第5話 山の中
小山城から逃げ出した犬たちは、思川の流れに身を任せ、南へ南へと泳いでいった。小山城の付近は土地が盛り上がっているのか流れが早かったが、ずいぶん流されていくと次第に緩やかになっていった。
その道中、振り返るとびっこがとても辛そうだったため、吾輩はびっこを背負って泳いだ。ここまできて溺れ死ぬなどやりきれぬ。
「も、申し訳ございません....私めのような卑しい女が、殿下のお背中を借りるなど....」
ぶつぶつと呟くびっこの言葉が耳に届くたびに、吾輩の耳が痒くなってくる。まったく、この者も雌だとは思わなかった....。息絶え絶えの、か細い声を耳元で呟くものだから痒くて仕方ない。
「だ、だいぶ流れたし、もう追っ手も来ぬだろう。そろそろ岸に上がるとするか。皆に声を掛けてくれると助かる」
「はい。あなた達、岸に上がりなさい!!コタロウ様のご指示です!!岸に上がりなさい!!」
片耳が指示を飛ばし、15頭の犬が川岸に辿り着く。ブルブルと身体を震わせ、水けを飛ばした。西を見ればもうすぐ陽が沈みそうだ。闇夜に鼻が利きづらくなる水中にいるなど自殺行為もいいところ。川を泳ぐより、陸を歩いた方が安全だろう。
「コタロウ様、このまま南へ向かうのですか?」
「そうでござる」
「何処かアテがあるのでしょうか?北ならば私が隠れ家にしていた洞穴があるのですが.....」
アテがあるかと聞かれて吾輩は目を瞑った。
もう随分も昔のことのように思えたが、パパ殿との会話を思い出していたのだ。
ーーコタロウ、もしお前が戦国時代に迷い込んだら埼玉県の太田資正という武将を頼るんだぞ?
ーークゥゥン(パパ殿w そんな空想話、子供でもしませんぞw)
ーー埼玉県の岩槻城、松山城にいた太田資正は大の犬好きなんだ。なんでも犬の軍隊もあったらしいぞ。あの時代に犬に目をつけるとは素晴らしい武将だな。生き残りの難しかった関東で、70歳まで生きだけはある。
ーークゥゥゥン(やめてww腹が捩れるでござるwww)
あんな会話が役に立つとは思わなかった。いつもママ殿の尻に敷かれていたパパ殿であるが、こうも先見の明があったとは、やはりパパ殿は只者ではないのであろう。笑い飛ばして申し訳なかった。
「このまま南を目指す。小山高朝殿が存命ということなら、太田資正殿も居られるはずだ。この時代に珍しく、犬を寵愛してくださる素晴らしい御方。そこに行き、皆で仕官するでござる」
「な、なんと.....仕官するのでございますか.....?殿下の深慮遠謀、頭が上がりませぬ。なんと感謝を申し上げたら良いか」
そう言うとびっこは吾輩の頬に鼻を擦り付け、自分の頭を吾輩の身体に擦り合わせてきた。
「こ、こらっっ!!この雌犬!!コタロウ様に気安く近づくんじゃない!!」
「何を仰っているのやら。私とコタロウ様は水の中ですでにくんずほぐれつ肌を合わせた仲、陸に上がったからと言って何が変わりましょう」
「小娘ぇぇ!!噛み殺してその死骸、河原に晒してさしあげます!!」
歯を見せてグルルと唸る片耳。
はあ.......川から上がったと思いきや騒がしいことこの上ない。この先、大丈夫であろうか....。吾輩、心労でハゲてしまうかも知れん。
「やめよやめよ。別に減るもんでもなし。それより歩きながら寝床を探そう。雨も止んでいるが増水の危険もある。川から少し離れておかねば」
「「「ははあっ!!」」」
*****
川沿いを南下していくと森に当たった。山というほど大きくはないが、丘のような山。もうすっかり陽が落ちていて、あたりは真っ暗闇だ。そんな森を前にして、入るべきか否かを思案していると、びっこが声をかけてきた。
「この森に入られるのですか?」
「いや、ううむ.....。人間から隠れるのには丁度良いが、獣の臭いもするしどうしたものか。安全さと危険さが紙一重な感じがしてな」
「森なら食べ物もあると思いますが.....」
「そうでござるが。ううむ.....」
吾輩が唸っていると、森の中から呻き声もしてきた。
「ひぇっ.....何か聴こえてきたっぺよ」
「何だべか今のは?」
「なんまんだぶ....なんまんだぶ....」
片耳の娘は尻尾を立てているが、それ以外の雑種たちは尻尾を畳んで震えていた。闇の中から聴こえてきた声が恐ろしかったのだろう。吾輩はと言えば、現代で色んな音を聴いているから特に恐怖心はない。テレビの音なんかに比べればどうということはない。
ーーううう.....うううう......
ーーアアアアアアアーーーアアアアーーー!!
「なんでしょうか?人間の声?」
「人間のようでござるな。こんな声を聴きながら夜を明かすこともできまい。吾輩が調べてこよう」
「私めがお供します」
吾輩と片耳が山林に踏み入る。少し歩くと、人間が歩くような踏み固められた山道に出た。声がする方にとことこ歩くと、人がひとり、蹲っているように見える。
ーーアアアアアアアーー!!アアアー!!!
よく見れば声の主は赤子だった。それも産まれたばかりの。なるほど、何故こんなところにいるのか分からんが、急に産気づいて出産してしまったのだろうな。臍の緒が切れず、母親は動けぬようだった。
ーーひっ.....送り犬?!!やめて!!来ないで!!!
我らを野犬か何かと勘違いしたのだろう。こちらに気が付いた母親が声をあげた。まあ実際、似たような野良犬ではあるが、人間を食おうなどと思う訳がない。しかしこの母子、このままで大丈夫であろうか。
グルルルルル.....
どうしたものかと眺めていると、我々の反対側に光る目玉が見えた。獣の臭いだ。
「コタロウ様、狼です!」
「こ、これはいかん!!割って入るぞっ!!!」
赤子の泣き声に呼び寄せられた狼が何匹いるか分からなかった。しかしこのまま見捨てる訳にもいかぬと、吾輩は駆け出し、狼と母子の間に飛び込んだ。
関東見取図