プロローグ
これから書き足します
――精霊樹の森に、天使が墜落した。
かねてより力添えを依頼していた、悪魔族討伐への助っ人であると、一部の古老精たちは色めき立ち、精霊樹の森を統治する獣人の王、ジンへとその旨を報告した。
「―――」
報告を受けた獣人族の若き王は、その獅子に似た端正な顔を僅かに歪め、何事かを考え込むように押し黙った。
そして―――。
「……分かった。ならば、俺自ら赴かねばなるまい」
そう言って、森の奥深くに位置する自らの居城から軍を率い、直接この里までやってきたのである。
ジンは、齢二〇にして既に立派な体格をしており、全身を覆う体毛も美しい夜闇色をしている。
――獣人族の族長でもあり、この森を統治する彼は、獅子に似た特有の頭をもつオーブ族の雄だ。
その筋肉質な肉体は、王としての貫禄ある巨躯をより大きく見せており、頭にたっぷりと蓄えた黒いたてがみはその流れを全身の体毛と同化させ、全身を漆黒で覆う姿は見るものに高貴さと威圧感を与える彼の武器でもある。
盛り上がった胸筋と腹筋、手足や顔など、体毛の薄い部分は浅黒い肌をしていた。胸元にはオーブ族に伝わる入れ墨が彫られている。見るものがみればそれがより一層、彼の強さを表していることに気づくだろう。
人でいう白目が黒く、その中に浮かぶ黄金の瞳は虹彩が縦に長く、漆黒の夜空に浮かぶ月のように輝いていた。
そんな彼の耳が、先程から忙しなくくるくると回っている。
黒い鼻腔をひくひくとさせ、マズルを左右に振っては、その大きな掌で落ち着きなく顔を撫でる。
(何だ、この匂いは……?)
それは、微かな異臭であった。
ついぞ、この森では嗅いだことのない匂い。――だが、決して不快ではない香りでもあった。
どこか懐かしいような気さえする、甘い香り。しかし、同時にどこか落ち着かない気分にもさせられる。
それは、不思議な感覚だった。
ジンは、その鼻腔に広がる甘美な香りの正体を探るべく、その鋭い嗅覚を最大限に働かせる。
すると、ふわりと漂う香りの帯の中に、ある一つの存在を感じ取った。
(――これは……血の臭い? しかも、人間のものではない。)
「まさか……」
ジンは、嫌な予感を覚えて呟いた。
そして、彼は己の直感を信じて踵を返した。
「族長!お待ちください!」
驚いた側近たちが、彼の背後で慌てた声を上げるが、ジンはそのまま真っ直ぐに駆けてゆく。
彼の速力には追いつけるものはなく――やがて、その視界が開ける。
そこは、精霊樹の森の奥に静かに聳える巨大な霊木の下に広がる墓所だった。
その入り口には、すでに数名の兵たちが立っている。
――彼らは皆、一様に困惑した表情を浮かべている。その視線は一点を見つめたまま動かない。
彼らの見据えた先にあるものを見て、ジンは思わず息を飲んだ。
それは、大樹の根元に、身を預け、眠る一つの影。
白銀の髪は長く、墓所に差すわずかな陽光を集めて輝くように細い身体を覆っている。その見た目は、人間族の女の形に近い。だが、人間族とははっきりと違うと、一目見ただけで思う。
――それは、あまりに美しく、生の匂いを感じさせない、作り物のような美貌だった。
天使だ。――皆がそう思い、たじろぐ。
眠った状態でもその身から立ち昇る静謐な空気は一瞬で、地に住む自分達とは違う生き物――否、存在であるとはっきりと理解させられる。まるで、神域にいるかのような錯覚すら覚えるほどの神々しさがあった。
ジンは咄嵯に、天使の元へと近寄る。
声を出せないのか側近たちが引き止めようと不敬にも腕を掴むが、構わず前に進む。
――それは、衝動に近かった。本能的に、目の前で倒れている存在を守らなければと思わせる何かがそこにあったからだ。
彼は、その天使の肩に手を置き、首に触れる。
脈はあるようだ。しかし、反応はない。
その際に感じたのは、異常な細さと軽さだった。触れた手に伝わる体温も低く、冷たい。
生命に溢れるこの森において、ゾッとするほどの死の香り。
「……っ」
ジンは焦る気持ちを抑え、彼女の身体を見分する。
目立った外傷はないが、所々かすり傷と焼け焦げた跡が、天使の全身を覆うぴったりとしたボディスーツに見受けられる。
呼吸を確認しようと、その口元に鼻を近づける。微かだか、鼻先に当たる呼気に彼は胸を撫で下ろした。
そうして、改めてはっとする。
至近距離で見ても、見れば見るほど、美しい容姿をした天使だった。長い白銀の髪に隠された素顔は、閉じられた瞼の向こうにある瞳を見る事が出来ないことを惜しいと感じる程だ。
(くだらん……何を考えているのだ)
ジンは軽く頭を振るい、身に纏った外套を彼女に被せ、そっと抱き上げる。そのまま墓所を離れるために足を踏み出す。
呼び止める声も、制止の声も上がらなかった。
――まるで、そうする事が定められていたかの様な、二人の様相に、ただ呆然と、周りの者たちはそれを見つめる。
「……」
ジンは、無言のまま森を進む。
抱えた天使からは、先程の微かな甘い香りが漂っていた。
それは、彼がかつて経験した事のない感情を呼び覚ますもので――何故だか、心がざわつくような気がしてならなかった。
まだ続きます