第4話 正しい関係
犬追物という遊びは、犬に獲物を獲らせるのではなく、犬自身を追いかけて矢の的にする戦国時代の遊びらしかった。そんな話を聞いていなかった吾輩は、とにかく必死に逃げ回った。
「ハァハァハァ....これはキツいでござるな.....体力的には全く問題ござらんが、精神的に」
「コタロウ様、申し訳ございません!!私が先に出るべきでした....次は私めが行ってまいります」
吾輩が犬小屋に戻ると、片耳しかない雑種が駆け寄ってきてそう言う。すぐにドッグランのような馬場に躍り出て叫ぶ。
「私がお相手いたすっ!!」
片耳が走っていく。なかなかのスピードだ。目に精気があるだけのことはある。
他の雑種たちはまるで馬がそうするように、吾輩の頬に頬を擦り寄せてきた。労いの気持ちなのだろうか。終わった順に柵に近づき、我が身のことのように片耳を見守り始める。
「ああっっ.....!!!」
「ひあっっ......!!!」
「うぐぐ.....なんと惨い.....」
吾輩は、皆なぜ逃げないのだろうかと首を傾げた。こんな仕打ちまるで地獄のようではないか。ここのケージはともかく、追物をしている馬場の柵はかなり粗い。自分の番が来た時であればサッと逃げられるだろうに。
「なにゆえ皆逃げぬのか、そのようにお考えでしょうか。殿下」
「え?!まさしくそのように考えていたが」
吾輩の心を読むかのように声を掛けてきたのは、少し後脚を引きずった歩き方をする雑種だった。先天的にか後天的にか分からぬが、いわゆるびっこなのだろう。しかしその目には知性が宿っているように思える。
「元気な者は逃げることが叶うやも知れませぬが、ここには私のように走るのが不得手な者や、矢傷を負ったばかりの者もおりまする。それ故、なかなか難しいことにございます」
「少しずつ逃げるのはダメなのであろうか?」
「逃亡者が増えれば対策がされるでしょう。あの馬場の柵の粗さが改まれば、元気な者すら逃げられなくなります」
そう言うと、びっこは首を垂らし、耳を畳んだ。
「しかし殿下はお逃げください。私たちのような卑民と異なり、殿下は貴き御方。逃げ果せればどこかの家に仕えることも叶いましょう」
「..........」
なぜこうも死にたがるのか吾輩には分からなかった。全員逃げたいなら全員逃げれば良い。囚人同士に監視させてるのでもなければ如何様にもやり方があるだろうに。
そんな疑問も、少し逡巡して合点がいった。
恐らくこの雑種たちはこの世に絶望しているのだ。逃げた所で飼われる訳でもなし、メシにありつけるどころか自分が人間のメシに成り得る。だからここがマシと思い込んでいるのだろう。
「分かったでござる」
「それは良うございました。今日はもうあの片耳だけで終わりましょう。明日すぐにでもここをお発ちください」
「明日は無理でござる。穴を掘らねばならぬから」
「は.....?穴ですか.....?」
びっこは目を丸くした。目の前の貴き御方は、自分の話を聞いていたのだろうかと。馬場の柵が粗いのであそこから逃げれば良い、と伝えたはずなのだが。
「そうだ。穴を掘って逃げる。全員でな」
そう言い終わる頃には、残りの雑種たちが集まってきていた。
「に、逃げるんだべか?」
「一体どこへ.....」
「分からぬ、穴を掘るらしい」
ひとりひとりを説得する時間はない。時は命と同義。ぼうっとしていたら誰かが死んでしまう可能性もある。そう考えた吾輩は無言でケージの隅の土を掘り始めた。ざわざわとする雑種たちの話し声を背にしながら。
*****
数日間、吾輩は穴を掘り続けた。
ケージの柵は木板同士を繋ぎ合わせたりはしていない粗末なものであった。しかしそれが故に、土中に木板が埋めることで固定されており、掘らなければならない穴はかなりの深さになった。
「く.....まさか雨とは」
もうすぐ向こう側に到達しようという所まで掘ったのに、その日は夜から少し雨が降っていた。これでは穴も泥まみれ、最悪は水没しているだろう。
「殿下。やはり殿下だけでお逃げください」
「そうです。コタロウ様だけでもお逃げ頂ければ我らは幸せです。以前と変わらぬ日々が来るだけですから」
片耳とびっこがそう言いながら近づいてくる。
「まだだ。まだ吾輩は諦めておらんよ」
「そんな.....」
「穴が使えずともこの雨であれば土が柔らかくなっておろう。吾輩が駆け回る間、木板を押し倒すのだ。柵が倒れれば皆逃げられる」
時間がない。吾輩は一番乗りで馬場に躍り出て、叫んだ。
「良いか?!柵を押し倒せたら皆で逃げよ!!吾輩はそれを見届けてから逃げる!!」
頭上では、雨の日の追物もまた乙なものですな、とか、なに敵と相対すのは常に晴天とは限らんからな、とか、ははは宇都宮めは卑怯千万にござるからな、などと聞こえてくるが最早どうでも良い。
ヒュンヒュンという矢の音を聴きながら、吾輩は逃げ回り、時折ケージの方に目を向けた。まだ動きはないらしい。とにかく叫び続けた。
「押せ!!!早く木板を押すのだっっ!!!!」
「..........」
「早く逃げよ!吾輩が新天地へ連れて行くでござる!!そこを出たら西へ逃げるのだ!!!日の沈む方角へ!!!」
「ぐっっ.....」
吾輩の声に、数匹が木板を押し始めた。しかし一番に気力体力が残っているはずの片耳は、吾輩を見つめたまま動かない。その目は最初に会った時とはうってかわって、死んでいるような目であった。
「コタロウ様.....無理でございます.....どこへ行ったとて変わりはありません.....」
「変わるっっ!!かような仕打ち、人と犬との正しい関係にござらん!!」
「正しい....関係.....?」
「左様!!人と犬は、守り....守られる間柄!!!それを吾輩が見せてやるっっ!!!」
守り守られる間柄.....?今も尚、矢を射られながら逃げ回っているコタロウの姿からは、全く想像ができなかった。人と犬が守り合うとは.....一体どのようなものなのだろうか。
片耳が信じられなかったのは無理もない。食料や矢の的としか扱われてこなかった自分たちが、人間から守られる未来など夢物語にしか思えなかったからだ。
しかし貴き御方が、身体を張って逃げ続け、そして殿を務めると言っている。その姿に、武人として震えるものがあった。世迷言でも良い、人間に一泡吹かせてやりたい。
そう思いつくと勝手に脚が動いていた。
「は、はあああああーーーー!!どきなさいっっっ!!」
片耳が木板に目掛けて走り出す。その勢いはまさに獅子の如しであった。身体を丸めて板に体当たりをすると、雨で緩んでいた柵が倒れた。後ろから歓声があがる。
「逃げなさい!コタロウ様が言う、西へと走るのです!!!」
え.....片耳、アナタ雌だったの....?と思いながら、吾輩は矢を避けつつ、皆が逃げ出すのを見守った。びっこが一番遅いが大丈夫だろうか。幸いにしてまだ人間には気付かれていない。何とかなるだろう。
「早く西へ走るでござるっっ!小山城の西には思川という河川があるはず!!思川に飛び込んで南へ行けでござるっ!!」
「「「は、はい!!!」」」
皆は西へ向かったようだ。もう十分に時を稼いだだろう。今度は吾輩の番。最後と決めた矢を躱すと、華麗に木柵をすり抜けるーーーはずが....
「ぐほっ....www 存外に狭かったでござるwww」
無様にも脚をジタバタさせ、身体を捻ってなんとか木板をすり抜けることができた。よかった、ここで吾輩だけ捕り物になるのはみっともない。後世の笑い話になること必至。
ーーあ!!!おい、赤柴が逃げるぞ!!!
ーーな、なんと....今までそんな素振りもなかったと言うのに
ーー高朝様!!!犬が、犬が皆逃げております!!
人間たちもようやく気が付いたようだ。しかしもう遅い。この斜面を滑り降りれば河川は目と鼻の先のはず。人間は川まで追ってこれまい。
思川に辿り着くと、片耳やびっこたちが立ちすくんでいた。
なるほど、昨晩からの雨で少し水嵩が増しているように見える。普段の水量は分からないが、水が引いているようには見えなかったからだ。ザアザアという川の音が、耳を刺激する。
「おお...貴き御方の言う通り、川がある....」
「こ、これは.....」
「こげな大きい川、怖いべよ.....」
「飛び込むぞ!!!」
吾輩はそう叫び、川に飛び込んだ。ポチャン、ポチョンと、なんとも締まらない音が聞こえる。皆続いたか。これでもう大丈夫だろう。後は川の流れに身を任せるだけ。
この者たちのため、見つけねばならぬ.....新天地を。
*お断り
びっこという表現は差別的な意味合いを込めて書いている訳ではありません。所詮は犬同士の話ですので、あしからず、ご理解ください。