴキブリが行き交っている。雨林の地下深くにゴキブリの帝国があった。
俺は帝国で生を受け、スパイ・アカデミーを卒業し、海外諜報部に所属を命じられた。諜報部に属すれば、危険極まる人間界で活動しなくてはならない。すなわちゴキブリから人間にならねばならない。帝国の開発室はゴキブリを人間に変身させる特殊技術を持っていた。今でいう超技術というやつだ。
俺は手術用カプセルの中に放り込まれ、全身麻酔を掛けられて、ぐっすり眠っている間に人間に変えられていた。小柄なゴキブリから一挙に人間サイズになるってどんな感じなのか、中々一言では言い表せないが、余り気持ちの良いものじゃない。人間はゴキブリを見れば、不快感を催し、殺しにかかるという噂を聞いたことがあるが、俺から言わせれば、人間になって鏡に映る俺の「顔」には上から順に髪の毛、額、眉毛、目、鼻、口と並び、ゴキブリとはまるで大きさも形状も違う。皮膚の色も筋肉の感じも、まるで違うのだ。しかし、これからはこれが俺の表の顔になる。
俺は暫くして大帝の館に召喚されたが、館に入れないほど大きくなった俺のために館の隣にある広場で帝国の総帥・ゴーキー大帝の訓示を受けた。大帝は俺の巨大さに驚き、暫く声を発せられなかったほどだ。ようやく落ち着かれたのか大帝は口を開かれた。
「ブリ蔵、お前も知っての通り、我々は地球上に三億年暮らしておる。人間どもは地球生存者の大先輩である我々を事あるごとに抹殺しようと企み、ありとあらゆる環境汚染を撒き散らしておる。人間の反地球的な謀略を阻止するため、他の昆虫と相互安全保障条約を結び、地球環境保護のためのネットワークを広げていかなくてはならぬ。環境破壊の元凶を封じ込めるために任務遂行をよろしく頼むぞ」
「承知致しました」
俺は緊張して大帝を見下ろしていた。初の赴任地は日本だ。大帝から日本名『五木田肇』を拝命したが、俺にはピンと来ない。よほどブリ蔵の方がピッタリするが、この際仕方がない。海外諜報部の面々に見送られ、近くの観光島にあるローカル空港から長時間飛行機を乗り継ぎながら人間どもの乗客と共に日本の地を踏んだ。
日本では、民間放送局の報道局でバイトし、新聞記事など資料整理だけじゃなく、カメラの扱い方や東南アジア方面の海外取材も何か所か同伴させてもらった。
日本での研修も終わりに近づいた頃、総務から大帝の命が下され、メールには『ニューヨーク駐在を命ず』とあった。ニューヨークの駐在契約社員を募集していた民間放送局・F社の試験にパスし、表向きは放送マンという偽装でニューヨークに潜入した。
デリカテッセンの派手なネオン。イェロー・キャブ。ブロードウェイの劇場に向かう観光客の群。地下鉄の轟音。あらゆるものが珍しいが実に面白そうだ。
この大都会でこれから人間の皮を被って暮すのかと思うと、とてつもなく大きな宝を手に入れたような気がした。俺は日本で大都会が好きになった。そこには必ず裏の世界がある。日頃の鬱憤を晴らすためか、男は酒を飲む。浴びるほどに。
狂った夜が明ければ、朝帰りとなる。周囲にはゴミがあふれ、残飯や空のウィスキーボトルが山積みになっている。吐き気のするような臭いが辺りに漂う。
それでもそんな裏町が好きだ。表通りのつんとすました世界より、余程人間味があふれている。俺は町のメインストリートらしい五番街をどんどん南に歩いて行った。
F社のニューヨーク支局はマンハッタンのど真ん中にある高層ビルの四十六階にある。支局長ら駐在員は全員長期の海外出張に出掛けており、俺はその留守番役に雇われたような気分だ。マンハッタンでの支局の関係先が事細かく書き込まれた支局長の伝言メモがあり、関係先への赴任挨拶を済ませておいて欲しいとあった。
一週間ほどして、関係先のひとつである日本の大手殺虫剤メーカーM社ニューヨーク支社の営業部員・最上が支局にやって来た。挨拶の際に聞いていた、M社がアメリカ最大の殺虫剤メーカーS社と提携して開発した最新ゴキブリ駆除剤「ミサイルX」の広報資料を届けに来たのだ。
「この新製品は一匹のゴキブリに噴射すると、そのゴキブリの行動範囲にいるゴキブリを一網打尽にすることが出来るんですよ。最低一年間はゴキブリの姿を見なくなります。効き目抜群です」
最上は得意げな表情を見せた。
「どういう仕組みなの?」
俺は詳しく聞きたかった。
「噴射機から殺虫ミサイルがゴキブリに発射され、ミサイル成分がそのゴキブリの体内に温存されるんです。それが基地のような役割を果たし、ゴキブリが仲間に接近すると、基地から仲間の体内に向けてミサイルが次々に発射される。ミサイルを発射されたゴキブリから更に他のゴキブリにミサイルが発射され、どんどん広がっていく。ある一定時間が経つと、ゴキブリの体内でミサイルが時限爆弾のように爆発して、一斉にあの世行きになるというイメージです。アメリカの殺虫剤メーカーと共同開発した特殊な技術を駆使したもので、成分表示は基本的な成分だけの表示で済む特別許可を政府から得ている。要するに企業秘密にできる部分があるという訳です。両社とも日米の一流メーカーだから、ブランドを信頼してもらうことになりますな」
「いつから発売なの?」
「来月一日からの予定です」
もう余り日がない。早急に帝国に情報を送らないと……。
「詳しい成分表はもらえないかな?」
「……それは勘弁してください」
最上の甲高い声がオフィスに響いた。
「それよりも五木田さん、御社放送でのPRの方を是非宜しくお願いしますよ」
「あくまで参考として全成分を教えてくれないか。秘密は厳守するからさ」
俺はしつこく迫った。
「困りましたな」
「今晩メシと酒を奢るよ。な、頼む!」
俺は両手を合わせて拝み倒した。
夜の接待と聞いて、最上は態度をやや軟化させたような雰囲気があった。
「魚心あれば水心でしたっけ?」
最上は(夕食だけなの?)とでも言いたげに何か他のものも要求するような表情を見せた。その意味がすぐに飲み込めた。美樹と寝たいのだ。美樹は在ニューヨークの日本人の間ではちょいと有名な高級コールガールである。俺は美樹を買ったことはないが、工作の協力者であり、紹介できる立場にある。俺が美樹と親しいことを、最上は何処からか、ちゃんと情報を仕入れていて、この際とばかりに美樹とのお手合わせをリクエストしているのだ。
「美樹さんを抱けるなら、成分表を渡してもいいよ」
最上は明言した。
夜七時に日本料理店「駒」で最上と落ち合うことにし、美樹に連絡を入れた。
「あら五木田さん。お久しぶり。ご馳走してよ」
電話の向こうから色艶たっぷりの声が届いた。
「今夜ひとりお願い出来るかな?」
「いいわよ。どんな人なの」
最上のプロフィールを紹介した。美樹のOKが出た。
電話を切り、帝国宛てに至急メールを送った。
『ミサイルXの出来るだけ詳しい成分を今夜手に入れる。それを帝国の研究開発室に送り、ワクチン開発に着手してもらう。完成後、全世界の同胞にワクチンを送り、武装してもらう』
俺は駒で最上からこっそりマル秘の成分表を受け取った。
人間とゴキブリの命を賭けた戦いが始まろうとしていた。
美樹と最上を引き合わせるクラブ・ダンサは、ママがミャンマー人でダンサという。
ダンサ・ママは日本人向けの観光パンフレットの表紙にもお気に入りの和服に身を包んで店をPRする。その夜の着物は白地に濃紺の大胆な波文様で、波間に紅葉した楓があしらってあった。ママはアジア系の顔立ちだが、丸顔でつぶらな瞳が魅力で、化粧が濃い。アメリカ先住民に言わせれば、騎兵隊との戦場に赴く戦士の色塗り顔とでも表現するであろう。
店には各国出身のホステスがいる。韓国人、モロッカン、日本人、ヒスパニック、それにニューヨーカーなど。店は国連ビルの近くにあり、マンハッタンの中でも多国籍にふさわしいロケーションだ。俺は彼女らを称して「多国籍軍」と呼び、店の壁にはミャンマーがビルマと呼ばれていた頃の大きなエッチング画が掛かっている。描かれているのは軍隊が象に乗り、行進している姿だ。
最上は何曲か美樹とデュエットした後、連れだって何処かのホテルにしけ込んだ。そして翌日には早速、美樹を味わった感想が鼻の下を長くしたままの最上から伝わった。
帝国ではマル秘データを基に、迎撃ミサイルのワクチン開発が急ピッチで進んでいた。一週間後には迎撃ミサイル「アンチ・X」が完成し、ワクチンが大量生産され、帝国の秘密ルートを通じて世界各国にいる同胞の許に届けられた。同胞のワクチン装備が一斉に開始された。
その後、M社が誇る強力ゴキブリ駆除剤ミサイルXは広告媒体を通じて一大PRキャンペーンを展開し、世界中のマスコミで大きな話題になった。販売が開始されるや否や、飛ぶように売れ、最上は鼻高々であった。
しかし、しばらくするとアメリカや日本など各国のM社のお客様相談室に、苦情が怒涛のように押し寄せて来た。
(ミサイルXを試してみたが、ちっともゴキブリが減らない。逆に増えたような気がする。欠陥商品じゃないのか)
ニューヨークの最上も苦情の対応に追われた。マスコミも動き出し、最上は連日のように質問攻めにあった。
「画期的なゴキブリ駆除剤として宣伝されて来たミサイルXに対する苦情が殺到していますが、どう対応するんですか?」
「現在原因調査中で、コメントは差し控えます。本社と緊密な連絡をとり……」
「消費者の期待を完全に裏切ったことになる。メーカーとしての責任は一体どうとるつもりですか?」
「……今申しました通り、当社といたしましては事態の把握に努めている最中でして……」
最上の日頃の甲高い声は何処かに失せていた。
マスコミを何とか押さえ込んだと思ったら、今度は本社営業部長の森屋が国際電話をかけて来た。
「社長は激怒されている。早急に原因を調査し報告せいということだ。俺はこれからニューヨークに飛ぶから、S社のマッキー部長に連絡し、至急アポを取ってくれ! このままでは俺の首が飛ぶ!」
俺は支局のデスクで新聞を広げ、「ミサイルXに欠陥か。消費者の苦情相次ぐ」という見出しに胸を撫で下ろしていた。
翌朝、支局で新聞を広げると、ミサイルXの続報が大きな記事になっていた。
ゴキブリの体内から殺虫剤を無効にするワクチン発見!
ワクチンの謎深まる。
記事を読み進むと、S社とM社に対する謀略説や、どのようにしてゴキブリの体内にワクチンが挿入されたのかについて、憶測が乱れ飛んでいた。殺したゴキブリのサンプルは両社の世界ネットワークを通じて世界各地で採られ、分析の結果全ての死骸からワクチンが発見されていた。全世界のゴキブリに一匹ずつワクチンを埋め込むなどということは、人間技として絶対に不可能である。一体どうしてそんなことになったのか、謎は深まるばかりと結ばれていた。
当然のことながら、M社では新製品のマル秘成分表などの流失は一切ご法度とされるようになり、最上も支局に顔を出すことはなくなった。そうなれば、こちらからマル秘資料を頂くほかない。俺はM社に忍び込んで、次期開発とされていたミサイルX2の資料を手に入れた。忍び込む時は勿論お腹にある特殊変身ボタンを使い、人間からゴキブリに姿を変えていた。変身術ここに極まれりだ。
M社広報室ではミサイルX2盗難に関する緊急ミーティングが開かれていた。俺はゴキ
ブリの身体に戻り、身に着けると透明になって姿が見えなくなるコートを羽織り、プリン
ターの陰で耳をそばだてていた。広報部長の直木が口火を切った。
「何者かが広報室に侵入し、引き出しの中を漁ったことは間違いがない。しかし、保安室の監視モニターには何も映っていなかった」
「一体どういうことなんでしょうね」
広報室社員・西条が首を傾げた。
「君と俺との引き出しが、何か爆薬のようなもので開かれた形跡がある。爆発のようなもので生じたらしい焦げた跡と歪みがあっただろ?」
「でも、マル秘ファイルはそのままだったんでしょう?」
「マイクロ・フィルムか何かで写し取られていたらアウトだ。保安室によると、微かに気付いたのは、真っ暗なこの部屋の中で、何度か仄かなフラッシュのような光が見えたそうだ。警備員が念のため広報室の中を調べたが、結局何も見当たらなかったそうだ。侵入者がマル秘ファイルの写真を撮っていたフラッシュなのかも知れない」
「産業スパイか何かですかね?」
西条が直木を見つめた。
「ばか野郎! 人間だったら保安室のモニター・カメラに姿が映ってしまうだろ」
「じゃ、幽霊が現れたとでも仰るんですか?」
「ばかなことを言うな。それにしても、この前のミサイルXの時と言い、今回と言い、不思議なことが多すぎる。ミサイルXの時には、死んだゴキブリの体内から、ミサイルXの効き目を無効にするワクチンが発見されている。そんなものがゴキブリの体内に自然と存在するはずはない。しかも、サンプルは世界各地で採られたものだ。そうかと言って、全世界のゴキブリに一匹ずつワクチンを埋め込むなどということは、絶対に不可能なことだ」
「これからどう致しましょうか?」
西条が直木の顔色を窺った瞬間、直木が支社長の高木に呼ばれた。俺は直木の後を追った。
支社長室は騒然としていた。支社長の高木が直木に詰め寄る。
「この分では、次期新製品の発表はおろか、販売の大幅な延期をせざるを得ない。今度失敗すれば、わが社の信頼は地に落ちる。俺は早速社長に事態の緊急報告に入るから、君はこれから一体どう対応するのか考えろ! 徹底した真相の究明にかかれ! いい加減なことでは済まされんぞ! わかったな?」
「……わ、か、り、ました」
直木はお抱えのコンサルタント会社「Kコンサルティング」の担当者、藤村を呼び、対応の検討に入った。藤村が口を開く。
「姿の見えないというのがどうも気になります。人間がリモコン操作で事を運んでいるか、あるいは人間以外の何かが現場で動いているかしかないでしょう」
「人間以外というのは?」
「ひょっとしたらゴキブリとか……」
「ゴキブリがそんな知能を持ち合わせているとでもいうのか? そんなことは考えられない」
「前回のミサイルXのケースでは、多数のゴキブリの体内からワクチンが見つかっています。これはあくまでも仮定の話ですが、社内の人間が漏らした成分表が、何らかのルートで、例えば高度な文明や技術を持つゴキブリ集団の手に渡り、その集団が資料を基にワクチンを開発して配送し、世界のゴキブリにワクチン接種を呼びかけ、ゴキブリがワクチンで身を守ったせいで、ミサイルXの効果が消し去られたのではないかと……」
箸にも棒にも掛からぬ戯言だと、直木は藤村の見方を一蹴した。
「何度も言うが、ゴキブリにそんなことが出来るとでも言うつもりか?」
「例えば、ゴキブリ集団の背後に、人間のコンサルタント集団がいるとかも考えられます」
「ゴキブリと人間が共闘しているとでも? ばかばかしい!」
「そういうことまで想定しないと、今まで起こった一連の不可解な出来事は、説明不可能です」
「百歩譲って、もしもそうだとしたら、どんな対処が出来ると言うんだ?」
「ゴキブリのスパイを潜入させることです」
「ゴキブリのスパイだと……?」
「数はどのくらい必要かは別として、ゴキブリの体内に逆にマインド・コントロール専用のチップを埋め込み、人間が操作可能なゴキブリを作り、ゴキブリの世界に送り込むんです。そして、内情を探らせてみるんです」
「そんなことが出来るのか?」
「今までやったことはありませんが、やろうと思えば出来ないことはない」
「上手く機能するのかね?」
直木は不信感を露にしながら、藤村を見つめた。
「やってみるしかありません。今や事態はそういうことまで試してみないと、解決出来ないところまで来ています」
「ゴキブリをマインド・コントロールすると言ったな?」
「そうです」
直木は信じられないといった表情を押し隠した。
「コンサルタント料は如何ほどになるんだ?」
直木が今度は上目使いで訊いた。
「お高くなります。何しろうちが抱えている専門家集団のうちでも特命事項になりますので」
「まあいい。早速見積もりを出してくれ。支社長と協議しないとな」
「結構です。見積もりを弾き出してみましょう」
そして一週間後。藤村が直木の許に馳せ参じた。
「ワクチンの件ですが、驚くべきことがわかりました。何処かで何者かが製造したワクチンを世界各国にばら撒く転送システムがあるようです」
「一体どんな?」
直木は真顔で藤村の言葉を待っていた。
「恐らくは最新の転送システムが使われています。ワクチンの製造場所は全くわからないが、製造場所から世界各地にあると思われる配給拠点に向けて、大量のワクチンが転送され、例えば病院のような配給拠点でゴキブリに対してワクチンの大量投与が行われた可能性があります」
「ゴキブリが最新鋭の転送システムとワクチンの製造技術を持って我々に対抗しているとでも言うつもりなのか?」
直木の顔は不信で溢れていた。
「信じられないことですが、スパイゴキブリが収集した情報ではそういうシステムが稼動しているのは間違いありません」
直木は葉巻をくわえたまま、ソファに体を沈み込ませた。
「前にも申し上げましたが、ゴキブリの背後には恐らくそれをバックアップする人間の存在が想定されます」
「人間がゴキブリと共闘して、我々と対抗しているってことか。一体何故人間がゴキブリの味方をするんだ。そんなことをして一体何のメリットがあるんだ。ばかばかしい!」
直木は葉巻を灰皿の淵で神経質そうに揉み消した。
「例えばゴキブリと人間のハイブリッド的な存在があるとしましょう。ゴキブリが人間に変身したり、人間がゴキブリに変身したりする存在が想定されるかも知れません」
「藤村さん。わが社は何もそんな荒唐無稽な報告を聞くためにばか高いコンサルタント料を支払っているんじゃないよ!」
直木がブチ切れた。
「しかし、これは採集したゴキブリにマインド・コントロールを施して、ゴキブリ界に潜入させて得た一次情報を基にわが社のエキスパートが導き出したハード・インテリジェンスであり、夢想でも何でもありません。ゴキブリは我々人間の想像を絶する超高度な文明を持ち、最高度の技術を駆使していると考えられるんです」
「そんなでたらめな報告を支社長に上げるわけにはいかん」
「そうおっしゃられても、それが事実であり、今まで起こった一連の不可解な出来事を最もよく説明できる内容です」
直木は頭を抱えていた。
「そうだとして、一体どうすればいいのか言ってくれ」
「これまで二度にわたり、ミサイル・シリーズの情報が盗まれています。あれほど死守しようとしたミサイルX2の情報まで奪われてしまったのです。どんなに守っても情報は盗まれると仮定した方がこの際良いでしょう。そうすれば、後はワクチンの問題になります。新しい強力な殺虫剤を開発し効果あらしめるためには、ワクチンを転送するシステムを破壊するしかないでしょう。そうすれば、ゴキブリは手も足も出なくなる。ただ、その転送システムの拠点が一体何処にあるのか特定するのには、相当な時間がかかるでしょうし、割増の特別料金が発生します」
直木の顔は歪んでいた。
「とにかく一緒に支社長に会ってくれ。あんたの口から直接支社長に説明して欲しい」
直木は立ち上がり、藤村を連れて広報室を出て行った。
俺は直木行きつけのクラブに美樹を送り込み、二人が接触する機会を探らせた。ある夜、酔った直木が美樹の張り巡らした蜘蛛の糸に引っかかり、二人はホテルの部屋に入って行った。
翌日俺は直木との寝物語を聞くため、美樹と会った。
「酔っ払わせて色々と聞き出したわ。ゴキブリの大きな巣を見つけ出すために探査ロボットを使うって言っていたわよ」
「探査ロボットか。あり得るな。探査の範囲はどのくらいの規模かわかったか?」
「ゴキブリは暖かい場所が好きなんだって。だから地球上の温帯から熱帯にかけて、大ローラー作戦を仕掛けるって」
「探査ロボットの性能や規模は?」
「ゴキブリは体内に脂肪体という組織があるんだって。ゴキブリが食べた栄養分を保存し、必要な時に利用するためにあって、ゴキブリが何億年も生存して来た源のような組織らしいの。その脂肪体を探知する最高度のスキャナーを、ロボットが備えているらしいのよ。だから、巨大なゴキブリの巣があるとしたらスキャナーが最高度の反応を示すので、その巣の在処がわかるらしいわ。ロボットは千台ほどを稼動させるって」
直木の野郎、よほど美樹の肉体に惚れ込みやがったな。よく事細かにマル秘事項をペラペラと。
「いつ頃から探査ロボットは動き出すんだ?」
「来月初めかららしいわ」
後二週間か。
「ロボットのサイズとか特徴はわかるか?」
「大きさは三十センチ角で、ボディはブルーと赤のツートンカラー。ボディから二本のアームが突き出ていて、タンクのようにキャタピラーで動き、リモコン操作で飛行物体にもなるって」
「なるほど。コントロールは何処でするんだ?」
「Kコンサルティングという会社のロングアイランドの先端にあるシステム司令室らしいわ」
「よし、上出来だ。たんまり特別ギャラを振り込ませてもらうぜ」
「また直木さんを呼んでちょうだい」
ウィスキーグラスを傾けながら、俺は改めて美樹の武器である胸とバディを眺めた。
(この肉体にご用心!)
即興の標語らしきものが浮かんだ。
Kコンサルティングのシステム司令室がある建物は、ロングアイランドの先端、モントークから大西洋を望む断崖絶壁の上にあった。調べたところ、建物には二重三重のガードがかけられ、センサーが張り巡らされていた。屋上や前庭の各所には武装したガードマンが張り番をしている。潜入することも不可能ではないが、かなりの難関であることは間違いなかった。司令室に潜入するには、断崖絶壁を登る方が敵を欺ける。まさか絶壁の方から侵入されるとは思ってはいるまい。
探査ロボットの制御システムを破壊する作戦を敢行するため、俺は羽を震わせて浮力をつけながら絶壁の襞を登って行った。絶壁の周囲を大西洋の強風に曝されながら根を張った雑木林が覆っている。回転する灯台の光が時折塀を白く照らし、塀の上に敷き詰められた鉄条網がとぐろを巻いた大蛇の口から覗く鋭い歯のように光っていた。
雑木林の方から人の歩く足音が聞こえて来る。身構えて足音のする方向に目を凝らす。ショットガンを構えたガードマンが二人、辺りを見回しながら近付いていた。
「異常なさそうだ。それにしても不気味だな、絶壁側は。何かが化けて出て来そうな気がする。早く行こうぜ」
ひとりがショットガンの銃口で前方を指し示す格好をした。俺は身構えたままガードマンの後をつけて行った。ガードマンがドアから中に入ろうとする瞬間を狙い、ドアを先に潜り抜けて建物の中に入った。中は電気が煌々と灯り、目が眩む。ガードマンの大きな靴音が辺りに響き渡っていた。目を明るさに慣らした後で、階段通路を伝い、三階へと上って行った。
三階の中心にある部屋に通じる廊下は頑丈そうなドアで区切られていた。ドアには「立入禁止」の文字がある。おそらく司令室はこの奥だ。俺はドアをどうして突破するか考えていた。このドアを破壊すれば、恐らくセンサーが稼動し始める。とにかく中に入って確認しなければ……。
転送装置を使うことにして背負っている装置の袋を掴んだ。転送装置のセットが終わり、転送ボックスの中に入り、スイッチを入れる。
体は一瞬のうちに超微粒の原子と化し、中の大部屋で元に戻った。ボックスから出て、今度は人間に変身し、大部屋を見渡した。
中央に巨大なスクリーンがあり、世界地図のモニター画面が現れていた。赤道を中心に無数の赤いスポットが点滅し、手前には横長の卓上コントロールシステムがある。赤いスポットは稼働している探査ロボットの現在位置だろう。
俺は卓上システムの右手にあるパソコンをONにした。しばらくすると画面上に探査ロボットのリストらしい番号が現れた。ひとつの番号をクリックすると、モニター画面に探査ロボットの画像が浮かび上がった。ブルーと赤のツートンカラーで、ボディから二本アームが突き出ている。美樹の情報と一致している。俺は眼を画面に集中させた。たとえば、第二十五号ロボット。現在位置は南米・エクアドル共和国の首都キトの中心から北北西三十六キロにある山の一角だ。この分だとロボットの配置が大分進んでいるようだな。パソコンをクリックしたら、千百基の登録があった。美樹の情報とほぼ同じだ。こいつらが動き出すと大変だぞ。さて、この司令室を破壊する爆弾をセット後三十分きっかりに爆発させる。爆発の規模は司令室だけのピンポイント爆破。俺は卓上システムの下に爆弾を隠すように置き、準備に取りかかった。
カチリという音を合図にタイマーが動き出した。今から三十分だ。俺はゴキブリに変身し、転送ボックスの中に入った。ボタンを操作して、準備が終わった。転送開始。あっと言う間に、俺は超微粒子状態になり、雑木林の中でゴキブリに戻った。
雑木林から羽を大きく震わせながら飛び立った。絶壁から飛び降りる時、マル秘情報を盗み取った後でM社の九階から飛び降りたのを思い出した。今度は海岸の絶壁だ。強風がひっきりなしにボディに吹き付けてくる。飛ばされないようにしながら岩場にソフトランディングし、人間に戻って、隠して繋いでおいたモーターボートに乗り込んだ。大西洋をロングアイランド沿いに渡る途中大きな爆発音が聞こえた。工作が成功したのだ。当分探査ロボットは動けまい。モーターボートは波をかき分けながら走り去って行った。
ある夜、新聞記者の長谷部とクラブ・ダンサで出くわした。
「よお、久し振りだな。ちょうどいい。ちょっと話したいことがあったんだ」
俺は長谷部の席に移った。ボトルとアイスペールなど一式を持って多国籍のホステスが席に加わった。一緒に多国籍軍をからかい、一曲ずつ生のピアノ伴奏でカラオケを歌った後で人払いをし、長谷部と二人きりになった。
「ロングアイランドの件は知っているな?」
長谷部が訊ねた。
「Kコンサルティングの建物の一室が吹っ飛んだという例の件だろ?」
「あれを今フォローしているんだが、どうも殺虫剤メーカーM社の製品に対する一連の事件と絡んでいるみたいなんだ。KコンサルティングはM社お抱えのコンサルティング会社だし、ロングアイランドの件についてKコンサルティングでは単なる実験の失敗による爆発事故だという以外は黙して語らずの構えだ。だが、あれは事故じゃなく、一連のM社の不可解な事件と密接に繋がっている爆破事件だと俺は睨んでいる」
長谷部はそう言いながら、タバコに火をつけた。
「爆破事件だって? その根拠は?」
俺は驚いて見せた。
「記事にはなっていないが、あの爆破事件から一週間ほど経った頃、妙な飛行物体が南米エクアドルの山中で墜落した。首都キトから南東約四十キロのあたりだ」
探査ロボット二十五号のことを思い出した。爆破したシステム司令室のモニターで見たロボットだ。コントロールシステムを破壊したから探査ロボットは飛行不能になるんじゃなかったか。でも長谷部はあの爆破のあと一週間経ってから探査ロボットが墜落したと言った。
「その飛行物体と爆破事件が関係しているのか?」
しらばくれて訊いた。
「関係者の話を総合すると、どうも爆破された部屋がその飛行物体をコントロールする指令室だったのではないかという推測が成り立つってことだ」
「しかし、もしそうだとすれば、指令室が破壊されれば飛行物体は直ぐに動かなくなるんじゃないか?」
「おそらくシステムコントロールとは別の内蔵エンジンか何かで飛行していたんだろう」
そうか、少々見方が甘かった。M社はその後探査ロボットを自力飛行で稼動させ始めているようだ。早急に帝国を探査ロボットのセンサーから防衛する必要がある。
長谷部は煙を燻らせながら続けた。
「墜落した飛行物体は粉々に壊れて形状も何もわからなくなっていたそうだが、現地の目撃者の情報によれば、ボディは赤とブルーのツートンカラーで二本のアームがボディから出たり入ったりしていたらしい。ところが、それと同じ飛行物体が世界各地、主に熱帯周辺の各国で続々目撃されているんだ。何か臭うだろ?」
「ということはその飛行物体の目的が何かということになるな」
長谷部はウィスキーグラスを傾けて、喉を潤した。
「専門家に取材したところでは、何かを探知する目的の探査ロボットの一種じゃないかと言っている。二本のアームは強力なセンサーかカメラを備えており、画像を基地に向けて伝送する機能を備えていると推測される。ロングアイランドの事件は、何者かが探査ロボットをコントロールする中核システムの破壊を実行したのじゃないかと思えるんだ」
「専門家は探査ロボットの目的についてどう言っているんだ?」
「まだ結論めいたものは出ていない。だが、地上にあるターゲットを狙うにしては少々大掛かりな感じがする。恐らくは地下の何かを探査する目的のようだと話していた。Kコンサルティングに話を向けてみても、クライアント企業の極秘事項との一点張りで、頑として口を割ろうとしない」
長谷部と別れ、真夜中の支局に戻った。デスクの窓から不夜城マンハッタンに聳える超
高層ビルの灯りが闇夜に輝いている。パソコンを立ち上げて、緊急メールを大帝に送った。
ゴーキー大帝殿
殺虫剤メーカーM社の探査ロボットが中枢司令室の破壊にもかかわらず動き始めています。ロボットは強力なセンサーを装備しており、すでに各地にある比較的大きな巣の幾つかは発見されているという情報まで届いております。このまま放置しておけば、いずれ帝国本体が発見されるという重大事態を引き起こす恐れさえあります。そこで進言致します。早急に帝国を被うシェルターを建設されんことを。帝国研究開発室の叡智をもってすれば、可能であることを確信しております。
海外諜報部人間対策課 五木田ブリ蔵拝
俺の緊急提言を受けて、熱帯雨林の地下深くに広がる帝国で巨大なシェルターの建設が始まった。夥しい数の同胞が動員され、探査ロボットのセンサービームを弾き飛ばす絶縁資材などが地下倉庫から運び出された。運送用トラックがフル稼働し帝国の版図の隅々にまで資材を運び出していった。資材が到着すると、同胞の労働者がマニュアルを使って、次々にシェルターの支柱を立てて資材を貼り付けていった。ゴーキー大帝は側近らと共にシェルターの建設作業を大画面のモニターで見守っていた。
「ブリ蔵と話がしたい。すぐに呼び出せ」
大帝から命を受けた海外諜報部長が特殊携帯電話で連絡をよこした。
俺は支局の一室にあるテレビ会議場のモニター画面の前に座っていた。しばらくすると、画面にゴーキー大帝の姿が現れた。
「ブリ蔵。元気そうじゃな。日頃の帝国に対する貢献を感謝する」
大帝は触覚アンテナをビュンビュンと震わせた。それにしても実に醜い顔だ。しかし、ゴキブリの顔相が気に入らないのは、俺がそれだけ人間に成りきって来た証でもある。俺は少々目を逸らせながら大帝の話に耳を傾けた。
「実は今日お前を呼び出したのには二つの理由がある。ひとつは、お前の元気な姿を確認することじゃ。そしてもうひとつは、お前にわが帝国の技術史の一部を知らせるためじゃ」
「帝国の技術史ですか?」
言わんとすることがすぐには飲み込めなかった。大帝の複眼がキラリと光った。
「お前が指摘したように、わが帝国には様々な超ハイテク技術がある。これは我々のご先祖さまから伝えられてきたものなのじゃ。時は何千年か前に遡る。人間界ではエジプトで王朝が栄えていた頃のことじゃ。お前はその時代に人間が如何に優れた技術を持っていたのか知っておるか?」
脳裏に巨大なピラミッドが浮かんだ。
「ピラミッドのことでしょうか?」
大帝の複眼が煌いた。
「その通り。ピラミッドの建設には奴隷が大量に動員されたらしい。今シェルターの建設に動員されているわが同胞のようにな。ピラミッド建設には星座の運行を正確に知るための数学が用いられた。当時の人間はそれにより天体の動きを正確に掴んでおったのじゃ。ピラミッドには巨大な石と石の繋ぎ目に至るまで完全無欠な芸術のように星座の運行を認識した数学が入り込んでいるのじゃ」
大帝が何を言おうとしているのか、まだピンと来なかったが、黙って聞き耳をたてていた。
「ピラミッドを作った頃の人間の技術は最高の水準に達していた。ところが、ピラミッドを建ててしまった人間どもはすっかり慢心してしまったんじゃ。最高のものを手に入れてしまったからじゃの。そしてその後技術を磨き、高める心をすっかり忘れてしまったんじゃ。奢り高ぶった人間どもは、技術は時代と共に進歩すると思い込んで来た。怠慢のせいで技術のレベルがどんどん下がっていったことも知らずに。だからピラミッドを超える精密な建物やシステムはその後生まれていないんじゃ」
「なるほど」
「さらに言えば、人間に最高の技術を与えたのは神ではなく、死滅したと見られている火星の民、すなわち火星人だったんじゃ」
「えっ! 火星人?」
「ブリ蔵、ちょっと頭を捻れば驚くには当たらない。エジプトの首都は何処じゃ?」
「カイロです」
「カイロとはどういう意味か知っておるか?」
「いえ」
「言葉の起源はカヒーラという古代アラビア語で、火星という意味じゃ。最大のピラミッドであるクフ王の墓を守るスフインクスは真東を向いておる。真東には赤い星、火星が位置している。火星は地球の兄弟星じゃが、惑星が衝突したために今では生物が全く住めない星になっている。ただし水が存在することはわかっておる。ということは、生物が存在した可能性が高い。すなわち火星人じゃ。彼らは火星に生物が存在した頃、超高度な技術文明を持ち、エジプトにやって来た。そしてピラミッドやスフインクスの建設にアドバイザーとして参加し、火星の超高度な技術を地球に伝えたのじゃ」
「……」
「我が帝国の祖先は、同じ頃人間とは別ルートで火星人と接触しその技術を手に入れた。人間は既に述べたとおり、もらった技術で慢心してしまった。だが、帝国の祖先は高度な技術を支える星座の動きを正確に反映した基礎数学と技術自体を大切に引き継ぎ、それを様々な形で応用して来たんじゃ。じゃから未だに超転送システムや生体改造技術など、人間をはるかに凌駕する技術を持ち続けておる。その技術で我々を目の敵にする人間どもから身を守り続けているのじゃ。今日はこの辺で」
その言葉を最後に、大帝の姿はモニター画面から消えた。それにしても醜い顔だった。発達した顎、黒光りする肢体。人間からすれば、我々ゴキブリの姿形は、今俺が感じているように恐ろしく気味悪い存在に見えるのかも知れない。ひっくり返せば、ゴキブリから見た人間の姿も恐ろしく醜いのだ。人間に成り立ての頃は、しばらく自分の姿を鏡で正視することが出来なかったのを思い出していた。
ロングアイランドの中枢システムを破壊されたものの、個々の探査ロボットは熱帯や砂漠で探査活動を続けていた。砂漠と言えば、アメリカ合衆国南西部の先住民・ナバホ居留地にある砂漠地帯を探査するロボットが、最近妙なデータをKコンサルティングに送り返し始めていた。Kコンサルティングの藤村はそのデータを持ってM社の直木を訪ねた。
「これをご覧下さい」
藤村は直木にデータ画面を見せた。直木は数字だらけの資料に眉をひそめた。
「一体何の資料だ。これだけではさっぱりわからんぞ」
藤村は組んでいた足を戻し、資料の説明を始めた。
「この列の数字は全てマイナスになっています」
「なるほど、そうだな。それがどうだというんだ?」
直木のしかめっ面が一層ゆがんだ。
「このデータは合衆国南西部にある砂漠の上空付近を飛んでいる探査ロボット約十基が送って来たデータをまとめたものです。数字のマイナスは探査ロボットが地中に向けて発射したビームが地中にある何かにぶつかって反射していることを意味します。その数字で反射角や度数、反射強度等をグラフにしてみるとこんな風になります」
藤村はグラフ画面を出した。そこにはきれいに放射線状になったドーム型の図が描かれていた。
「これは一体? ゴキブリの地下帝国が見つかったのか?」
直木の眉間がぴくぴくと動いていた。
藤村の顔がゆるんだ。
「正確に言いますと、ゴキブリの大きな巣を取り巻き、防御している一種のシェルターのようなものにビームが反射している状態を示しているということで、そのシェルターの中に、かなり大きなゴキブリの巣がありそうです」
「ついに見つけたか!」
直木は両手を揉みながら興奮を隠さなかった。
「我々としてはこの巣に破壊すべきワクチンの転送システムがあるのではないかと踏んでいます。今までに見つかった巣の中で最大であり、シェルターに覆われた巣なんてのは、かなり重要なゴキブリの拠点と考えられますので」
「それで、どうするんだ?」
直木が藤村の顔を覗き込んだ。
「ロボットを使いシェルターの内側に凍結剤を注入して固まらせ、中をモニターして見ようと思います。転送システムがあるかどうか確認出来ます。もしあれば、その場で破壊します」
「いずれにしても凍死ゴキブリの山ができるぞ!」
直木の口から唾が飛んだ。
広報室の天井からゴキブリが一匹、壁を素早く走り降りて行った。太平洋の帝国だけではなく、砂漠にある北アメリカ最大の大きな巣もシェルターで覆えとの大帝の厳命で先日完成したばかりのシェルターが発見されてしまったのだ。
俺は人間に姿を変え、作戦準備に入った。まず帝国に対し応援部隊を派遣してもらうように緊急連絡を取った。部隊の任務はM社の凍結剤発射ロボットを現場に接近する前に破壊することだ。一刻を争うので、音速ジェットで出動するように要請した。既に現地に向かっていることだろう。
M社の内部情報が逐一ブリ蔵の許に入電していた。M社のミーティングルームに仕掛けてある超技術を駆使した盗聴器からの情報である。砂漠の上空を飛ぶ探査ロボットに対し凍結剤を打ち込むポイントを決めるために必要なデータの収集活動が指示されたこと。凍結剤発射用のロボットの部品がニューヨークのKコンサルティング社倉庫から運び出され、先ほど現地に到着し、直ぐに組み立てが始まったこと等々である。
事態は激しく動き始めていた。俺は専用機でナバホの砂漠に向かった。ゴキブリの巣でも避難が始まっていた。子供やメスは地下深くに掘られた避難用のトンネルから巨大な巣を後にした。ゴキブリ帝国からの応援部隊はすでに到着して砂漠の一角に陣取り、高性能レーダーで凍結ミサイルを搭載した敵ロボットの発見に全力を注いでいた。
M社の臨時作戦本部は先住民ナバホ国家の首都ウィンドウロックにあるホテルの一室に設けられていた。大部屋には直木をリーダーとするM社社員十名と藤村を長とするKコンサルティングの技術者ら二十六名が作戦準備に追われていた。
「どうなんだ。凍結剤をぶち込む正確な場所は決まったのか?」
直木が眉をひくひくさせながら藤村に迫った。
「ほぼ確定しました。もう少し詳しく調べてから今組み立て中のロボットに凍結ミサイルを搭載し、攻撃を開始します」
陽光が降り注ぐ砂地の植物群の陰に設けられたゴキブリ帝国側の陣地で、俺はレーダーのモニターを眺めていた。凍結ミサイル搭載のロボットがレーダーに捉えられた瞬間、ピンポイントミサイルでロボットを撃墜するのだ。
「レーダーは確実に標的を捉えるのだろうな?」
「間違いない。帝国開発室のお墨付きだ」
同期の海外諜報部員で、応援部隊としてやって来たボッカは自信有りげに触覚を震わせた。人事報によれば、ボッカにはニューヨークにこのまま留まる内示が出ているということだ。タッグを組めば鬼に金棒である。俺はボッカの触角が力強く震えるのに見とれていた。
その時無線連絡があった。出先の応援部隊からだった。
「チェックメイト・ファイブ・ゼロ! チェックメイト・ファイブ・ゼロ! こちら帝国セブン。応答願う!」
「帝国セブン、こちらファイブ・ゼロ! どうぞ!」
「凍結ミサイル搭載のロボット発見! ロボットはスピードを上げて砂漠の巣に向かっている。すぐにレーダーモニターで確認されたし。我々は直ちにピンポイントミサイルによる攻撃準備に入る!」
「ラジャー!」
帝国の特殊部隊がレーダーで追尾しているロボットに向けてピンポイントミサイルを発射する準備に入った。ロボットは一直線に巣の中心部分に迫っていた。
ミサイルが発射され、ロボットを追い始めた。そして、あっと言う間にロボットに追いついた。
SHORRRRRRRRRR・・・・・・ボム!!
ロボットは大爆発を起こして粉々に飛び散った。
「一体どうしたというんだ!」
M社の作戦本部で直木が叫んだ。
「爆発の直前にミサイルのような飛行物体の陰が見えました!」
「ミサイルだと? 一体何故?」
「わかりません」
藤村は首を傾げていた。
「さっさと対処しろ!」
直木は頭から湯気を出していた。
次の瞬間、今度は砂漠の地下が激しく揺れ始めた。その震動が周辺数キロに伝わった頃、付近の砂漠一帯が噴煙と共に盛り上がり、激しい爆発が起こった。爆破された凍結ミサイル搭載のロボットがターゲットとしていたゴキブリの巣の中心が一瞬のうちに崩壊したのだった。
M社の作戦本部も爆風で揺れていた。直木も藤村も部屋の床に伏せて、揺れが収まるのを待ち続けた。
「よし、やったぞ! 両作戦とも成功だ! さすが帝国の特殊部隊だ」
俺はボッカと触覚を触れ合いながら作戦の成功を祝った。
「おい、見たか。ゴキブリの巣が吹っ飛んでしまったぞ。我々のミサイルが撃墜された直後の話だ。一体どうしたと言うんだ?」
直木が壁に伸ばした腕を支えにしながら叫んでいた。藤村は解説をしようと顔をしかめていた。
「……恐らく……」
「恐らく? 何だ?」
直木が藤村の顔を覗き込んだ。
「爆発の直前に見えた飛行物体はゴキブリが仕掛けたミサイルで、発見されたため不要になった巣を爆破する作戦を同時に敢行して証拠隠滅を図ったものと考えられます。汚らわしいゴキブリの仕業とは思えない、素早いスマートな作戦です」
藤村は驚くと同時に清々しささえ感じさせる表情を浮かべていた。
「おい、正気か。殺虫剤メーカーのコンサルタント会社の人間がゴキブリを誉めてどうするんだ?」
「すみません。余りに手際がいいものですから。まるでスパイ大作戦を地で行ったような爽快さを感じてしまいます。これは一種の芸術です!」
ゴキブリ賞賛の声が耳の中で響き、直木は藤村を刺すような眼で睨みつけていた。
自宅のテーブルに置いていた携帯電話が鳴り響いた。相手を確かめると、直木だった。一体何の用だろう。
「お休みの日に申しわけありません」
直木の声は事務的に聞こえた。
「どうしました?」
俺は少々胸騒ぎを覚えていた。
「五木田さん、やはり嘘をつかれていた」
声は笑みを含んでいた。
「あの娼婦のことですよ。あなたは全く知らないと言う。私に娘がいることは申し上げましたね。築地というクラブにいます。その築地に華子というホステスがいる。あなたもよくご存知のはすだ。華子は最近ダンサから築地に移りましたからね」
直木が一体何を言おうとしているのか、少しずつ見えて来ていた。
「うちの娘に頼んで、華子にその娼婦のことを訊かせたのです。そうしたら、あの女はよく五木田さんとダンサで会っていたというんですなあ。これはどういうことですか? やはり五木田さん、あなたはあの女をよく知っていた。そして女の色仕掛けで、わが社の機密事項を奪い取った。図星でしょ?」
勝ち誇ったような声が気に入らなかった。
「存じ上げませんなあ。そういうことは」
「しらばくれるのもいい加減にしろ!」
鼓膜でも破れそうな大声を避けようと、俺は受話器を耳からずらせた。
「百歩ゆずって、その女性とわたしが知り合いだとしても、わたしがその女性を使ってあなたの会社の機密事項を手に入れたという証拠でもあるんでしょうか。色仕掛けに引っ掛かって機密をゲロしたのは、貴方の方でしょ? 何なら御社の高木支社長に全てをぶちまけましょうか?」
「五木田さん、わたしにはあなたがゴキブリ人間とでもいうべき存在なのが直感的にわかる。でもそれを証明する術を持っていないのが残念でならない」
直木は電話口の向こうで歯ぎしりをしているような感じだった。
「ゴキブリ人間ですって? ばかばかしいことをおっしゃる。もうよしませんか。こんな無駄な会話は……」
「五木田さん、わたしは決して諦めませんよ。あんたの正体をつかむまでは」
電話が一方的に切れた。
直木が俺と美樹の関係を知ってしまった以上、美樹とは当面会えなくなった。
俺は美樹に電話を入れた。
「しばらく暖かいカリフォルニアにでも行っていてくれないか。費用はもちろん用立てる。出来るだけ早く戻れるように、俺も動くから。頼むよ」
「いいわ。あの男、蛇のようにしつこそうよ。気をつけてね」
電話が終わり、おれは今後すべきことを考え始めた。直木は果たしてどんな手で攻めてくるのだろうか。
M社の支社長室。支社長の高木が直木ら幹部社員を前に社を取り巻く状況の説明をしていた。
「君らが知っているように、これまでミサイルX,続くミサイルX2と社の命運をかけてきた新規事業が、ゴキブリのせいで、相次いで頓挫している。社長は頭を抱えておられる。ここアメリカの殺虫剤メーカーとの連携も、事業の失敗でわれわれは完全に信用を落した。不景気がそれを後押しし、業績は全くよろしくない。このニューヨーク支社も縮小するという方向が検討されている」
高木は大きなため息をついた。幹部社員をひとりずつ見つめながら、次の言葉を探していた。支社長と眼が合うと、直木は黙って下を向いた。
「事態はもう切羽詰ったところまで来ている。ここで、踏ん張らないと、支社どころか、本社の屋台骨も危なくなる。皆、そんな危機感を持って仕事に当たって欲しい」
高木の顔が紅潮して来た。何か重要な事柄を話すようだ。直木は高木の表情を見つめた。手に汗がにじんで来ていた。
「わが社は起死回生のため、ミサイルX2を改良し、効き目をさらに強化したミサイルXXXの開発を検討中である。この製造と販売が成功すれば、今までの失敗をカバーしても、お釣りが来る見通しだ。ゴキブリのワクチン作りを今回こそ阻止するためにも、資料の扱いはトップシークレットとする」
「われわれにも教えていただけないということですね」
直木が高木に確認した。
「直木広報部長には後ほどちょいと話がある。とにかくこれまでの失態だけは繰り返してはならぬ。以上」
直木は半時間後、再び支社長に呼ばれ、耳元で極秘資料の扱いについて、指示を受けた。同じ失敗は絶対出来ない。直木は無意識に何度もつぶやいた。
そのつぶやきがもう少しで聞こえそうなところにボッカが張り付いていた。
残念ながら極秘資料の行方は、声が小さくて全部は聞こえなかったが、直木が指示された隠し場所は銀行らしいということはわかった。これだけでも収穫だ。ボッカは羽を振るわせ、ブリ蔵の待つ支局に戻った。
直木は自宅に一旦戻り、セーフティ・ボックスのキーとカードを持って銀行に足を運び、支社長から受け取ったUSBメモリを重要書類の詰まっているセーフティ・ボックスに入れた。
それだけで一日の仕事が終わったような気分に包まれて、直木はキーとカードを持ったまま、最近頻繁に通うようになったクラブ築地に立ち寄った。昔は自分の娘が勤めていたため、行くのは避けていたが、娘が辞めたことで、通うようになったのだ。直木がこのクラブに立ち寄る最大の理由は、この店に新しく入った若く美しいホステスのせいである。スレンダーな姿態に、豊満なバストを誇る、ルリと名乗るホステスがお目当てだ。故郷が同じということで、最初の出会いから意気投合し、独り身になった直木にとっては、機会があれば一度お手合わせ願いたいという下心が出来ていたのだ。
その夜築地の客は少なく、店も早仕舞することになり、直木はルリに軽い食事を誘った。店でリムジンを呼び、深夜まで営業する三番街の有名店に入り、ライトミールを注文し、
ワインで乾杯した。もう後一歩、と直木は機嫌がよかった。
時が過ぎて再びリムジンを店で呼んでもらい、直木は車中でルリの肩を抱いた。ルリが甘えて来た。香水の香りが車内に漂っていた。
ふたりはホテルの前でリムジンを降りた。部屋でルリが最初にシャワー・ルームに入った。直木はシャワー音を聞きながら、ルリの裸体を想像した。バスタオルを巻いて出て来たルリと交代に、直木はシャワーを浴びた。部屋に戻ると、赤ワインがグラスで用意してあった。
「さあ、乾杯しましょ。二人の長い夜のために」
ルリはバスローブの胸元から巨乳をのぞかせ、ほほ笑んだ。
「乾杯!」
バスローブ姿の直木は赤ワインを飲み干して、ルリにほほ笑みを返した。突然ルリの顔がぼやけた。周りの風景が傾いて、直木は床に倒れ込んだ。ルリはバッグから携帯電話を取り出してダイヤルし、相手が出るのを待った。
「ルリよ。もういいわ。来てちょうだい」
一言で電話を切り、ソファに置かれていた直木のスーツのポケットの中身を片端から探った。キーの束、財布にぎっしりと整理されたカード類、社のIDカード。全てをナイロン袋に収めた。ドアがノックされ、開くと頑強な男二人が作業着で現れた。眠った直木を持って来た寝袋に放り込み、肩に担いで出て行った。ルリは服に着替えて、鏡で化粧を整え、ナイロン袋を抱えて部屋を出て行った。
直木が目覚めたのは、暗い部屋の中だった。バスローブがはだけて、身体が冷えている。家具も何もない、ガランとした部屋だった。ピエロの格好をした人物が傍らの椅子に座っているのに気付いた。
「あんた誰だ? 一体ここは何処なんだ」
急に頭痛がして、直木は顔をしかめた。何処か遠いところでポップミュージックのようなBGMが微かに聞こえて来る。突然ピエロが呪文のようなものを唱え始めた。直木は何が始まるのかと、様子をじっと見つめていた。そのうちに眠たくなっていった。ぼんやりとはしているが、覚醒した状態でピエロの声が聞こえる。
「貴殿のお名前、何てえの?」
「……直木……英雄」
「ミサイルXXXって知ってるね?」
「ああ」
「トリプルXの資料は何処にある?」
「銀行のセーフティ・ボックス」
「何処の銀行かなあ?」
「S銀行……六番街支店」
「セーフティのキーとカードは何処だろか」
「スーツのポケットの鍵束にキーが、カードは財布のカード入れだ」
「セーフティ開けるパスワード教えてちょうだいな」
直木は問われること全てにはっきりと答えて行った。
「京都弁でおおきにどすえ~。用が済んだら、涙のバイバイ」
ピエロはその場で、直木から聞き出してファイルした情報データをスマートフォンでブリ蔵に送信した。
ブリ蔵はルリから受け取ったセーフティ・ボックスのキーとカードを持ち、ピエロ男の情報を携えて、直ちにS銀行六番街支店に向かった。
黒光りした三つ揃えのスーツに身を固め、縁のある帽子を目深にかぶり、サングラスをかけて、付け髭を鼻の下に蓄えていた。キーを使い、セーフティ・ボックスを開ける個室ブースに入り、カードをスロットに挿入して、暗証番号をインプットした。システムに乗っかりボックスが運ばれて来て、カバーを持ち上げると、重要書類の傍らに一個USBメモリがある。ブリ蔵は持参したケースにUSBメモリを収め、逆の操作をしてボックスを閉じた。そしてキーでドアを閉めて、何食わぬ顔で銀行を後にした。
ようやく催眠から覚めた直木は部屋を出ようとしたが、ドアが開かなかった。外との連絡手段がない。
それにしても俺はルリという女といいところだった。突然記憶がなくなった。確かあの女とワインで乾杯したまでは記憶に残っている。あのワインに睡眠薬が仕込まれていたのか。それにしても、俺のスーツはどうなったのか。そうだ! セーフティ・ボックスのキーとカードが! ミサイルXXXの極秘資料が奪われる! 直木の頭に一気に血が上った。
ドアが壊れるほど叩いて見たが、何の反応も返って来ない。眼が暗がりに慣れて、天井下の壁を見ると、人が通れそうな通風口の穴があり、網がかぶせてあった。直木は飛び上がって網を叩いて外した。頭を打たないようにかがむ姿勢をとって再度飛び上がり、穴のふちに両腕をかけて、思い切り身体を穴に押し込んだ。先にぼんやりとした光が見える。穴に溜まっていたホコリにむせながら、光に向かって必死に穴を這い出して行った。
ようやく外に這い出した直木は、裏通りから汚れたバスローブ姿のまま表通りに出て、走って来た車の前に立ちはだかった。車は急ブレーキをかけて止まった。
「あぶねえじゃないか! 何だ、お前は!」
年配の紳士が、開けた運転席の窓から首を突き出して怒鳴った。
「すみません。携帯電話を貸していただけませんか。決して怪しい者じゃございません。ニッポンの殺虫剤メーカーの社員でナオキといいます。緊急に社に連絡することがありまして……」
「こっちまで来い。俺が見張っている傍で電話しな」
紳士は不審げな表情を向けながらも、携帯電話を直木に手渡した。直木は社の部下を呼び出し、S銀行六番街支店に電話を入れて、直木名義のセーフティ・ボックスの出入りをストップするよう伝えた。
紳士に頼み込んで部下からのコール・バックを待った。
「直木部長、たった先ほど出し入れがあったようです」
「何! 書類とは別にUSBメモリがあっただろ?」
「ちょっとお待ちくださいね。尋ねてみますので……」
電話の会話が長引いているのを気にした年配の紳士は車を舗道沿いに移動して停め、降りて来て、車道でバスローブを着たまま携帯での会話を続けているアジア系の男に早く俺の携帯電話を返せとジェスチャーを送り始めた。直木は手で拝みながら、もう少しだけお願いします、と頼み込んでいる。やっと、部下の声がした。
「部長、そのようなものは一切ないとの返事です」
やられた! あのルリという女……。直木は携帯を握ったまま力なくその場にへたり込んだ。年配の紳士は直木の手からもぎ取るように携帯を取り返し、車を発進させて去った。
スーツを着に自宅へ戻った直木は、辞表をしたためて、支社長の高木に電話で一報を伝えた。
「これから銀行に行きまして、詳細を調査して参ります」
「何をしてくれたんだ! 一体全体!」
高木の一言一言がナイフの刃のように直木の胸を刺した。直木は銀行に直行した。心
が揺れる。支社長も、支社長だ。俺のセーフティ・ボックスに極秘資料を保管してくれと
言ったのはあんただ。俺は断ったのに、支社よりも安全度が高いと言い張った。いずれに
しても、もう俺はお仕舞だ。ミサイルXXXの極秘資料を盗んだ奴はあいつに違いない。あの男だけは絶対に許せない! 直木の心に怒りの炎が燃え盛っていた。ミサイルX
XXの極秘資料を基に帝国では早急に成分を分析し、急ピッチでワクチンが製造ラインに
乗った。そして超技術・世界デリバリーシステムがどんどんワクチン配送を始めた。
世界のゴキブリのほぼ大部分がワクチン接種を終えた後、人間界ではまた騒動が起こり
始めた。
「こんな製品だめだ! よく効くと言うから信用して買ったのに、ゴキブリの駆除なんか出来ないぞ! かえってゴキブリが増えたような気がする」
事実そうだった。帝国の指示で、ふだん草むらに生息しているゴキブリたちが、わざわざ人間の目につくように、続々と家の中に入って来ていたのだった。
M社のお客様相談室には連日のように苦情が殺到した。政府の消費者担当セクションはM社に対し、実情の把握に努めるよう指導するとともに、騒動が収まるまで製品の販売を自粛するよう異例の要請を行った。
その後も、ミサイルXXXに対するクレームは収まらず、M社は命運を賭けた製品の販売中止に追い込まれた。信用失墜による主要銀行団の融資引き揚げなどが重なり合い、経営を圧迫されたM社はついに倒産に追い込まれてしまった。
カリフォルニアに身を隠していた美樹がニューヨークに舞い戻って来た。俺は直木に気をつけるように注意しただけで、美樹の自由にさせていた。それがとんでもないことを引き起こした。
ある夜、美樹は客と待ち合わせのため、クラブ・サンダに居た。客がいつまでも現れなかったので、連絡を入れてみたが、応答もない。しびれを切らせた美樹は店を出たところで車に連れ込まれて拉致されてしまった。
主犯は直木だった。直木は俺を呼び寄せるため、チンピラに金をばらまいて、美樹を拉致させた。俺は直木に呼び出され、指定された真夜中のバッテリー・パーク近くの空き地に足を運んだ。暗闇に目が慣れて来ると、直木が美樹の顔に銃を付きつけて、立っていた。
「久しぶりだな、五木田」
直木は獲物を前にした猛獣のような表情で、俺を見据えていた。美樹は後ろから羽交い絞めにされたまま、頬に銃を押し付けられて、苦しそうな息をしていた。
「美樹を放せ! 男らしく勝負しろ!」
「それもいいかもな」
直木はあっさりと美樹を解放し、銃を構えていた。美樹は俺の背後に身を隠した。俺は後ろポケットからこっそりと美樹に銃を手渡した。
「さあ、決闘だ。背中を合わせてから、それぞれ反対方向に十歩歩く。そして振り返りざま撃つ!」
直木は自信がありそうだった。自信満々の様子が気にかかった。素人が百戦錬磨の俺と決闘するなんて自殺行為だ。きっと何かある。
背中を合わせ、歩き始めた。
「ワン。ツー。スリー……」
俺はカラクリを暴こうと集中した。
「……シックス。セブン……」
誰か、もう一人、俺を狙っている奴がいる。何処だ? 複眼を闇に走らせる。触角アンテナを研ぎ澄ませる。風もないのに、左斜め後方の樹の枝が、かすかに揺れている。スナイパーが樹の上からライフルで俺に照準を当てて、狙いを定めている。
「ナイン。テン!」
BANG!
俺は振り返りざま、一発目を前方右斜め上の黒い影に向けて撃ち込んだ。悲鳴が聞こえて、樹の上からスナイパーが激しい音を立てて地面に落下した。
BANG!
直木に向けて撃った俺の第二弾は胸に当たり、直木が吹っ飛んだ。俺は直木に駆け寄り、銃を遠くに蹴って、樹の下でうつ伏せに倒れている男に触れた。死んでいる。
BANG!
銃声がして、俺は尻に強烈な痛みを感じ、ぶっ倒れた。直木が死に物狂いで銃へと這い、撃ったのだった。直木を食い止めようと美樹は渡された銃を構えていたが、オロオロする間に事が進んでしまっていた。でも、やらなくっちゃ!
BANG!
銃に慣れない美樹が撃った弾が命中し、直木は絶命した。
「五木田さん、しっかりして!」
俺を抱きかかえて、美樹が叫んでいた。その声もぼんやりとして、俺は気を失った。
それから二か月。俺は治療を終えて退院した。
ゴーキー大帝は万一に備え、予備帝国建設委員会を新たに発足させた。三億年の歴史を刻んで来たゴキブリの生存を維持することが、大帝としての最大の責務である。建設委員会では帝国の引っ越し先候補を選定するため、専門家を特別部隊編成にし、各地に派遣して調査を開始した。
一方で、大帝は長期視野に立ってブリ蔵やボッカのようにゴキブリをハイブリッド人間にする超技術を使い、ハイブリッド人間を増やしてゆく方針も決定した。これまでの「人間は不倶戴天の敵」という考えを根本から見直そうという大胆な試みである。それをゴキブリ界にPRするため、大帝自らが人間化手術を受けたという知らせが舞い込んだ。一体どういうことなのか? それはゴーキー大帝と面会することになった前日のことだった。
またあの醜いご尊顔を拝さなければならないのか。俺の心は沈みながらも、支局で面会の時を待っていた。時間が来て、俺はオンライン画像を見た。
驚いたことにそこには帝国の幹部が全員顔を揃えていた。
俺が画面に映ると、割れんばかりの拍手が起こった。
モニター画面にはまだ大帝の姿はない。俺はおもむろに透明サングラスをかけた。相手の顔が見えなくなる工夫が施されたサングラスである。これであの醜い大帝の顔は見ずに済む。時間が経ったが、大帝は一向に現れない。一体どうしたのか。
突然ファンファーレが鳴り響いた。画面がパッと明るくなり、俺はあっと驚いて思わず透明サングラスをはずした。
ネクタイ・スーツ姿の男優のようなイケメンが画面中央に映っている。
一体これは?
「お疲れじゃった、ブリ蔵」
イケメンから発せられた声は紛れもない大帝の声だ。しかし、あの醜い姿がない。えっ、ひょっとしてあのイケメンは?
俺は目を何度も擦りながら、もう一度画面の男性を見つめた。
「どうじゃ、ブリ蔵。わからんか? わしじゃ、大帝じゃよ」
「えっ、どういうこと?」
頭が混乱して、理解出来ないブリ蔵である。
「ブリ蔵、わしもお前のマネをしてみたくなってな。人間化手術の第一人者ブーリー君にわざわざ帝国本部に出張してもらい、手術を受けたのじゃ」
ブーリー? 俺の手術を担当した腕利きの医者だ。懐かしいが、俺は唖然としたまま、動けなかった。
「どうじゃ、このスーツも似合うじゃろ? ヨーロッパ総局経由で取り寄せた人間界で今年人気ナンバー・ワンのスーツじゃ」
大帝は黒光りするスーツを着たまま、モデルのように一周回って見せた。会場からまた割れんばかりの拍手が起こった。まだ事情が完全には飲み込めないまま、俺はまず呼吸を整え、暫くおいてからようやく言葉を発した。
「そのご変身ぶりは一体何故なのでしょうか?」
大帝は俺をじっと見据えて、頷きながら言った。
「ブリ蔵よ、その質問に答える前に、この度のワクチン製造と全世界的配布のお陰でミサイルXXXも張り子の虎と化し、M社も倒産して帝国全体が喜びに満ち満ちておる。本当にご苦労じゃったな」
帝国幹部は総立ちになり、拍手は暫く鳴り止まなかった。俺は深く礼をした。
拍手が鳴り終わったことを確認し、大帝が続けた。
「さて、話はガラッと変わるが、お前の疑問に答えよう。ゴキブリ三億年の伝統と歴史を守り切り、次の世代に渡していくのは並大抵のことじゃないと最近つくづく思い至った。それじゃどうするのか。わしは様々な角度からゴキブリ帝国及び国民の行く末を模索してみた。そこで思い立ったのが、帝国民の人間化じゃ。お前やボッカ、それにルリのように人間界に入り込んだ者たちが将来的に人間女性あるいは男性と結婚し、ハイブリッドの子供を少しずつ増やしていくことが、長い目で見れば、ゴキブリ帝国が生き延びるために必要なことと思うに至ったのじゃ。じゃから、わし自ら率先して人間になってみようと考えた。わしもこのダンディな顔と姿で人間女と不倫のひとつでもしてやろうと思うんじゃ」
間髪を入れずモニターから女性の大声がこだました。
「貴方! 聞いたわよ! 不倫をされるおつもりですか!」
画面に突然皇后さまが現れ、大帝を睨みつけていた。
「おいおい、冗談に決まってるじゃろ!」
大帝のうろたえる姿を俺はその時初めて垣間見た。
「いいえ、今のは冗談に聞こえません。許してあげる代わりに、わたしにも人間化手術を受けさせてね。美人女優に変身したいの。いいわね?」
皇后さまが詰め寄った。大帝は汗だくになり、ハンカチで顔を拭っていた。
どうせ取り留めた一命だから、これからは思い切ったことがしたいと、俺は気に入った人間の女性と結婚することにした。大帝の帝国サバイバルに向けた言葉もそれを後押ししていた。彼女の名は芳恵。ダンサ・ママの大の親友だ。虫が嫌いで、特にゴキブリは大の苦手という年の頃ならアラサーの女丈夫である。もし間違って俺の正体を知ったら、気絶だけでは済まないだろう。
ある休日、家で寛いでいた。家というのはありがたいものだと最近つくづく思う。社会の束縛から解放され、何をしようがまず文句は言われない。
結婚して家に二人っきりで居ると、新しい発見をすることも多い。その日がそうだった。
暇に任せて、納戸で捜し物をしていた。隅に殺虫剤のスプレーが無造作に置いてある。あのミサイルXXXだ。俺があの一連の事件に関わっていた頃買って来た参考品を後生大事に新居まで持って来たのだろう。
俺がその殺虫スプレーのせいで、どれだけ冒険を繰り返して来たのか、もちろん芳恵は知る由もない。ゴーキー大帝が仰せのごとく、人間とゴキブリの最終戦争というものはまだ戦われていない。果たしてそんな事態は起きるのであろうか。
「貴方、何してるの?」
突然、芳恵の声がした。
「納戸を片付けているんだ。それはそうと、ここに殺虫スプレーがあるけど、もう捨てちゃおうか?」
「ああ、ちっとも効き目がないって販売中止になった奴でしょ? クレームが殺到してさ。でも、置いといてよ。おまじないみたいな感じで……」
その瞬間、二人の目の前をゴキブリが走った。
「きゃああ!」
芳恵はスプレーを持ち上げて、ゴキブリめがけて思いっきり噴射した。ゴキブリは一発で動かなくなった。
「やったね! ちゃんと効くじゃない!」
芳恵は笑みを浮かべ、スプレーを振りかざした。
このゴキブリはワクチンを服用していなかったんだ。まだそんな同胞が居る! 俺は書斎に走り、パソコンで帝国にメールを送った。
『同胞に殺虫剤による死者あり。ゴーキー大帝の厳命として、ワクチン接種あるいは服用の徹底乞う! 海外諜報部・五木田ブリ蔵』。
それから一年後、俺と芳恵に子供が生まれた。勿論ハイブリッド人間の誕生である。ボッカも近々結婚する。ベイビー誕生も間もなくだろう。大帝の深謀は果たしてどんな道を辿ることになるのだろうか。俺は芳恵の抱く赤ん坊の寝顔を見ながら、ハイブリッド人間の将来を想像してみた。
一週間後、支局に長期の海外出張に出掛けていた北川支局長と部下が帰って来た。支局
長は契約駐在社員であるブリ蔵を支局長室に呼び、初めて挨拶を交わした。
「君が五木田肇君だね。重要な会議がヨーロッパ各国で重なって開かれたもので、長期間留守にしてしまった。でも、丁度君が入れ替わりに赴任してくれたので支局をまるっきり留守にせずに済んだよ。伝言に残しておいたが、各関係先との挨拶は勿論済ませたのだろうね?」
「はい、済ませました」
「留守の間何か問題は発生しなかったかね?」
「ええ、特段何も……」
「そう、それは良かった。それで五木田君、今回のように長期間支局を空けざるを得ないケースが今後も増えそうなので、君と一緒に支局を守ってもらう支局員を一人増員することになったんだ。もう間もなく出社して来るはずだ」
北川がそう言い終わった途端、ドアベルが鳴った。ブリ蔵はドアを開けて驚いた。
「最上さんじゃないか! M社があんなことになってどうしているのかと思っていたんだ。そうか、君がわが社に……」
二人は固い握手を交わした。支局長が言う。
「M社が破産したので、うちを担当してくれていた最上君をわが社で引き取ることにしたんだ。最上君はニューヨークを良く知っているから、放送の仕事さえ覚えてくれたら、即戦力として働いてもらえるからね。君らはお互い良く知っているようだから、なお安心した。まあ引き続き仲良くやってくれ給え」
ブリ蔵は亡くなった直木が俺と美樹の関係をしつこく問い質したにも拘わらず、一切口を割らずにいてくれたことに感謝していた。
二人はランチタイムに一緒に出掛け、ストリートベンダーの出店でホットドッグとソフトドリンクを買い、舗道の真ん中にある噴水近くのベンチに腰掛けた。陽光が噴水に反射し、キラキラと輝いている。最上はホットドッグをかじりながらブリ蔵に話しかけた。
「ゴキブリの帝国に当社が倒産に追い込まれたって大々的に新聞が報じた頃があったね。色々な続報があった中で、ゴキブリのスパイが暗躍したという記事もあった。亡くなった直木部長も随分と君のことをスパイ呼ばわりしていたのを思い出すよ。でもこんなにしてまた一緒にこのニューヨークで仕事が出来るなんて実に幸運だと思っている」
二人は傍らにホットドッグとソフトドリンクを置いて、改めて握手を交わした。
その日夕方になり、二人は日本料理店で夕食を済ませてから久しぶりにクラブ・ダンサに立ち寄った。和服のママが笑顔で迎えてくれた。
「新しいピアニストが入ったの。ほら、可愛い女性でしょ。一曲歌ってよ」
ウィスキーグラスを傾けてから最上と俺は順番に十八番を歌い、それぞれチップをピアニストに渡した。
暫くすると美樹が顔を覗かせた。
「五木田さん、お久しぶり! あら、最上さんも一緒だ。会社が倒産したんだって? 大変ねえ」
最上は酔いが回った顔で黙って美樹を見つめていた。
俺が事情を説明した。
「へえ、そうなの。良かったじゃない」
美樹は最上に微笑んだ。
最上はこっそりと俺の耳に囁いた。
「今晩美樹さんとデートがしたい」
仲を取り持ってくれということだ。俺は最上の耳に呟いた。
「自分で気持ちを伝えろ」
最上は一瞬戸惑いの表情を見せたが、美樹に向き合ってはっきり言った。
「今晩付き合って下さい」
美樹の顔が綻んだ。
「いいわよ」
俺は最上と乾杯し、二人が手に手を取って出掛けるのをそっと見送った。
了