芥川龍之介の歯車を読んだ
題の通り。
歯車以外も芥川龍之介の作品を少し読んだ。
しかしながら読んだというのも『トロッコ』や『鼻』でもなく『遺書』と『羅生門の後に』なので、あまり「芥川龍之介の小説」を読んだというわけにはならないと思うが、それでもあの奇妙な『歯車』は読み終わった。
そもそもどうして『羅生門』なんかを高校の教科書に掲載する芥川龍之介の小説を読んだのか。
キッカケは一冊の古い型の電子辞書だった。
2021年にもなれば電子辞書が十数年前の産物になりもする。よく使っていた当初は辞書を超えた最先端のアイテムと思っていたのに。
遠い昔に買ってもらったか、譲り受けたそれはある日電源がつかなくなった。
電池の交換の仕方も知らなかった私は誰に相談することもなく、その電子辞書を使わなくなった。もともとスマホが普及し始めていたので、使うとしても塾くらいなものだったから。
それから何年か経って電池の交換が簡単にできるくらい成長した私は久々に棚の隙間から落っことして、その電子辞書と再会した。
落として壊れてしまったのかを調べようと、単四電池を交換して、電源をつけると荒いコンピュータの画面が映った。
ちょっとばかり昔のことを思い返して郷愁に浸りながら、ボタンを弄ってると、【趣味】というジャンルに【日本文学1000選】という何やら興味深いものを見つけたのだ。
2年くらい前から、何に触発されたのだったか、小説もどきを書き始めた私にとって、明治や大正の文豪というのはまさに『小説家』、日本文学始まりのプレイヤーたちと畏敬と共に敬う存在だ。(古典まで遡れば始まりというのは違ってくるのだろうが、彼らこそ人々が思う『小説家』の代表例であるのは変わりないだろう)
それでもって、私は思わず開いてみた。
私の知ってる偉人はいるのだろうか、いやいるには違いないのだろうけど。
なんというのだろうか、この電子辞書の中に羅列される彼らの名簿表、或いは名墓標はある種悪趣味なコレクションのようであり、また一方で近代文学という舞台で活躍した役者たちのエンドロールのようですらあった。
その英雄豪傑偉人狂人の如く煮え繰り返った文豪で一番最初に目に入ったのが「芥川龍之介」だった。
まるで1人だけ異質に浮かび上がってるかのように、何とも言わず、けれどもその主張を目からこぼすことなんて許されないといった具合だった。
いや、そんな神秘的な理由ではないはずだ。たまたま辞書がアイウエオ順だったからというのもあるだろう。
上から、1番目は「愛知敬一」、2番目は「会津八一」、3番目は「饗庭篁村」、4番目は「青柳喜兵衛」、そして5番目に「芥川龍之介」である。
正直、この上から5人の中で一番輝いて見えたのは芥川龍之介だった。他の4人のことを知らなさすぎたというのもあるし、芥川龍之介が有名であったからだろう。饗庭の読み方すら私には分からなかった。
上も下も有名であるだろう偉人の中で、それでも私の中では彼が一番だった。
彼の作品を見てみた。思えば自分はまるで彼を偉人のように扱っているけれども、ーー彼以外のことも何も知らずとも軽薄に尊敬してるけれどもーー彼の書いた作品で知ってるものなんて片手で足りるようだった。
『羅生門』『鼻』『トロッコ』なんとなく知ってる短編たち。それ以外には何があっただろうか。
そう思った頃から妙な予感というか義務感があったような気がした。私はこれから芥川龍之介の作品を何かしら読む、という漠然とした思い。
それで一番最初に読んだのが『歯車』だった。
『アグニの神』や『あばばばば』など惹かれる題名は沢山あったが、その物質的な題名の方を読み始めていた。
読み込む。
読み込む。
紙媒体でないことが恨まれる光の強い小画面で。
レエン・コオトの男。
歯車の幻覚。
もぐら、mole、la Mort。
牧羊神。
『罪と罰』
『暗夜行路』
『イカロスの翼』
全編通して死や絶望感を表すような象徴が多かったように思われる。最後の言葉からも死を感じさせられた。
そして、芥川龍之介の知識量と感受性の高さを知った。
インターネットの発達した今だからこそ彼の引用した言葉の数々、書物の数々は理解できるが、あの時代にあれ全ての詳細を読み解けた読者はいたのだろうか。
英語だけでなくフランス語にまで及ぶ連想語。太宰治が芥川龍之介に心酔していたとかいう逸話があるのも理解できる。
「もぐら」という単語を英語に直して「mole」、さらにフランス語の似た発音の言葉で「la Mort」とまで拡大解釈して己の人生がどうなるかを悲観的に予想していた。
歯車の主人公は歯車が見えるという幻覚症状を患っていた。というのにその歯車を不気味がることはせども、逃げようとか、治そうとする意思は感じられなかった。まるでもう手遅れと諦めてるかのように。
膨大な知恵と知識の渦に自ら飲まれ、狂人であることに溺れたようであった。
昔の小説というだけあって、なかなかわかりにくい心情や会話は多かったけれども、天才の目を通してみた風景を見たような気がした。
理解しづらくはあるけど、面白かった。
これまであまり体験したことのなかった面白さだ。
死んでしまったのは惜しいけれど、この小説が多くの意味を持つようにはなったと思う。
『遺書』が死んだ後を淡々と整理する話なら、『歯車』は死に至るまでの動向を散らばせて置く話のようだった。
死ぬ動機、とまでは行かなくとも、あぁこんなことを思って死んでしまったのか、と思わせてくれる一作だった。
レエン・コオトの男とはいったい何だったのか、色々と謎が回収されないままなところもあの時代のらしさ、なのだろうか?
今度また機会があれば、『ある阿呆の一生』か『アグニの神』を読みたいと思う。
芥川龍之介という人をよく知るためにか、はたまた純粋に小説を楽しむためか、そんな動機と目的が混在しながらではあるが。